第55話 忠実な侍女は国を滅ぼす
砂漠との国境近くに建つ辺境伯の館には、朝から赤い砂風が吹きつけていた。
古い石壁には長年の風で削られた跡が残り、庭に掲げられたソライアの旗も重たく揺れている。王国兵とザハル連邦の戦士たちは、互いに距離を取りながら鋭い視線を交わしていた。
会談室の長い卓には、公王フォルス陛下とモルト殿下、そしてこの地を治める辺境伯が並んでいる。
向かいに座るのは、ザハル連邦の赤砂派を代表するザイフという男だった。日に焼けた肌に砂色の長衣をまとい、腰には湾曲した剣を下げている。背後には黒衣の従者たちが並び、誰も表情を動かさなかった。
「我らはザハルを敵ではなく、隣人として共に歩みたい」
フォルス陛下は落ち着いた声で告げた。
けれど、ザイフは薄く目を細めただけだった。
「理屈はどうでもいい。我らが欲しいのは秩序だ」
「武力による支配を、秩序とは呼ばぬ」
「それは勝者が決めることだ」
短いやり取りのたび、会談室の緊張が増していく。
モルト殿下は頬杖をつきながらも、視線だけは周囲を警戒していた。
ふと、窓の外へ目を向ける。
砂丘の影で、黒い布のようなものが揺れた。
(あれは……砂漠の傭兵団? なぜここに……)
椅子から立ち上がろうとした、その瞬間だった。
「……ぐっ……!」
フォルス陛下が喉を押さえ、苦しそうに顔を歪める。
「父上!」
モルト殿下が駆け寄ろうとする。
ザイフは椅子に座ったまま、冷たい笑みを浮かべた。
「油断したな、フォルス王。貴様の国は今日、終わる」
「貴様……!」
モルト殿下の前へ、辺境伯が割り込んだ。
「殿下、下がってください!」
「どいてくれ! 父上が!」
辺境伯が顔を上げたとき、首筋に黒い紋様が浮かんでいた。
狼牙を使い続けた者に現れる、変色した血管。
モルト殿下が息を呑む。
「まさか、お前も……」
次の瞬間、轟音が館を揺らした。
窓が砕け、黒衣の兵たちが会談室へなだれ込む。投げ込まれた火薬が床で弾け、壁際の布に炎が燃え移った。
「公王を狙え!」
「父上を助けないと……!」
モルト殿下が手を伸ばすが、辺境伯の兵に両腕をつかまれた。
「殿下、ここは危険です! 退避を!」
「離せ! 父上がまだ中にいる!」
フォルス陛下は煙の中で膝をつきながらも、息子へ手を伸ばしていた。
「モルト……行け……!」
「嫌だ! 父上!」
炎が天井へ広がり、陛下の姿を隠していく。
その向こうで、ザイフがゆっくりと立ち上がった。
「真の平和には、血が必要なのさ」
モルト殿下は抵抗し続けたが、護衛兵たちに抱えられるようにして館から連れ出された。
赤い砂風が吹きつけ、焼け焦げた王国旗が地面へ落ちた。
◇
数日後の夜。
王城の謁見の間に、砂と血の匂いが流れ込んだ。
重い扉の向こうから現れたモルト殿下は、歩くことさえ難しい状態だった。外套は裂け、肩には深い傷がある。明るかった青い瞳も、今は疲労と絶望に沈んでいた。
私とノエル、そしてマルグリット王妃が駆け寄る。
モルト殿下は玉座の前まで進むと、その場に膝をついた。
「……父上が……砂漠の奴らに殺された」
「そんな……」
マルグリット王妃は口元を押さえ、床へ崩れ落ちた。
「そんなはずありません……陛下が……」
ノエルは何も言えず、拳を固く握っている。爪が食い込み、手のひらから血が滲んでいた。
「父上が……」
かすれた声だった。
私はそっと彼の背へ手を添える。
「ノエル……あなたのせいじゃないわ」
そのとき、乾いた音がした。
モルト殿下の外套の内側で、何かが動いている。
「動かないで!」
私はすぐに前へ出た。
肩口から這い出したのは、黒い甲殻を持つ小さなサソリだった。尾の先には毒針があり、灯火を受けて鈍く光っている。
「黒砂サソリ……!」
手近な布をかぶせ、床へ押さえつける。
「砂漠に生息する猛毒種です。特定の香辛料の匂いで興奮して、人を襲う習性がある」
モルト殿下の顔が強張る。
「逃げる途中、辺境伯の兵から食料袋を渡された。まさか、その中に……」
「辺境伯は完全に砂漠側へ寝返っていたのでしょう。逃げ延びた殿下まで殺すつもりだった」
「父上も……この毒で……?」
私は返事に迷った。
けれど、曖昧にすることはできない。
「可能性は高いです。黒砂サソリの毒は、量によっては短時間で命を奪います」
モルト殿下は目を閉じ、肩を震わせた。
「……マリー、助かった。お前がいてくれて……よかった」
ノエルが静かに立ち上がる。
赤い瞳には悲しみと怒りが宿っていたが、声は冷静だった。
「国境の防備を固めろ。王都へ続く街道を封鎖し、辺境の住民を避難させる」
近衛兵たちが姿勢を正す。
「戦争が始まる」
◇
出陣前夜、王城は戦支度に追われていた。
兵士たちの掛け声や、武具を運ぶ音が廊下に響いている。
その喧騒から離れたノエルの部屋だけは、静かだった。
