☆75かいめ☆ 防具無き戦場へ。湯気の中に消えゆく小さな覚悟
「んじゃ、また後でな。ラビリス、楽しんでこいよ」
紺色と赤色の暖簾が並ぶ、大浴場の入り口。
大地は男湯の方へと歩みを進めながら、女湯へと向かうラビリスとヒナに声をかけた。
「うむ!」「はぁーい」
意気揚々と赤い暖簾をくぐっていく小さな背中を見送りつつ、大地は続いて入ろうとするヒナに向けて、ちょいちょいと手招きをした。
ペタペタとヒナが不思議そうに小走りで戻ってくる。
「どったの?忘れ物?」
「あぁ、いや。……知っての通り、ラビリスは銭湯に来るの自体が初めてなんだよ。勝手がわからなくて変なことするかもしれないから……申し訳ないけど、中ではしっかり見ててやってくれないか?」
家のお風呂とは違い、見知らぬ他人が大勢いる特殊な空間だ。
テンションが上がって泳ぎ出したり、周りの客とトラブルになったりしないか心配は尽きない。
完全に『初めてのおつかいを見守る父親』のような顔になっている大地の頼みに、ヒナはニッと白い歯を見せて笑い、ドンッと自分の胸を叩いた。
「おけおけ!任しといてよ!むしろラビちゃんの初銭湯を一番近くで見守れるとか、アタシにとっちゃ神イベすぎるっしょ!」
茶髪を揺らしながら奥へと消えていく頼もしい背中を見送ると、大地は隣に立つ蓮へと向き直った。
「じゃあ俺たちも――」
「……次に会うときは『湯上がりのラビリスちゃん』という、レア形態を拝めるわけですか。湯気でほんのり染まった頬、フルーツ牛乳を両手で持つ姿など、また新たな『尊さ』のデータが観測できそうですね……実に興味深い」
蓮は顎に手を当て、黒縁メガネをキラリと光らせながら真剣な表情でブツブツと呟いている。
「お前、言い方が完全に不審者のそれだからな。……さ、行くぞ」
大地の呆れたツッコミにも動じることなく推しの新規イベントの幻覚をすでに見始めている蓮を促し、二人は紺色の暖簾をくぐった。
脱衣所に足を踏み入れた途端、ラビリスは目を丸くして感嘆の声を上げた。
「おぉぉぉ……!広い、広いぞ!……なるほど、ここで着替えをするわけか。我が居城とは別次元の広さじゃな」
ズラリと並ぶロッカーや大きな鏡が設置された洗面台の数々に圧倒され、キョロキョロと周囲を見渡す魔王の娘。
「あはは!そりゃお家のに比べたらね!」
ヒナが笑いながらロッカーの鍵を開けようとした、その時だった。
「なっ!?……ヒ、ヒ、ヒナ!あ、あやつ、恥じらいもなく一糸纏わぬ姿で堂々と歩いておるぞ!?」
ラビリスが震える指で指し示した先には、バスタオルも羽織らず、腰に手を当てて堂々と扇風機の風を全身で浴びている恰幅の良いおば様の姿があった。
異世界から来た魔王の娘にとって、その圧倒的な防御力0の立ち姿は衝撃的過ぎたらしい。
「あーね……。ま、あの年頃のおば様たちは大体あんな感じだから。アタシらがあのレベルになるにはまだまだ修行が足りないよねー」
「なるほど、あれもまた一つの到達点ということか……。余は絶対にごめんじゃが」
JKによる謎の解説に、ラビリスは真顔になってドン引きしていた。
ヒナは「あはは!」と無邪気に笑うと、隣同士で空いているロッカーをポンポンと叩いた。
「よし、じゃあアタシらもパパッと脱いで中入っちゃお!」
「う、うむ……」
未知の空間と『到達点』の圧に少し気圧されつつも、ラビリスはコクりと頷き、おずおずと自分の服の裾に手をかけた。
「あ、ラビちゃんストップ!」
服を脱ぎ始めようとしたラビリスを、ヒナが慌てて制止した。
