第51話 懐妊疑惑と、真面目すぎる銀狼殿下
朝の陽光が、王城の食堂に差し込んでいた。
白いテーブルクロスの上には、湯気を立てるスープと、香ばしく焼かれた肉料理が並んでいる。銀の皿には焼き魚も添えられていて、いつもなら食欲をそそるはずだった。
けれど今朝の私は、目の前の料理を見つめたまま、なかなか手を伸ばせずにいた。
「……なんか最近……食べたくないな……」
スプーンを持とうとする。
けれど、指先が重い。
持ち上げること自体が億劫で、私は小さく息を吐いた。
胃のあたりが、きゅうっと締めつけられるように痛む。肉の脂の匂いが鼻に届いた瞬間、思わず顔をしかめてしまった。
「マリー様? また食欲が……」
そばに控えていたメイドが、不安そうに声をかけてくる。
若いメイドは淡い茶色の髪をきちんと結い、白いエプロンを身につけている。いつもなら明るく給仕してくれる彼女も、ここ数日は私の皿を見て眉を下げることが増えていた。
「ううん、平気。ただちょっと……寝不足なのかも」
笑ってごまかしたつもりだった。
けれど、自分でも分かるくらい、声に力がない。
(まずいわ……また飲みすぎちゃった)
ここ数日、ノエルのいない夜はやけに長かった。
銀狼のぬいぐるみを抱きしめても、ノエルの部屋で見つけた残り香に顔を埋めても、どうしても寂しさは消えない。
だから私は、ほんの少しだけと思ってワインに手を伸ばした。
ほんの少しだけ。
それが毎晩続いたら、まったく“少し”ではない。
(薬師として最悪だわ……。生活指導する側がこれじゃ、説得力のかけらもない)
私は反省しながら、スープを一口だけ口に運ぶ。
温かい味が舌に広がったけれど、胃が受けつけてくれない。
すぐにスプーンを置いた。
「……でも、ここ数日続いておりますよ? 一度、診てもらった方が……」
「本当に大丈夫。ただ、少し疲れてるだけよ」
心配そうなメイドに、私はできるだけ穏やかに返す。
けれど、微笑もうとしても、頬がうまく上がらない。
(いけないわ。今日こそは不摂生しないよう気をつけなきゃ)
そう決意しながらも、目の前の料理をほとんど残したまま、私は席を立った。
「ごめんなさい。少し部屋で休むわ」
「はい……。どうかご無理はなさらないでくださいね」
「ありがとう」
メイドの不安そうな視線を背中に感じながら、私は食堂をあとにした。
廊下に出ると、窓から入る光がまぶしい。
頭の奥がじんわり痛む。
(うぅ……これは完全に二日酔いね。水分を取って、軽めの食事にして、今日は早く寝る。絶対に早く寝る)
心の中でそう誓いながら、私は自室へ戻っていった。
◇
食堂を出たメイドは、厨房へ向かう途中で足を止めた。
ちょうど厨房から顔を出したコック長を見つけたからだ。
コック長は大柄な体に白い調理服をまとい、丸い顔に太い眉をした中年の男だった。気さくで面倒見がよく、王城の者たちからも慕われている。
「コック長、少しよろしいでしょうか」
「どうした? マリー様の皿、また下がってきたのか?」
「はい……。ここ数日、ほとんど召し上がられなくて」
メイドは困ったように眉を下げる。
「魚も、お嫌いなわけじゃないのに、匂いで気分が悪くなるそうで……」
「それは心配だな。胃でも悪くされたのか……いや、まさか……」
コック長は腕を組み、考え込むように顎を引いた。
その会話を、廊下を通りかかったイーラが耳にした。
「……マリー様が、食欲不振?」
「あっ、イーラ様」
メイドは慌てて姿勢を正す。
イーラは黒い侍女服を隙なく着こなし、髪もきれいにまとめていた。いつもと変わらぬ穏やかな表情だが、その目は小さな違和感も見逃さない。
「はい。それにお顔色も優れなくて……。いつも眠そうですし……」
「いつも眠そう……」
イーラは静かに歩み寄り、指先を顎に添えた。
その目が、わずかに細まる。
「食欲不振。匂いへの拒否。強い眠気……」
低く呟いたあと、彼女はメイドとコック長を見た。
「……懐妊の可能性があるかもしれませんね」
「えっ!? ご、ご懐妊……ですか!?」
メイドの声が裏返った。
コック長も目を丸くし、思わず手にしていた布巾を落としかける。
「まだ確証はありませんが、兆候としては一致します」
イーラは落ち着いた声で続けた。
「陛下に報告する前に、慎重に確認を。決して不用意に騒がないように」
「は、はいっ」
「もちろんです」
二人が揃って頷くと、イーラは軽く目を伏せた。
その横顔には、普段の柔らかな微笑とは違う、遠い記憶に触れたような陰があった。
(……もし本当なら、この国にとっても、私にとっても――運命が動く)
イーラは胸の奥に沈んでいた思いを押し戻すように、静かに息を整えた。
そのとき、外から馬の蹄の音が響いた。
廊下の向こうで、衛兵の慌ただしい声が上がる。
「殿下、ご帰還です!」
◇
王城の玄関前に、騎士団の一行が到着していた。
馬から降り立ったノエルは、長旅のあととは思えないほど背筋を伸ばしていた。黒い外套には道中の砂埃がうっすらついているが、身のこなしに疲れは見えない。
ただ、その目だけは真っ先に城の中を探していた。
「マリーはどこにいる?」
口を開いて最初の言葉がそれだった。
衛兵は慣れた様子で答える。
「お部屋にいらっしゃるかと!」
その返事を聞くなり、ノエルはすぐに歩き出そうとした。
