☆72かいめ☆ 夕暮れの帰還と気怠げな刺客
「お~い、そろそろ帰るぞ~」
オレンジ色に染まり始めた空の下、ベンチでコーヒーをすすっていた大地ののんびりとした声が公園に響く。
彼は立ち上がり、懲りずに再びターザンロープに挑んでいた小さな背中へ向かって手を振った。
あの後、しばらくは大地も一緒にいくつかのアスレチックを楽しんでいた。
しかし、日頃の運動不足が祟った中年男性の体力は悲しいほどにあっさりと底を尽き、早々に『見守り隊(兼・宙ぶらりんになった魔王の娘の救出係)』と化していたのである。
「む?……もうそんな時間か」
大地の声に気づいたラビリスが、トテトテとこちらへ駆け寄ってくる。
その額にはうっすらと汗がにじみ、服のあちこちには名誉の負傷のごとく白い砂埃が付着していた。
「まだ訓練に励んでおる者もおるぞ?……余もようやっとあの装置に慣れ始めたところなんじゃが」
言いながら、彼女は少し名残惜しそうに夕日に照らされた巨大なアスレチックへと振り返った。
「元気すぎんだろ……。つってもだいぶ日も傾いてきたしな。ま、気に入ったんならまた連れてきてやるから今日は帰ろうぜ」
「ふむ。……ならば、今日のところはこれで引き上げるとするか」
『また連れてくる』という大地の言葉に安心したのか、ラビリスは素直に頷いた。
「……あ。今度来るときはこないだ店に連れてきてた子たちも呼んでやったらどうだ?まぁ、向こうの家の許可が下りればだけど」
「なに、まことか!?」
その提案を聞いた瞬間、ラビリスはパッと顔を輝かせた。
しかし、すぐにハッとして慌てて口元を手で覆い、わざとらしく「コホン」と咳払いをする。
「……あぁ、いや。そ、そういうことであれば、余が直々にあやつらをここで鍛え上げてやらねばなるまいな」
さっきまでの名残惜しさはどこへやら。
ラビリスはエヘヘとだらしなく緩みそうになる口元を必死に引き締めながら、得意げに胸を張って見せた。
――帰りの車の中。
「さて、飯はどうすっかな……」
赤信号で車を停めた大地は、ハンドルに手を乗せたままポツリと呟いた。
ふと隣に視線をやると、助手席では過酷な訓練を終えた(遊び疲れた)魔王の娘が、シートベルトに包まれながら「すー、すー」と無防備な寝息を立てている。
「これから帰って作るって選択肢はないしな~」
(※注:彼は普段から滅多に自炊をしないため、そもそも最初からその選択肢は存在していません)
「お、そうだ!あそこで全部済ますか!……あ、いや、さすがにまだ無理か?いやでも、なんとかなる……か?」
謎の自問自答をしながら、ゆっくりと車を進める大地。
そんな彼をよそに、窓の外を流れる夕暮れの街灯が、助手席の小さな寝顔を等間隔に優しく照らしていた。
――数十分後。
「……ん、むにゃむにゃ。着いたのか?……余もちょうど今、冥界の視察が終わったわ」
車が停まった気配に気づき、目をこすりながらラビリスが目を覚ます。
「はいはいご苦労さん。……家にはまだ着いてないぞ、ちょっと店で買いたいもんがあってな」
「む?店じゃと?」
寝ぼけ眼のまま窓の外を確認すると、そこには見慣れた明かりが煌々と灯っていた。
そこは紛れもない、大地の勤めるコンビニの駐車場だった。
「ここはそなたが働く……えっと……『こんびに』なる城ではないか」
窓にペタリと張り付き、輝く看板を見上げてラビリスが呟く。
「あぁ。すぐ終わるから車でちょっと待ってろ」
「なに、余も行くぞ!そなた、余を置いて自分だけ美味いものでも食べるつもりであろう!?」
「別にそんなことしないって……。ただ、今日のシフトはお前のこと知らない奴が入ってるんだよなぁ」
(蓮やヒナだけならともかく、他の従業員に『隠し子』って設定で一から誤魔化すのは死ぬほど面倒くせぇ……)
内心で深くため息をつく大地だったが、食い気とプライドを刺激された魔王の娘は、ガチャッと自らシートベルトを外してふんぞり返った。
「ほぅ?魔王の娘たる余の存在を知らぬとは不届きな。なおのこと顔を見せに行かねばならぬな!」
「えぇ……。むしろ世の中、お前のこと知らない人の方が多いんだが……」
ポロロロロン♪
聞き慣れたのどかな入店チャイムの音が店内に響き渡る。
「いらっしゃいませー!……あ、店長!ラビちゃんも!どしたん!?」
自動ドアが開くや否や、レジの中から元気な声が飛んできた。
声の主は、茶髪を揺らして満面の笑みを浮かべるヒナだった。
「あぁ、ちょっと買い物にな」
「おぉ、ヒナではないか。苦しゅうないぞ」
ヒナの顔を見て少しホッとした様子の大地とは対照的に、ラビリスはふんぞり返って偉そうに頷く。
そのやりとりが聞こえたのか、奥のフライヤー室から蓮がヌッと顔を出した。
「いらっしゃいませ。お二人お揃いで、本日はどうされたのですか?」