「む?なんじゃ?」
「先に髪の毛アップにしちゃお!お湯に髪つけんの、こういう銭湯だとガチでNGだからさ」
「ふむ、そうなのか。郷に入っては郷に従えというやつじゃな」
ヒナは自分のバッグからヘアゴムを取り出すと、ラビリスの後ろに回って彼女の三つ編みを優しく解き始めた。
「……ってかコンビニで会ったときから思ってたんだけど、この髪って自分でやったの?編み込みのバランスとかマジで綺麗なんだけど」
「これは大……パパが結ったものじゃ。昔、あやつの姉君に散々手伝わされたと言うておったな」
「えー、意外すぎる!店長、手先器用だったんだ。……ってか、ラビちゃん髪の毛マジでサラッサラ!ヤバッ、超キレイ!」
ヒナは指通り滑らかなラビリスの銀髪に感動の声を上げながら、手際よくクルクルと髪をまとめ上げていく。
「……ちょっと解くの勿体なかったけど、可愛くお団子にしてあげるね!」
「う、うむ。……苦しゅうないぞ」
頭を触られ、少しくすぐったそうに肩をすくめるラビリス。
ヒナの華麗な手捌きによって、魔王の娘はあっという間にお風呂用『アップスタイル』へと可愛らしく変身を遂げたのだった。
――数分後。
「よ、よし!それでは参るとするか!」
服を脱ぎ終わったラビリスは、自分の小さな体をすっぽりと覆い隠す巨大なバスタオルをマントのようにギュッと握りしめ、もじもじしながらも気合を入れた。
未知の領域へと足を踏み入れるべく、決意を固める魔王の娘。
しかし、そこにヒナの無情な声が飛ぶ。
「あ、ラビちゃんちょい待ち!バスタオルは中に持ってっちゃダメなんだよ?」
「なっ……!?」
言いながら、ヒナは大地から預かっていたラビリス用のトートバッグをゴソゴソと漁り始めた。
「えーっと、お風呂の中に持って入る用のは……あ、あった!これこれ!こっち!」
「っ!?」
笑顔のヒナから手渡されたのは、薄くて小さなフェイスタオル一枚だった。
ラビリスは手の中のペラペラの布を数秒見つめると、顔を真っ赤にしてワナワナと震え出した。
「こ、こここ、こんな布切れ一枚で、あの群衆の中に飛び込めと!?」
だが、ヒナの悪気のないマナー指南はさらにラビリスを追い詰めていく。
「そそ!あ、でもそのタオルも湯船には浸けちゃダメだかんね!頭の上に乗せるとかしてねー」
(馬鹿な!風呂とはいえ、扉の向こうには見知らぬ者が無数におるのじゃぞ!?唯一の防具すら機能しないというのか……!)
頼りないペラペラのフェイスタオルを両手でギュッと握りしめ、魔王の娘は戦慄した。
「んじゃ、行こっか!」
そんな彼女の葛藤などつゆ知らず、ヒナはあっけらかんとした様子で大浴場へのガラス戸へと向かっていく。
その堂々たる背中を見つめながら、ラビリスの脳内では壮大な哲学的な疑問が渦巻いていた。
(……普段は皆、衣服という名の鎧で己の身を厳重に守っておるというのに。場所が『すーぱーせんとー』に変わったというだけで、人間はこうも無防備になれるというのか!?この世界の者どもの思考が全く理解できぬ!)
「ほらラビちゃん!早く早くー!」
ガラリとガラス戸が開く。
もうもうと立ち込める真っ白な湯気と、響き渡る無数の水音。
そしてその向こうから、ヒナが呑気に手招きをしている。
もはや退路は絶たれた。
大地の「楽しんでこい」という言葉が脳裏をよぎる。
(えぇい、ままよ……ッ!!)
ラビリスはギュッと目を瞑り、極小の布切れで必死に前を隠しながら、決死の覚悟で真っ白な湯気の中へと飛び込んでいくのだった。




