最終話 おかえり、私の銀狼殿下
夕暮れの戦場には、焼けた布と血の匂いが残っていた。
解毒薬を飲んだノエルは、ゆっくりと顔を上げる。失われかけていた光が赤い瞳へ戻り、去ろうとするイーラの背中を捉えた。
「ちっ……あの小娘の薬か。本当に、どこまでも計画を邪魔してくれるわね」
「どうして……こんなことをした」
ノエルの声はかすれていた。
イーラは振り返り、黒いヴェールの奥で笑う。
「理由なら、嫌というほどあったでしょう?」
その瞳には、二十年前の炎が今も残っているようだった。
「昔、この国が始めた戦争で、私はすべてを失った。故郷も、夫も、幼い息子もね」
若きソライア国王は、公王へ侵略を命じた。
当時の公王は、神獣の力は民を守るためにあると訴えた。それでも国王は聞き入れず、隣国へ兵を進めた。
やがて公王は反旗を翻し、国王を討った。だが、すでに多くの町が焼かれ、家族を失った者たちの悲しみは消えなかった。
「私は瓦礫の下から、夫と息子の手を見つけた。あの日から、私は誰かを愛することも、信じることもやめたのよ」
イーラは一歩ずつノエルへ近づく。
「今の民は平和を誇り、過去の犠牲を忘れている。そんなもの、私は認めない」
「だから、関係のない者まで傷つけたのか」
「関係がない? 王家の血を引く者が、よくそんなことを言えるわね」
イーラの口元が歪む。
「あなたを息子のように育てたのも、この国を崩すため。忠誠も才能も、すべて利用するつもりだった」
ノエルの拳が震えた。
「……母のように慕っていた。あの優しさも、全部偽りだったのか」
「ええ。あなたを見るたび、殺してやりたいと思っていたわ」
その言葉が、ノエルの心へ深く突き刺さった。
呼吸が荒くなり、銀色の毛が腕や首元へ広がっていく。目元の血管が浮かび、獣の血が体の内側から理性を押し流そうとしていた。
「さあ、この国に代価を払わせましょう。お前たちの死は、その始まりにすぎない」
◇
避難所では、負傷兵たちのうめき声と薬草の匂いが入り混じっていた。
「こちらは出血がひどいわ! 新しい包帯を!」
私は震える手を押さえ込みながら、傷口へ止血布を巻いた。
「マリーお姉ちゃん、薬草がもう尽きる!」
ニケの声に、背筋が冷たくなる。
まだ治療を待つ人は大勢いた。
「そんな……まだ、こんなにけが人がいるのに」
「薬草なら、ここにあるぞ」
天幕の入口から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、薬師協会長のシャグランさんが大きな袋を抱えて立っていた。その後ろには何人もの薬師と、リアン兄さん、ケアラ姉さんの姿もある。
「街にある薬草を、ありったけ集めてきた!」
「遅くなってごめんなさい、マリー」
兄と姉は薬箱を抱え、すぐに負傷者のもとへ向かった。
「みんな……ありがとう……!」
胸がいっぱいになったが、泣いている暇はなかった。
シャグランさんが私の肩へ手を置く。
「ここは私たちに任せなさい。心配な人がいるのでしょう?」
遠くで爆発音が響いた。
ノエルのいる方向だ。
「でも、私が行ったところで……」
「お前は彼の専属薬師なんだろう?」
リアン兄さんが言った。
「彼を癒せるのは、お前だ」
「行ってきなさい。ノエルさんのところへ」
ケアラ姉さんも力強く頷く。
「僕も行く!」
ニケが私の隣へ立った。
「だめよ。あなたはここにいて」
「嫌だ。僕も戦う。お姉ちゃんが一人で泣くところなんて、もう見たくない!」
まっすぐな目だった。
私は迷った末に、強く頷いた。
「絶対に私から離れないで」
「うん!」
「二人とも、必ず戻ってこい」
シャグランさんの言葉を背に、私たちは戦場へ向かって走り出した。
◇
戦場の中央では、ノエルが獣へ変わり始めていた。
鋭い牙が伸び、背中から銀色の毛が広がっている。足元の砂が震え、近くにいた兵士たちが恐怖で後退した。
「なら、この手で終わらせる。復讐の連鎖も、ここで終わりにする」
「先代公王と同じように、その力を振るえばいいわ」
イーラは楽しそうに笑う。
「獣は獣らしく、吠えながら滅びなさい」
ノエルの咆哮が戦場を揺らした。
巻き上がった砂と風が敵兵を吹き飛ばし、地面には大きな亀裂が走る。赤砂派の戦士たちは次々と倒れ、ザイフも逃げる間もなく地面へ叩きつけられた。
「化け物め……!」
その声が、砂煙の中へ消える。
けれど、ノエルは止まらなかった。
赤く濁った瞳には、もう敵と味方の区別さえ残っていない。
「ノエル!」
私は倒れた兵士たちを避けながら、彼へ駆け寄った。
「だめ! それ以上力を使ったら、戻れなくなる!」
ノエルが振り返る。
鋭い爪が空を切り、巻き起こった風に体を押し戻された。
「俺は……神獣人としての運命から、逃れられない……」
怒りではなく、深い絶望が混じった声だった。
「違う!」
私はもう一度、ノエルへ近づいた。
「あなたが言ってくれたでしょう。生まれや運命なんて関係ないって!」
銀色の巨躯へ腕を回す。
再び風に弾かれ、砂の上へ倒れた。それでも立ち上がる。
「私はあなたを信じる。どんな姿でも、ノエルはノエルよ!」
両手を胸の前で組み、願う。
この人を救いたい。
幼いころ、何もできずに弟を失った私でも、今なら誰かを救えるかもしれない。