彼は黒縁メガネを押し上げながら、恭しく問いかける。
「あぁ、さっきまでちょっと公園に行っててな。今からスーパー銭湯に行くのにシャンプーを買いにきたんだ」
「あー、わかる!備え付けのってなんか髪がバシバシになるもんね!ラビちゃんのこのサラツヤな髪はゼッタイ死守しないと!」
ヒナが激しく同意しながらぶんぶんと頷く。
一方、当のラビリスは聞き慣れない単語にキョトンと首を傾げていた。
「すーぱーせんとー?」
「あぁ、でっかい風呂屋だ。まぁ家では普通に入れるようになったし、なんとかなんだろ」
かつて風呂で暴れてた頃のことを思い出したのか、大地は苦笑交じりに答えた。
「え、いいなぁ~。……あ、そ~だ!アタシも連れてってよ!」
ヒナがレジから身を乗り出し、目を輝かせて提案する。
「や、その申し出はある意味ありがたいが、お前連れてくと社会的に色々マズいんだよな」
(ラビリスと一緒に入ってもらえるのはめちゃくちゃ助かるんだがなぁ……)
大地は内心で葛藤しつつも、顔を引きつらせて首を横に振った。
「はぁ?またそれ?別に銭湯くらいよくない!!?」
「いやいや、俺からしたら女子高生と連れ立って歩くのは、爆弾を持ち歩くのと一緒なんだって!」
「え~。……あ、じゃあ蓮パイも一緒にだったらどーよ!?」
ヒナがくるりと振り返り、フライヤー室にいる蓮へと視線を向ける。
「や、勝手に決めんなって。蓮にだって予定が――」
「仕方ありませんね。予定を組み直します」
大地の言葉に食い気味で、蓮がタイマーを素早く操作しながら即答した。
その声色に感情はこもっていないが、動きには一切の迷いがなかった。
「ノリノリかよ……」
推しの視察に同行できるとあって、瞬時に有能さとフットワークの軽さを発揮するアルバイト二人に、大地は深く、深くため息をついた。
「じゃあお前らが上がるまで待たないといけねぇのかよ……。それだったら、一旦家に着替えでも取りに帰るか。……行くぞ、ラビリス」
「なんじゃ、結局なにも買わぬのか?」
不思議そうに首を傾げるラビリスを促し、車に戻ろうと大地が振り返った――その瞬間。
「おわぁ!!?」
大地のすぐ真後ろで、一人の小さな女性が『無言』でちょこんと立って彼を見上げていた。
足音どころか気配すらなかったその不意打ちに、大地は思わず変な声を上げて後ずさる。
「……って、なんだ……神崎さんか。び、びっくりした……」
「……あ、お疲れ様ですー。……店長いるってことは、私もう上がってもいい感じですかね……?」
神崎は、半開きのジト目で大地を見上げながら、一切の抑揚がない平坦な声で言った。
手には品出し用の段ボール箱を軽々と抱えているが、その全身からは「面倒くさい」「帰りたい」というオーラが色濃く漂っている。
「え?いやいやいやいや、俺はただ買い物に来ただけだから!帰らないで!?」
「……あー、ダメですか。……せっかく早く帰って寝れると思ったのに……」
大地の必死の引き留めに対し、彼女はこれ見よがしに「はぁ……」と深く気怠げなため息をついた。
「む?貴様、初めて見る顔じゃな!?名を名乗るがよい!」
ビシッと指を突きつけてくる見知らぬ少女を、神崎は段ボール箱を抱えたまま「……んん?」とジト目で見下ろした。
そして、大地とラビリスの顔を面倒くさそうに交互に見比べる。
「……えーっと、私は『神崎 暦』。……てか店長、子供いたんですか?」
「あ、あぁ。実はな――」
大地が腹を括って面倒な説明に入ろうとした、次の瞬間。
「あ、説明は大丈夫です。どーでもいいんで」
「あ、そ、そう?」
見事なまでの秒速のシャットアウト。
他人のプライベートに対する圧倒的な無関心っぷりに、大地は拍子抜けして言葉を失った。
「じゃ、仕事戻りますねー。……戻りたくないけど」
最後の方は本人にしか聞こえないようなボソッとした声で呟き、暦はそのままペタペタと気怠げな足取りで立ち去ろうとする。
しかし、自らの威厳を完全にスルーされた魔王の娘が、これを黙って見過ごすはずがなかった。
「おい貴様!無礼であろう!待たぬか、余は魔王の娘じゃぞ!!」
背中に投げかけられた痛すぎる言葉に、暦はピタリと足を止める。
そして、首だけをゆっくりと振り返り、一切の感情が抜け落ちたような目で大地を見た。
「……え?てことは、店長魔王だったんですか。……こわ……」
「は?いや違う!これはそういうんじゃなくてだな!」
「……了解ですー」
大地の必死の弁明は、棒読みの平坦な相槌によって無慈悲に切り捨てられた。
暦はそれ以上一切の興味を失った様子で、再び前を向いてバックヤードへと消えていく。
「……了解されてねぇよ、絶対ヤバい奴だと思われただろ……」
説明する手間は省けたものの、結果的にさらなる風評被害を被った大地は、その場でガックリと肩を落とすのだった。




