第54話 王の務めと、銀狼の牙
翌朝の食堂には、どこか気まずく、それでいて妙に浮ついた空気が漂っていた。
昨夜の誤解はすでに解けている。けれど、私とノエルが揃って遅い時間に姿を見せたせいか、長机を囲む人々の視線がやけに温かい。
ノエルは咳払いをひとつすると、真剣な顔で口を開いた。
「昨日広まった懐妊の話だが……誤解だった。マリーは妊娠していない」
一拍の沈黙のあと、食堂に笑い声が広がった。
「なーんだ! びっくりしたよ!」
ニケが胸を撫で下ろし、イーラも呆れたように目を細める。
「まったく、早とちりもいいところですね。殿下はすでに子供の名前まで決めていたそうですが」
「それは言わなくていい!」
慌てるノエルを見ていたニケが、ふと首を傾げた。
「あれ? ノエル、首にあざができてるよ。怪我したの?」
「これは……っ」
ノエルが反射的に首元を隠す。
向かいに座っていたモルト殿下は、金髪を揺らしながら楽しそうに笑った。
「そういえば二人とも、起きてくるのが随分と遅かったらしいね?」
「ふふ。勘違いが現実になる日も、近いかもしれませんよ?」
「マリー!?」
昨夜のことを思い出したのか、ノエルの顔が一気に熱を帯びる。
その様子を眺めていたモルト殿下は、羨ましそうに肩をすくめた。
「いいなあ、兄さん。僕にもいつか、そんな相手が見つかるといいんだけど」
「あ、そういえばモルト殿下」
私は白衣のポケットから小瓶を取り出した。
「以前頼まれていた媚薬、完成しました」
「待って!? マリー、それを今ここで言うの!?」
モルト殿下が椅子から立ち上がる。
「実験用って言ったじゃないか!」
「ええ。効果を確かめたいのかと思って」
「違う、そういう意味じゃない!」
ノエルが冷ややかな目を向ける。
「モルト。そんな薬に頼るとは情けないぞ」
「兄さんまで信じないでくれ!」
「殿方には必要なこともございますものね」
イーラまで穏やかに追い打ちをかけると、食堂は再び笑いに包まれた。
「違うってばぁぁ!」
モルト殿下の叫びが響いた、その直後だった。
近衛兵が慌ただしく食堂へ駆け込んでくる。
「ノエル殿下、モルト殿下! 陛下よりお呼びです。至急、謁見の間へ!」
笑い声が途切れる。
ノエルと私は顔を見合わせ、すぐに席を立った。
◇
謁見の間には、香木の香りが漂っていた。
白い大理石の床の先、玉座に腰かけた公王フォルス陛下が、威厳ある眼差しで息子たちを見据えている。
「砂漠の国、ザハル連邦から会談の申し出があった」
「ザハル連邦……」
私が小さく呟くと、隣のニケが声を潜めた。
「いくつもの部族が集まった砂漠の大国だよ。狼牙を扱う黒月派がいるって噂もある」
「赤砂派は、以前からソライアに強硬的だったはず。黒月派と結んでいるなら、和平を装った罠の可能性もあるわ」
「お姉ちゃん、詳しいね」
「薬草や香辛料の産地だから、昔から調べていたの」
モルト殿下が表情を引き締める。
「狼牙は、ザハルを経由して我が国へ入っているとも聞きます」
「その狼牙の件で、我が国へ助力を求めてきた」
陛下の視線が私へ向く。
「彼らは、マリーの作った薬を欲している」
「私の薬を……?」
「しかし、過激派の動きも活発です。危険すぎます」
ノエルが一歩進み出る。
「せめて俺も同行を」
「駄目だ」
陛下は短く言い切った。
「お前は、この国を守れ」
「ですが――」
「王にとって、民は家族も同然だ。家族の暮らしを守るのが余の務めであり、お前の務めでもある」
陛下は玉座から立ち上がった。
「お前の牙は、獲物を狩るためにあるのではない。家族を守るためにある」
その言葉に、ノエルは唇を結んだ。
「お前の家族は誰だ?」
陛下の視線が、私へ移る。
「妻を悲しませるような男にはなるなよ」
ノエルは一度私を振り返ったあと、深く頭を下げた。
「……なら、せめて護衛を倍にしてください。俺の部下も同行させます」
「その判断は任せよう」
午後、王城前には砂漠へ向かう騎馬隊が並んでいた。
陛下は自ら馬具を確かめ、モルト殿下も旅装を整えている。
「……必ず無事にお戻りください」
ノエルが父親の馬の手綱を握る。
「心配するな。余はまだ老いぼれではない」
「兄さん、留守番よろしく。僕は少し日焼けして帰ってくるよ」
軽口を叩くモルト殿下の肩を、ノエルは強く叩いた。
「父上を頼んだぞ」
「もちろん」
陛下が馬へ跨がり、金色の旗が高く掲げられる。
「では行く」
馬蹄の音とともに、一行は王城を離れていった。
私はノエルの隣で、二人の背中が見えなくなるまで祈り続けた。
◇
それから一週間後。
夜の中庭を、私とノエルは並んで歩いていた。
「早く戻ってくるといいね」
「……あの人は強い。必ず無事に帰ってくる」
そう答えるノエルの手に、私はそっと指を絡めた。
その瞬間、城門のほうから激しい馬蹄の音が響く。
「城門を開けろ! 急げ!」
巨大な扉が押し開かれ、血と砂にまみれた兵たちがよろめきながら入ってきた。
その中央にいたのは、片腕を押さえたモルト殿下だった。
外套は裂け、金髪には黒い砂と血がこびりついている。
「モルト殿下……!?」
私が駆け寄ると、モルト殿下は顔を上げた。
青い瞳は、恐怖と絶望に揺れている。
「……王が……」
震える声が漏れた。
「父上が……殺された……!」
ノエルの足が止まる。
つないでいた手から、力が抜けた。
「……父上が……?」
かすれた声だった。
私は口元を押さえ、震えるノエルの背にそっと手を添える。
けれど彼は動かない。
中庭を照らす灯火が揺れ、モルト殿下の血に濡れた影が長く伸びていた。