「月よ、迷う者の道を照らし、太陽よ、凍えた心を温めて……どうか、この人を連れ戻して」
胸の奥から、温かな光があふれた。
金色の光が戦場へ広がり、ノエルの体を包み込む。
「そんな……」
イーラの顔から笑みが消えた。
「神獣人を癒せるのは、ソライア王家の血を引く者だけのはず……!」
ノエルの銀毛が光の中へ溶けていく。
濁っていた瞳が元の赤色へ戻り、巨大な体も少しずつ人の姿へ変わった。
私は崩れ落ちるノエルを抱きとめる。
「……おかえり、ノエル」
「マリー……」
ノエルの手が、震えながら私の頬へ触れた。
私は堪えきれず、その胸へ顔を埋めた。
「また、君に救われた」
「出自なんて関係ないって言って、私を救ってくれたのはあなたでしょう。今度は私の番よ」
額を寄せ合う。
戦場の中なのに、その瞬間だけは彼の呼吸と体温しか感じなかった。
「こんな結末……認めない……!」
背後でイーラが短剣を拾い上げた。
「人の姿に戻った今なら、刺し違えてでも殺せる!」
「させないよ?」
誰かがイーラの腕をつかむ。
現れたのは、傷だらけのモルト殿下だった。
「モルト……あなた、死んだはずじゃ……!」
「ひどいなあ。僕がそんな簡単に死ぬと思ったの?」
イーラの手から短剣が落ち、駆けつけた兵士たちが彼女を取り押さえる。
「お前……あの爆発で……」
「何度もやられてばかりじゃ、策士の名折れだからね。敵を油断させるために、少し派手に消えてみたんだ」
ノエルは深く息を吐いた。
「まったく……心臓に悪い奴だ」
「兄さんに言われたくないなあ」
私たちは顔を見合わせ、ようやく小さく笑った。
地平線の向こうから、朝日が昇り始める。
長かった夜が、ようやく終わろうとしていた。
◇
一年後の春。
王城の庭園には色とりどりの花が咲き、噴水の水音が穏やかに響いていた。
私は白いドレスの上に薄いショールを羽織り、腕の中に眠る赤子を抱いている。
隣に座ったノエルは、小さな顔を飽きることなく見つめていた。
「よく寝ているな。マリーに似て、優しい顔をしている」
「目元や口元は、あなたにそっくりよ」
ノエルは照れたように笑い、私の肩を抱く。
「ねえ、ノエル。ずっと言えなかったことがあるの」
「どうした?」
「私には、前世の記憶があるの」
ノエルは驚いたものの、黙って続きを待ってくれた。
「前世の私には弟がいたの。でも、小さいころに病気で亡くなってしまった。当時の私は何もできなくて、もっと知識があれば助けられたかもしれないって、ずっと悔やんでいたの」
「そうだったのか」
「でも今なら分かるの。あのときの後悔があったから、私は薬師になろうと思えた。たくさんの人を助けたいと思えたの」
ノエルは、赤子を起こさないよう静かに私の肩を引き寄せた。
「君は、その悲しみを誰かを救う力に変えた。助けた者の数だけ、その弟も喜んでいると思う」
目の奥が熱くなった。
「……そうだといいな」
赤子の小さな手が、ノエルの指を握る。
ノエルは幸せそうに目を細めた。
「もう、悲しみの連鎖はここで終わりだ」
「ええ。これからは、この子と一緒に、癒すための薬を作っていくわ」
「ああ。共に歩もう、俺の専属薬師」
「もちろんです、私の銀狼殿下」
肩を寄せると、ノエルが私の髪へ優しく口づけた。
春の風が花びらを運び、腕の中の赤子が小さく笑う。
私はノエルと目を合わせ、同じように笑った。
もう、この手を離すことはない。
たとえどんな困難が待っていても、私たちは家族として、互いを支えながら歩いていく。
太陽の光を受けた庭園に、穏やかな鐘の音が響いていた。
ここまで『銀狼殿下の専属薬師』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
マリーとノエルの物語は、これにて完結となります。
薬師として誰かを救いたいと願いながらも、自分自身の過去や立場に悩んでいたマリー。
神獣人として強い力を持ちながら、その血や生まれによって傷つき続けてきたノエル。
そんな二人が出会い、互いの傷を癒やしながら、少しずつ家族になっていく姿を最後まで描くことができて、今はとても嬉しい気持ちでいっぱいです。
最初は距離のあった二人が、薬や香りを通して心を通わせ、やがて誰よりも大切な存在になっていく。その過程を楽しんでいただけていたら、作者としてこれ以上嬉しいことはありません。
また、マリーやノエルだけでなく、ニケ、モルト、家族や薬師協会の仲間たちを見守ってくださった皆さまにも、心より感謝申し上げます。
感想や応援のお言葉、評価やブックマークのひとつひとつが、続きを書く大きな力になっていました。物語を最後まで走り切ることができたのは、読んでくださった皆さまのおかげです。
長い旅にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
マリーとノエル、そして新しく生まれた家族が、この先も穏やかで幸せな日々を過ごしていけるよう願いながら、物語を閉じたいと思います。
また別の作品でもお会いできましたら嬉しいです。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
ぽんぽこ




