☆18かいめ☆ 清めの儀式は命がけ
ガチャ。
暗いアパートの一室に、玄関の扉が開く音が響いた。
「ただいま……。はぁ、やっと帰ってきたな……」
大地は壁のスイッチを探り、照明をつけた。部屋がパッと明るくなる。
両手いっぱいの荷物を床に置くと、彼は吸い寄せられるようにソファへ体を沈めた。
「疲れた……。今日はもう、一歩も、一ミリも動きたくねぇ……」
口からは今日一日の疲れが滲み出る。
だが、その表情はいつもの仕事帰りのような疲弊感とは違っていた。
どっしりとした重みはあるが、どこか胸の奥が温かい、心地いい疲れ。
そんな実感を、彼はゆっくりと噛みしめていた。
続いて、巨大な『ウサギウス一世』を、折れそうな腕で懸命に抱えたラビリスが、おぼつかない足取りで入ってきた。
「……ふぅ。よし、着いたぞ、ウサギウスよ。ここが我らの当面の『居城』じゃ。狭く、むさ苦しいところじゃが……そこは主たる余の度量に免じて、しばし我慢せよ」
(言いたい放題だな……)
ラビリスは、ソファでぐったりしている大地を一瞥し、ふんと鼻を鳴らした。
それから、大地がいつも寝ている布団のそばまで歩いていくと、大きなぬいぐるみを慈しむように、ゆっくりと布団の上に座らせた。
「……うむ。ここならば、余の魔力供給も行き届こう。……よいか、ウサギウス。貴様はこの本営を守る要じゃ。主が眠る間、不届きな刺客が来ぬよう、しっかりと眼光を光らせておくのじゃぞ」
そう言って、彼女はウサギウスの長い耳を誇らしげに一撫でした。
殺風景だった男の一人暮らしの部屋に、場違いなほど真っ白でふわふわとした「新しい住人」が鎮座する。
その光景を見て、大地は「あぁ、本当に始まったんだな、この生活」と、改めて実感するのだった。
「よし。寝落ちして風邪でも引かれたら困る。……ラビリス、先に風呂に入ってこい」
「おぉ、大賛成じゃ!余の身も少々煤けておったからな。さっぱりしたい気分だったのじゃ」
「んじゃ、早速今日買ったお前用のシャンプー一式と、着替えの出番だな。湯を張ってる間に準備しよう」
大地は思い腰を叩きながら立ち上がると、給湯器のリモコンを操作し、そのまま足元に置いた買い物袋をガサゴソと漁り始めた。
中から取り出したのは、可愛らしいイラストが描かれたボトルのセット。
そして、肌触りの良さそうな淡いピンクのパジャマ。
最後に、レジで必死の思いをして手に入れた、例の「内なる鎧」の包みを恭しく取り出した。
「なっ……。大地、待て」
ラビリスは、差し出された小さな布切れの束を凝視し、眉間にしわを寄せた。
「……もう外出の予定はないのであろう?なぜ、これから眠りにつこうという時にまで、このような『内なる鎧』を纏わねばならぬのじゃ。窮屈ではないか」
「……いいか、よく聞け。……これは、眠っている間の『無防備な魂』を守るための聖域なんだ。……いや、そういう難しいことじゃなくて、とにかくこの世界の常識なんだ」
大地は、一瞬言葉に詰まりながらも、威厳を保とうと必死に声を張った。
「いつでも服の下に着ておく。それがこの世界の鉄の掟であり、淑女としての嗜みなんだ。たとえ居城の中であっても、これを欠かすことは、魔王が玉座に座らないのと同じくらい不自然なことなんだぞ」
「……む、むぅ……。魔王が玉座に座らぬ……じゃと?それは一大事ではないか」
ラビリスは大げさな比喩に気圧され、神妙な顔つきで「内なる鎧」を受け取った。
「よかろう。そこまで厳格な掟ならば、余も従わぬわけにはいくまい。……よし、大地!余はこれより身を清めてくる!貴様はここで、余の帰還を静かに待っておれ!」
「あぁ待て。まだ説明は終わってないし、風呂も沸いてない。ちょっとこっちに来い」
そう言って大地は手招きした。彼の前でラビリスがちょこんと屈む。
「……入る前にこれだけは覚えておけ。いいか、この世界の風呂には、守るべき三つの『掟』がある」
「三つの掟?」
大地はラビリスの前に、今日買ったばかりのボトルを三つ、厳かに並べた。
彼女は、見たこともない色鮮やかな容器を、好奇の目で見つめている。
「まずはこれだ。この『シャンプー』は、髪の汚れを落とすための薬。……お前の世界には泡立つ石鹸はあったか?」
「泡?いや、そのようなものはない。……余の世界では香油を塗り、水で流す程度であったな」
