☆76かいめ☆ 煮えた泉と泡立つ泉
カポーン。
どこからともなく響く、小気味良い音と立ち込める白い湯気。
ガラス戸を抜けた先に広がっていたのは、ラビリスの想像を遥かに超える巨大な空間だった。
無数に並ぶ洗い場、絶え間なく溢れ出るお湯の音、そしてあちこちで談笑しながらくつろぐ大勢の無防備な民たち。
「こ、これはなんという広さじゃ……!この広大な空間すべてが風呂場じゃというのか!」
「そだよー。あ、ラビちゃんこっち来てねー」
タオルを胸元でギュッと握りしめ、驚きと困惑でポカンと口を開けたまま立ち尽くすラビリス。
ヒナに呼ばれ、警戒しつつもちょこちょこと近づいていく。
ザバァッ!
「ひゃうっ!?」
「あ、ごめんごめん!ビックリした?」
ヒナの下へと辿り着いた瞬間、いきなり小さな手桶でお湯を掛けられ、ラビリスはビクッと肩を跳ねさせた。
「な、なんじゃ突然!?」
「とりあえず銭湯に来たら、最初にお湯でパパッと体を流すんだよ。それをしてから湯船に入るのが、ここのお約束って感じ!」
「ふむ、そうなのか。……しかし、それぐらい自分でできるゆえ、ヒナも自分の体を流すがよい」
そう言ってヒナから桶を受け取ると、ラビリスはキョロキョロと辺りを見回しながら、見よう見まねでパシャパシャと自分の体にお湯を掛け始めた。
「しかし、とんでもない広さじゃな。いつぞやの『しょっぴんもーる』?とやらにも驚いたが、ここは室内すべてが風呂なのじゃな……」
「ふふん。室内だけじゃないんだなー、これが!」
ヒナは得意げに人差し指を立ててみせる。
「外にもお風呂があってさ、夜風に当たりながら入るのとかマジで天国だから!」
「なっ……!?」
『外にも風呂がある』。
その衝撃的な言葉に、ラビリスは持っていた手桶を戦慄と共に落とした。
「ぜ、全裸で外に出るというのか!?馬鹿なのか!?いや狂っておるのか!?」
「あっはは!ラビちゃん言い方!それじゃただの露出狂じゃん!」
腹を抱えてケラケラと大笑いするヒナに対し、ラビリスは真剣そのものだ。
脱衣所で目撃した『おば様たち』の威風堂々たる姿が、再び脳裏をよぎる。
「その通りではないか!ま、まさか……この国の住人はすでにその次元にまで達しておるというのか……!?よ、余もその仲間に加えられるというのか……?」
フェイスタオルを必死に抱きしめ、ガタガタと震え出す魔王の娘。
「待って待って、それガチで誤解だから!『露天風呂』ってのがあって、上は空が見えるけど、周りはちゃーんと高い壁とか岩で囲まれてんの!外からは1ミリも見えないようになってるから安心しなって!」
ヒナは涙を拭いながら、必死に日本の温泉施設の安全性を説くのだった。
「ま、露天風呂は後で挑戦するとして……まずはそこのお風呂に入ろっか!このままここに立ってたら風邪ひいちゃうし!」
「う、うむ、そうじゃな。……後で行くのか、外に」
チラリと曇りガラスの向こうの露天エリアを一瞥し、この後の過酷な(?)予定に一抹の不安を覚えながらも、ラビリスは大きな湯船へと向かうヒナの背中を追った。
「おぉ、なんと大きな湯舟じゃ……。これならドラゴンの子供でも悠々と入れるのではないか?」
たっぷりと張られたお湯が波打つ巨大な浴槽を前に、ラビリスは感心したように呟いた。
「ふふっ、なにそれウケる!お風呂入るドラゴンとか、想像したらちょっと可愛いんだけど!うん、確かにこの広さならワンチャンドラゴン連れてきてもいけるっしょ!」
ヒナは魔王の娘の大真面目な考察を微笑ましく受け取り、ケラケラと笑う。
「うむ。あやつらは巨体ゆえ、日々の水浴びも一苦労じゃからのぅ。……む?しかしよく見ると、この大きな湯船はいくつかの区画に分かれておるな」
「そそ。浴槽ごとに温度が違ったり、お湯の種類が――」
ヒナがスーパー銭湯ならではのシステムを説明しようとした、まさにその時だった。