けれど、そこへイーラが声をかける。
「殿下、少々お待ちを。ひとつ、確認をしたいのですが」
「……? なんだ、なにかあったのか?」
ノエルは足を止めた。
マリーに会うのを邪魔されたせいか、さっきまでわずかに緩んでいた表情が真顔になる。
イーラはその変化を見ても、少しも動じなかった。
「奥様とのご関係は順調で?」
「何かと思えば、順調に決まっているだろう」
ノエルは胸を張って即答した。
その声には、迷いがない。
周囲にいた衛兵たちが、気まずそうに視線を逸らす。
イーラは、さらに穏やかな声で続けた。
「夜のほうも?」
「なっ……!」
ノエルの顔が一瞬で赤くなった。
「な、何を言うんだ、イーラ!」
「当然の務めを果たされているか、確認しているだけです。王族として、子を残す責務がございますから」
「そ、そんなことを……っ!」
ノエルは完全に言葉を詰まらせた。
耳の先まで赤い。
戦場ではどれほど恐れられていても、こういう話題にはまるで耐性がないらしい。
イーラは小さく笑った。
「顔が真っ赤ですよ、殿下。ふふ……その様子なら、心配はなさそうですね」
「何が心配ないんだ……」
ノエルは眉を寄せる。
しかしイーラは、長年彼を見てきた侍女らしく、すでにひとつの結論にたどり着いていた。
(やはり、可能性は高い……)
そして、静かに告げる。
「殿下。マリー様が――懐妊されたかもしれません」
その場の空気が止まった。
「……っ!? マリーが……!?」
ノエルの赤い瞳が、大きく見開かれる。
「本当か!」
声が、普段よりもずっと大きい。
近くにいた衛兵たちがびくりと肩を跳ねさせた。
ノエルはそのまま廊下を駆け出そうとする。
けれど、イーラが慌てて止めた。
「お待ちください! 本人に直接聞くのはおやめください。女性は繊細です。プレッシャーになります」
「……そ、そうか……たしかに……!」
ノエルは真剣な顔で足を止めた。
さっきまでの動揺が嘘のように、今度は考え込む表情になる。
「ならば俺は、どうすればいい」
「まずは出産についてお学びになるとよいでしょう。準備が肝心ですから」
「……分かった。助言、感謝する」
ノエルは重々しく頷いた。
それから、マリーの部屋とは逆方向へ歩き出す。
その背中には、戦場へ向かう時と同じくらいの覚悟があった。
衛兵たちは顔を見合わせる。
誰も声をかけられなかった。
◇
王城の図書館は、昼でも静かだった。
高い天井まで届く本棚が並び、窓から差し込む光が床に長く伸びている。紙と革表紙の匂いに包まれた空間で、ノエルは真剣な面持ちで本棚を見上げていた。
「出産、育児、妊婦の心得……どれを読めばいい?」
独り言にしては、あまりにも切実な声だった。
普段なら軍事書や歴史書の並ぶ棚に向かう彼が、今日は家庭や育児に関する棚の前で固まっている。
そこへ、年配の女性司書がそっと近づいてきた。
落ち着いた灰色の髪を後ろでまとめ、丸眼鏡の奥から優しげな目を向けている。
「まあ、殿下がご自身で?」
「い、いや、その……事情があってな!」
ノエルはまた耳まで赤くなる。
女性司書は、その反応にやわらかく微笑んだ。
「とても立派ですわ。では、こちらはいかがでしょう」
彼女は棚から一冊の本を抜き出した。
「“初めての出産と父親の心得”です。基礎から順に書かれておりますので、初めて学ばれる方にはよろしいかと」
「……助かる!」
ノエルは両手で本を受け取った。
分厚い本だった。
けれど彼は、その重さを苦にする様子もなく、表紙をじっと見つめる。
まるでそこに、これから守るべきものの答えがすべて書かれていると信じているようだった。
女性司書は、微笑ましそうに目を細める。
「殿下。読み進めるうえで分からないことがありましたら、いつでもお声がけくださいませ」
「ああ。頼りにしている」
ノエルは真剣に頷いた。
それから近くの机に腰を下ろし、さっそく本を開く。
最初の数行を読んだだけで、彼の眉間に深いしわが寄った。
「……妊娠初期は、無理をさせてはならない。冷え、疲労、強い不安を避けること……」
小さく読み上げた声が、図書館の静けさに落ちる。
ノエルはさらに表情を引き締めた。
「マリーは……俺がいない間に、寂しい思いをしていないだろうか」
その不安は、見事に的中している。
ただし理由は懐妊ではなく、銀狼ぬいぐるみとワインと干物による、少々困った夜更かしのせいだった。
◇
そのころ私は、自室で寝台に横になっていた。
銀狼のぬいぐるみを胸に抱き、薄い布団を肩までかぶっている。
頭が重い。
胃も重い。
そして、猛烈に反省していた。
「……うぅ。今日は絶対、もう飲まない……」
小さく呟いた声は、静かな部屋に吸い込まれていく。
そのとき、ふと耳がぴくりと動いた気がした。
もちろん私の耳ではない。
腕の中の銀狼ぬいぐるみの耳だ。
いや、そんなはずはない。ただのぬいぐるみである。
けれど、ノエルを思い出すと胸がきゅっとした。
「早く帰ってこないかな……」
そう呟いたところで、扉の外が少しだけ慌ただしくなった。
誰かが廊下を行き来している。
私は顔を上げようとして、頭痛に負けてまた枕に沈んだ。
「……あとで確認しよう……」
そう思って目を閉じる。
まさかそのころ、本人が図書館で父親の心得を真剣に読み込んでいるとは、夢にも思わなかった。




