第52話 妾疑惑と恋の相談
窓の外が茜色に染まるころ、私は鏡の前で髪を整えていた。
櫛を通した黒髪を肩の後ろへ流し、少し乱れた前髪を指先で直す。それだけのことなのに、何度も扉のほうを振り返ってしまう。
「ノエル……もう城に戻ってるって聞いたのに……」
遠征から帰ってきたと聞いたとき、胸が飛び跳ねるほど嬉しかった。すぐにでも顔を見せに来てくれると思って、薬草茶も用意したし、銀狼のぬいぐるみは慌てて引き出しに隠した。
けれど夕餉の時間が近づいても、ノエルの足音は聞こえない。
(まさか、忙しくしてるだけ……よね? まさか、避けられてるとか……)
考えた瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
私は落ち着かずに立ち上がる。
「……やっぱり、探しに行こう」
長い廊下に出ると、夕方の王城は昼間よりも少し静かだった。窓の外では庭園の木々が風に揺れ、磨かれた床に赤い光が伸びている。
しばらく歩いていると、遠くから聞き慣れた低い声がした。
足を止め、声のするほうへ向かう。すると書庫の前で、ノエルが誰かと話している姿が見えた。
「……ノエル?」
思わず柱の影に身を寄せる。
ノエルの前に立っていたのは、見知らぬ女性だった。落ち着いた色の髪をまとめ、丸眼鏡をかけた司書らしき人だ。二人の間には分厚い本が何冊も積まれている。
「出産時の心構えについては、こちらの章が分かりやすいですよ」
「助かる。実際の例も載っているか?」
「はい、医療従事者の記録もございます」
その言葉に、心臓が嫌な音を立てた。
(出産……?)
ノエルが、出産について調べている。
しかも、知らない女性と真剣に話している。
(まさか……外で妾を作ってたんじゃ?)
自分でも馬鹿な考えだと思う。
けれど一度浮かんだ不安は、簡単には消えてくれなかった。
ノエルは司書に礼を言い、ほんの少しだけ表情を緩める。遠目には、楽しそうに見えてしまった。
足が動かない。
胸の奥がじんと熱くなり、視界が滲みそうになる。
(違う。きっと違う。ノエルはそんな人じゃない)
そう思いたいのに、昨日までの寂しさと寝不足のせいで、悪い想像ばかりが膨らんでいく。
私は二人に気づかれないよう、そっとその場を離れた。
◇
夜になっても、落ち着かなかった。
部屋に戻った私は、引き出しから銀狼のぬいぐるみを取り出し、膝の上で抱きしめていた。手のひらほどの小さな体は柔らかく、少し曲がった尻尾まで今は妙に心細く見える。
ほどなくして、扉が控えめに叩かれた。
「マリー、起きているか?」
心臓が跳ねる。
私は慌ててぬいぐるみをクッションの陰へ押し込み、髪を整えた。
「ノ、ノエル! おかえりなさい!」
扉を開けると、ノエルが立っていた。遠征帰りの服はすでに着替えていたが、少しだけ疲れが残っているように見える。それでも赤い瞳が私を捉えた瞬間、胸が苦しいほど高鳴った。
「ただいま。……体調はどうだ?」
「えっ? う、うん……元気よ」
どうしていきなり体調の話なのだろう。
少しの沈黙が落ちる。ノエルは私をじっと見つめ、何か言いかけては言葉を飲み込んでいた。
「どうしたの? 一緒に寝る? あのね、安眠効果のあるお香を見つけて、私……」
「マリー」
ノエルの声が、いつもより少し硬かった。
「その、しばらく別々に寝ようかと思う」
「……え?」
笑顔が固まった。
部屋の空気が、一瞬で冷たくなった気がした。
「遠征で疲れているんだ。少し、体を休めたい」
ノエルはそう言った。けれど、私を見る目はどこか気まずそうで、何かを隠しているようにも見える。
(どうして。どうしてそんな顔で言うの……?)
喉の奥が詰まる。
(もう、触れたくもないってこと……?)