「そうか。でもこっちじゃこれを使うんだ。指の腹で頭皮を揉むと、モコモコと泡が出てくる。それが汚れを絡めとってくれるんだ。……で、それを綺麗に洗い流したら、次に使うのがこの『トリートメント』。こいつは髪を滑らかにするための、仕上げの魔力付与だと思っていい」
「ほぅ……。二段階の儀式というわけか。なかなかに手間をかけさせるな、この世界の風呂は」
彼は最後に、一番大きなボトルを指差した。
「これが『ボディソープ』。首から下の体を清めるためのものだ。……で、一番大事なのが、シャワーの使い方だ。ちょっとついてこい」
大地は浴室の扉を開け、蛇口から伸びるホースの先――シャワーヘッドを指し示した。
「……な、なんじゃ、その銀色に光る蛇の首のような物体は!貴様、余をこのような狭い空間に閉じ込め、魔獣に襲わせる気か!?」
「魔獣じゃない、シャワーだ。このレバーをひねると、こいつから、温かい雨が降り注ぐ。……お前の意思で、雨の強さも、温度も自由自在だ」
大地がレバーを軽く操作してみせると、ザァーッという音と共に水が放たれた。
「おぉぉ……!!空の機嫌を伺うこともなく、己の指先一つで温かな雨を降らせるとは。この世界の人間は天候の理すらも、このようなところに閉じ込めたというのか……!」
「そんな大層なもんじゃないけどな。……いいか?泡が残ってると、肌荒れの原因になる。この『温かい雨』で、隅々までしっかり洗い流すんだぞ。わかったな?」
「……う、うむ。承知した!三種の薬と、蛇の首から降る雨……。よかろう、この余が直々に、その未知なる清めの儀式、完遂してみせようではないか!!」
「よし、もうちょっとで風呂も沸くはずだ。最後は湯舟にしっかり浸かって温まるんだぞ?」
ラビリスは力強く頷き、大地から渡されたバスタオルを聖騎士の外套のように肩にかけると、鼻息も荒く、湯気が立ち上る戦場へと足を踏み入れた。
大地がソファで目を閉じ、ようやく静寂を噛みしめようとした瞬間だった。
浴室から、密閉されたドアを突き抜けてラビリスの悲鳴が飛んできた。
「ぬぉっ!?こ、この蛇の首、いきなり冷水を吐き出しおったぞ!温かい雨ではなかったのか!?騙したな!!」
「……あー、温かくなるまで最初は水なんだ。すまん、言うの忘れてた!」
大地は目をつむったまま声を上げる。
しばらくすると、「ザァァァー」という安定した水の音が響き、ラビリスの「ほぅ……心地よいではないか……」という感心したような声が漏れ聞こえてきた。
だが、安穏とした時間は長くは続かない。
「なっ……なんじゃ、この『しゃんぷー』とやらは!撫でれば撫でるほど、白い泡が膨れ上がっていくぞ!待て、増えるな!余の視界を奪う気か!!ぐぬぬ、目が、目がぁぁぁ!!」
「あー、目に入ったか。……シャワーで流せ、シャワーで!」
「おのれ……っ!貴様、この泡で余の目を封じ、その隙に……!……む、むぅ……。おぉ、流れた。……ふぅ、危ないところであったわ」
しばらくすると、次は困惑の叫びが聞こえてきた。
「この『とりーとめんと』とやらは、いつまで流せばよいのじゃ!?永遠にヌルヌルしておるぞ!」
「……めちゃくちゃわかる。雰囲気で掴め!お前ならできる!」
(正直、俺も正解がわかってねぇんだよな……)
バッタン、ゴンと何かが壁に当たる音や、椅子が滑る音が部屋まで丸聞こえだ。
まるで浴室の中で小規模な戦争でも起きているかのような騒ぎである。
「……次は『ぼでぃそーぷ』じゃな。……む。……おぉ、これは……なんと芳しい花の香り……。ほほぅ。これは余の肌を優しく包み込む精霊の加護のようじゃ……。ふふん、悪くない。悪くないぞ……」
どうやらボディーソープの香りが気に入ったようだ。
その後も奮闘の声が続き、大地はそのたびに投げやりに、あるいは的確に指示を飛ばし続けた。
やがて、激しい水の音が止まり、静寂が訪れる。
どうやら湯舟に浸かったらしい。「んふぅ~」という気の抜けた声が聞こえてくる。
しばらく経った後、浴室の扉が開かれた音が響いた。
(……ようやく終わったか)
大地がそう思った矢先。
「だ、大地よ……!儀式は完遂した!じゃが……この『内なる鎧』の前後がわからぬ!どちらに脚を通せばよいのじゃ!?」
「……。……そこから教えなきゃダメかよ」
彼は深いため息をつき、ソファから重い腰を上げた。
どうやら、この「パパ」としての夜は、まだまだ終わりそうになさそうだ。




