第53話 W疑惑
昼下がりの王城では、長い廊下にやわらかな日差しが差し込んでいた。
その中央を、ノエルが落ち着かない様子で行ったり来たりしている。遠征から戻ったばかりだというのに、疲れた様子はなく、むしろ妙に頬が緩んでいた。
(イーラには、まだ本人へ余計な負担をかけるなと言われたけど……ニケになら少しくらい話してもいいだろう)
そう考えたところで、ちょうど廊下の角からニケが姿を現した。
柔らかな茶色の髪を揺らしながら近づいてきたニケは、ノエルの顔を見るなり首を傾げる。
「顔がにやけてるけど、いいことでもあったの?」
「にやけてなどいない」
「にやけてるよ。すごく」
きっぱり言われ、ノエルは口元を引き締めた。けれど、隠しきれない喜びが目元に残っている。
「……実はな。誰にも言うなよ?」
「うん!」
ニケが素直に頷くと、ノエルは周囲を確認してから声を潜めた。
「マリーが……もしかしたら、子供を授かったかもしれないんだ」
ニケの目が大きく見開かれる。
「えっ!? 本当に!? それってつまり、弟か妹ができるかもってこと!?」
「しっ、声が大きい!」
ノエルが慌てて口元へ指を立てると、ニケは両手で自分の口を押さえながら何度も頷いた。
「まだ確かじゃない。イーラが、本人には負担をかけるなと言っていたからな」
「分かった。秘密にする」
ニケはそう答えたものの、全身から喜びがあふれている。今にも走り出して誰かへ話しそうな様子に、ノエルは少し不安を覚えた。
「そうだ。名前も考えてある」
「もう?」
「男の子ならリック、女の子ならリリーだ」
「決めるの早すぎない?」
「準備は早いほうがいいだろう」
ノエルは至って真面目だった。
「もし女の子なら、きっとマリーに似て可愛いだろうな」
そう口にすると、自然と表情がやわらぐ。
「黒い髪で、よく笑って……少し落ち着きがなくて、薬草を見つけたらすぐに拾おうとするかもしれない」
「それ、ほとんどマリーお姉ちゃんじゃない?」
「似ているなら、それでいい」
少し離れた廊下の角で、私は足を止めていた。
ノエルに会いに行こうと思っていたところで、偶然二人の声が聞こえてきたのだ。
(子供……? リリー……?)
胸がざわつく。
さらに耳を澄ませると、ノエルの明るい声が届いた。
「早くリリーに会いたいな」
「だから、まだ早いって」
「そうだ。商人を呼んで、ドレスも用意しなくては」
私は、その場から動けなくなった。
(リリーって誰? 他の女の人の名前?)
昨日、出産について司書と話していた姿を思い出す。
妾を迎え、その人との間に子供を作るつもりなのだとしたら、すべての話がつながってしまう。
ノエルの笑い声が、妙に遠く感じられた。
少しあと、玄関ホールを通りかかった私は、さらに嫌な場面を目にした。
ノエルが、マルグリット王妃と話している。
王妃は鮮やかな装飾のついたドレスをまとい、いつものように隙のない微笑を浮かべていた。
「まあ……噂は聞きましたよ。おめでとうございます、ノエル殿下」
「えっ、あ、ありがとうございます」
ノエルが少し慌てながらも礼を返す。
(おめでとうって……やっぱり、本当なんだ)
視界が滲みそうになる。
胸の奥が、焼けるように痛かった。
私は二人に見つからないうちに、その場から離れた。
夜。
私はノエルを部屋へ呼び出し、両手を胸の前で握りしめていた。
言わなければならない。
何も聞かないまま終わるなんて、耐えられない。
「マリー、どうした?」
ノエルは少し不思議そうに私を見つめている。
「今日は……お願い。一緒に寝てほしいの」
「……え?」
ノエルの目が大きくなる。
その驚き方に、また胸が痛んだ。
「どうした、急に」
「……不安なの」
視線を落とし、寝衣の裾を指でつまむ。
「正式な跡継ぎのために、妾が必要になることは頭では分かってる。私じゃ、王族の妻に相応しくないかもしれない。でも、それでも……」
声が震えた。
ノエルは何も言わず、私を見ている。
「薬師として役に立つから、そばに居させてほしい」
喉の奥が苦しい。
「私、ノエルが大好きなの」
言葉にした瞬間、涙がこぼれそうになった。
ノエルはしばらく呆然としていた。
やがて、困ったように口元を緩める。
「……そんなに自分を責めるな」
静かに近づき、私の肩へ手を添える。
「お前は、俺にとって唯一無二の存在だ」
「え……?」
「跡継ぎとか妾とか、そんな話はどうでもいい」
ノエルの声は迷いがなかった。
「俺が愛しているのは、マリー。お前だけだ」
胸の奥が大きく揺れる。
ノエルがそっと抱き寄せると、張り詰めていた気持ちが一気にほどけた。
けれど次の瞬間、ノエルが鼻をひくつかせる。
「……酒の匂い?」
「え、あ……!」
慌てて目を逸らす。
けれど、棚の上には中身の減った酒瓶がそのまま置かれていた。
「ノエルがいない間、寂しくて……ほんの少しだけ飲んでたの」
「まったく、マリー」
ノエルは眉を下げる。
「本で読んだぞ。妊婦は酒を控えたほうがいいらしい」
「……妊婦って、誰のことですか?」
「……え?」
「え?」
二人で顔を見合わせる。
数秒の沈黙のあと、ノエルが戸惑いながら口を開いた。
「イーラから聞いたんだ。食欲がないとか、匂いが駄目になったとか、眠気が強いとか……」
「それは、つい飲みすぎちゃっただけで……!」
思わず声を上げる。
「でも、ノエルが悪いんですよ! 私を何日も放っておくから……!」
言ったあとで、はっとする。
頬が熱くなり、私は唇を噛んだ。
「……ごめんなさい。お酒のせいで、不安が強くなってたんです」
「不安?」
「アルコールが抜ける時に、気分の落ち込みや自己嫌悪が強くなることがあるの。“ハングザイエティ”って呼ばれる状態で……」
「お、おう……急に難しい話になったな」
ノエルは困惑しながらも、真剣に聞いていた。
「だから、いつもより気持ちが揺れてしまって……ノエルがいないだけで、何もかも駄目になる気がしたんです」
「マリー……」
ノエルが優しく私を抱きしめる。
その胸に身を預けた瞬間、体から力が抜けた。
「おい、マリー? まさか今も酔っているのか?」
「ふふ……ノエル、あったかい……」
私は彼の服をつかみ、そのまま頬を寄せる。
すると、ノエルの呼吸が少しずつ乱れ始めた。
「なんだ……この感じ……妙に暑いな」
机の上には、小さな瓶が転がっていた。
昼間、モルト殿下から冗談半分に渡された試作品。
ラベルには、小さな文字で“媚薬アロマ”と書かれている。
「まさか……!」
ノエルが気づいた時には、香りはすでに部屋中に広がっていた。
私は彼の胸元をつかみ、潤んだ目で見上げる。
「ねぇ、ノエル……離れたくないの。今夜は、一緒にいて」
ノエルはしばらく私を見つめたあと、静かに肩を抱き寄せた。
唇が重なる。
拒む理由も、ためらう気持ちも、もう残っていなかった。
その夜、私たちは互いの温もりを確かめながら、長い時間をともに過ごした。