港町の宿で、あんなに優しく抱きしめてくれたのに。
額に口づけて、私の手を取ってくれたのに。
私は何か、嫌われるようなことをしたのだろうか。
「そ、そう……疲れてるなら、仕方ないよね」
どうにか声を絞り出すと、ノエルはほっとしたように小さく息を吐いた。
その反応が、また胸に刺さった。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
ノエルはそれだけ言い残して、部屋を出ていった。
閉まる扉の音が、やけに冷たく響く。
「……ノエル……」
私はその場に立ち尽くしたまま、隠したぬいぐるみをもう一度抱きしめることしかできなかった。
◇
翌日、私はモルト殿下の私室を訪ねていた。
なぜモルト殿下のところへ来たのか、自分でもよく分からない。けれど、ノエルのことを相談できる相手として、彼の顔が浮かんでしまったのだ。
モルト殿下の部屋は明るく、花の香りがする紅茶が用意されていた。金髪碧眼の王子は、相変わらず人好きのする笑みを浮かべている。
「マリーが僕のところに来るなんて珍しいじゃないか。もしかして兄さんに愛想でも尽かされた?」
冗談めかした声だった。
けれど私は、うまく笑えなかった。
「……そうかもしれないです」
ティーカップを持ち上げかけていたモルト殿下の手が止まる。
彼は一瞬で表情を変え、柔らかな笑みの奥から真剣な目を覗かせた。
「……兄さん、また何かやらかした?」
「違うの。ただ……なんだか様子がおかしくて。避けられてる気がするの」
「避けられてる?」
「昨日も、しばらく別で寝ようって言われて……。それに、知らない女性と楽しそうに話してたのを見ちゃって……」
言いながら、胸の奥がじわじわ痛む。
「出産の本を、調べていたみたいで……。もしかして、妾を迎える準備なのかなって」
モルト殿下は一瞬、盛大に吹き出しそうな顔をした。
けれど私の顔を見ると、慌てて口元を押さえる。
「ふ、ふは……いや、ごめん。それは誤解だよ、マリー。兄さんが他の女に目を向けるなんて、まずありえない」
「……本当に?」
「本当さ。あの兄さんが? 君以外に? 想像するだけで無理があるよ。たぶん何かを盛大に勘違いして、真面目に暴走しているだけだ」
「暴走……」
「そう。兄さんは不器用だからね。しかも君が絡むと、判断力が銀狼じゃなくて子犬になる」
その言い方に、私は思わず目を瞬かせた。
モルト殿下は紅茶を置き、いたずらっぽく笑う。
「でもまぁ、もし本当にそうなら……ノエルに、他の女なんて見向きもしなくなる薬でも飲ませてやればいい」
「え?」
「媚薬とか、精力を増す薬とか。作れるだろ?」
「……まぁ、理論上は可能だけど……」
答えてから、私ははっとする。
「い、いえ! 本人の同意なしに使う薬なんて絶対に駄目です!」
「もちろん冗談だよ。君なら怒ると思った」
モルト殿下は楽しそうに笑った。
「でも、もし作ったら僕にも少し分けてくれ。実験用にね」
「モルト殿下!」
「冗談だってば」
からかうような声に、私は頬を熱くしながらため息をついた。
「……もう、からかわないでください」
「悪い悪い。でも安心しなよ。兄さんは君に夢中だよ。だからこそ、妙な方向に頑張っているんだと思う」
「……本当に、そうでしょうか」
「少なくとも、僕はそう思う。兄さんが君を避ける理由があるとしたら、君を嫌いになったからじゃない。君を大事にしすぎて、何かを間違えているだけだ」
その言葉は、胸の奥に少しだけ染みた。
不安が全部消えたわけではない。けれど、息をするのが少し楽になる。
「ありがとうございます、モルト殿下」
「どういたしまして。まあ、兄さんが何を勘違いしているのかは、ちゃんと問い詰めたほうがいいよ。放っておくと、あの人は真面目な顔でとんでもない準備を始めるから」
その言葉に、私は昨日見た分厚い本の山を思い出した。
たしかに、もう始めている気がする。
私は小さく苦笑しながら、カップに視線を落とした。
まだ少し怖い。
でも、逃げてばかりもいられない。
ノエルの気持ちを、ちゃんと聞かなければ。
そう思ったのに、胸の奥ではまだ、ほんの少しだけ不安が揺れていた。