ノエルは銀色の胸当てを身につけ、剣帯を整えている。いつもの黒い服とは違い、全身を守る重い鎧姿だ。
私は薬箱を抱え、扉を閉めた。
「私は後方で、負傷兵の治療にあたります」
「ああ。よろしく頼む」
ノエルは振り返り、穏やかに笑った。
父親を失ったばかりなのに、その悲しみを押し隠しているのが分かる。
私は彼の胸当てにそっと触れた。
「気を張りすぎないで。あなたが倒れたら、皆が困るわ」
「お前に心配されると、不思議と力が出る」
「それなら、何度でも心配します」
ノエルの手を取る。
冷たい甲冑の下から、確かな体温が伝わってきた。
「必ず帰ってきて」
「お前を置いていくわけがない」
ノエルは私の手を握り返し、そのまま肩を抱き寄せた。
胸当ては硬く冷たかったけれど、背中へ回された腕は優しかった。
「怖いか?」
「怖いです」
私は正直に答えた。
「でも、ノエルが戦うなら、私も薬師としてできることをします」
「無茶だけはするな」
「それはノエルもです」
顔を上げると、ノエルの視線と重なる。
彼は私の額へ口づけを落としたあと、名残惜しそうに髪へ指を通した。
「約束だ。二人とも、生きて戻る」
「はい」
◇
翌日の昼、国境砦に角笛が鳴り響いた。
赤い砂塵の向こうから、ザハルの軍勢が押し寄せる。赤砂派の戦士たちに加え、黒衣をまとった黒月派の兵も混じっていた。
砦の一角が爆発し、石片が飛び散る。
「王都からの増援が間に合いません!」
「持ちこたえろ! ここを抜かれれば、背後の町が襲われる!」
ノエルは前線で剣を振るいながら、兵士たちへ指示を出していた。
私は後方の治療所で、次々と運び込まれる負傷兵を診ていた。
「この傷は縫合を。そちらの人は止血を優先して!」
薬草を砕き、傷口へ押し当てる。
「血が……止まった……」
「まだ動かないで。薬が効くまで横になっていてください」
そのとき、遠くで巨大な爆発が起きた。
地面が揺れ、治療所の天幕が大きくはためく。
「モルト殿下の軍、音信不通です!」
伝令の声に、前線のノエルが顔を上げた。
「モルト……!」
その直後、砂煙の中から一人の女性が歩いてきた。
淡い色のドレスをまとい、足元も定まらない。
「……母上?」
ノエルが剣を下ろす。
アルマ妃だった。
瞳はうつろで、まるで意識がないまま歩いているように見える。
「なぜここに? 護衛はどうした! 危険です、戻ってください!」
「ノエル……私のノエル……」
アルマ妃が手を伸ばす。
ノエルも母親を支えようと近づいた。
その瞬間、彼女の袖口から黒い影が飛び出した。
「ノエル!」
黒砂サソリの針が、ノエルの首筋へ深く刺さる。
ノエルの体が硬直し、その場に膝をついた。
「な……ぜ……母上……」
アルマ妃は苦しそうに顔を歪めると、そのまま地面へ崩れ落ちた。
頬を一筋の涙が伝う。
「母上! しっかりしてください!」
ノエルは震える腕で母親を抱き寄せる。
けれど、その呼吸も急速に浅くなっていた。
「ふふふ。ようやく油断したわね」
聞き慣れた女の声が、砂塵の向こうから響く。
現れたのは、黒いヴェールをまとったイーラだった。
いつもの穏やかな侍女長の姿はどこにもない。冷たい笑みを浮かべ、倒れたノエルを見下ろしている。
「イーラ……なぜここに……避難を……」
「まだ私を心配するの?」
イーラは足元の黒砂サソリを踏み潰した。
「その毒は、私が潜ませておいたのよ。あなたを倒すために」
「な……にを言って……」
私の声が震える。
イーラは楽しそうに目を細めた。
「あなたに刺さった毒も、狼牙も、すべて私がこの国を滅ぼすために用意したものよ」
「まさか……お前が……」
「ええ。ツィオも、侯爵令嬢も、そしてあなたも。狼牙を広め、ザハルと手を結んだのは私」
ノエルは母親を庇うように抱きしめた。
「だからって……母上まで……! 長年仕えてきた相手だろう!」
「この人は王族でありながら、現実から目を逸らし続けた。だから狼牙で、何もかも忘れさせてあげたの」
イーラは小瓶を取り出し、銀色の液体を揺らす。
「ある意味、優しさだと思わない?」
ノエルの腕から力が抜けていく。
「そんな状態になっても、一度も自分を愛さなかった母親を守るなんて健気ね」
イーラは背を向けた。
「そのまま、その女と一緒に国が滅びるところを見ていなさい」
(ここで……倒れるわけには……)
ノエルの脳裏に、昨夜の私の顔が浮かぶ。
『これ、体力を維持する強壮薬と、毒の予防薬』
『絶対に戻ってきて』
『約束だ』
ノエルは震える指を胸元へ伸ばした。
小瓶をつかみ、蓋を歯で引き抜く。
残った力で、一気に薬を喉へ流し込んだ。
強烈な苦みに顔を歪めながらも、口元を腕で拭う。
途切れかけていた呼吸が少しずつ戻り、指先に力が宿っていく。
(マリー、ありがとう……俺はまだ戦える)
ノエルは砂を握り、ゆっくり顔を上げた。
その瞳には、再び強い光が戻っていた。
次回、最終話です。