「では、さっそく失礼して……」
ラビリスはヒナの説明を最後まで聞く前に、一番手前にあった湯船へ、ためらいもなく小さな右足を突っ込んだ。
「あ、ラビちゃんそこは――」
チャポン。
その直後。
ピタッとラビリスの動きが完全に停止し、全身の毛が総毛立つ。
「んあっつぅぅぅぅぅうう!!!」
魔王の娘の苦悶の咆哮が広大な大浴場に轟き渡った。
慌ててお湯から足を引っこ抜き、片足でピョンピョンと飛び跳ねながら、真っ赤に茹で上がった右足を必死に抱え込むラビリス。
「だ、大丈夫!?……く、ふふっ…… そこ、一番熱いから気をつけてって言おうとしたのにー!」
心配よりも先に笑いが堪えきれなくなって吹き出すヒナ。
「なんじゃこの熱さは!?煮えたぎっておるぞ!これでは本当にドラゴン用の風呂ではないか!!」
両目にうっすらと涙を浮かべながら、ラビリスは真っ赤な顔で抗議の声を上げた。
「はぁ~、ウケる……ふふっ……。えっとね、そっちから順番に熱いお風呂が並んでるから、次はこっちのに入るといいよ!ここはガチでサイコーだから!」
「おのれ……。あんなもの、もはや風呂ではなくただの苦行ではないか……」
真っ赤になった右足をさすり、ぶつぶつと文句をこぼしながら、ラビリスはヒナが指差した浴槽をおずおずと覗き込んだ。
すると、澄んだお湯の底から無数の細かな泡がポコポコと絶え間なく湧き上がり、水面で弾けているではないか。
「……む?」
ラビリスの動きが再びピタリと止まる。
そして、ジト目で隣のギャルを睨みつけた。
「おい、ヒナ。そなた、この上さらに余を騙し討ちにするつもりか?見ろ、ここも完全に煮えたぎっておるではないか!マグマのように沸騰しておるぞ!」
「ん〜、期待通りのいい反応だねぇ」
後ずさる魔王の娘を見て、ヒナはニヤニヤと悪戯っぽく笑う。
「でもそれ、煮えてるんじゃなくて『炭酸』なんだよ。お湯がシュワシュワしてんの」
「たんさん?……とは、あの喉がパチパチとする、あの『炭酸』か?」
「そそ!あれのお風呂バージョン!なんか体にいいらしいし、あとこれに入るとマジでお肌がつるっつるになるからいっぺん入ってみなよ!アタシも入るし!」
「お肌が……つるつる、じゃと?……しかし、あの炭酸を風呂にするとは。肌が痛くなりそうなものじゃが……」
その魅惑的な響きと予測される肌への刺激。
魔王の娘の胸の奥が、乙女心と警戒心の間で揺れ動き始めた。
「ほら、ラビちゃんもおいで!めっちゃ気持ちいいよ!」
ザバァッと心地よい水音を立てて先に入ったヒナが、肩までお湯に浸かりながら極楽そうな顔で手招きをする。
その様子を見て安心したのか、ラビリスはようやくギュッと強張らせていた肩の力を抜いた。
「ふ、ふん。余の肌はすでに玉のようにつるつるじゃが、そこまで言うのであれば入ってやろうではないか」
魔王の娘としての威厳(?)を保つようにツンと顎を上げつつも、先ほどの悲劇を思い出しながら、恐る恐る足先だけをお湯へとつける。
チャポ……。
(……むむ?)
身構えていたような熱さはない。
むしろ先ほどの風呂とは打って変わって、少しぬるめの優しいお湯が魔王の娘の小さな足を包み込んだ。
炭酸泉特有の、長湯しやすい絶妙な温度設定である。
心地よい温度を完全に理解したラビリスは、ヒナに教わった通りタオルをちょこんと頭の上に乗せると、ゆっくりと全身を湯舟の中に沈めていった。
シュワシュワと肌にまとわりつく細かな泡のくすぐったい感触と、体の芯からじんわりと解きほぐされていく極上の癒やし。
完全に警戒心を失った魔王の娘の口から、たまらず声が漏れる。
「んふぅ〜……っ」
それは、日々の「魔王の娘」としての振る舞いも、今日の過酷な訓練での疲れも、すべてがお湯に溶け出してしまったような、完全にだらけきった幸せそうな声だった。




