第50話 二日酔いから始まる大騒動
朝の陽光が食堂に差し込んでいた。
白いテーブルクロスの上には、湯気を立てるスープと、香ばしく焼かれた肉料理が並んでいる。焼き魚も添えられていて、いつもなら喜んで食べるところだ。
けれど今朝の私には、その匂いが少し重たかった。
「……なんか最近……食べたくないな……」
スプーンを手に取るものの、持ち上げるだけで億劫だ。
胃のあたりがきゅうっと締めつけられる。特に脂の匂いが鼻に届いた瞬間、思わず顔をしかめてしまった。
「マリー様? また食欲が……」
そばに控えていたメイドが、不安そうに声をかけてくる。
「ううん、平気。ただちょっと……寝不足なのかも」
笑ってごまかしたつもりだったけれど、声に力が入らない。
(まずいわ……また飲みすぎちゃった)
ここ数日、ノエルのいない夜を過ごすたびに、私はついワインに手を伸ばしていた。
寂しさを紛らわせるため。
眠れるようにするため。
理由はいくらでも思いつくけれど、薬師としては完全に良くない生活だ。
「でも、ここ数日続いておりますよ? 一度、診てもらった方が……」
「本当に大丈夫。ただ、少し疲れてるだけよ」
私はできるだけ明るく答えた。
(いけないわ。今日こそは不摂生しないよう気をつけなきゃ)
そう決意しながらも、スープを数口飲むだけで精一杯だった。
メイドは不安そうな顔のまま、食堂を出る私を見送っていた。
◇
食堂を出たメイドは、厨房へ向かう途中でコック長に声をかけた。
「コック長、マリー様がここ数日ほとんど召し上がられなくて……。魚も、お嫌いなわけじゃないのに、匂いで気分が悪くなるそうで」
大柄なコック長は、丸い顔を曇らせた。
「それは心配だな。胃でも悪くされたのか……いや、まさか……」
その会話を、廊下を通りかかったイーラが耳にした。
イーラはいつものように整った侍女服を着こなし、髪も乱れひとつなくまとめている。穏やかな表情は崩れていないが、目元だけがわずかに鋭くなった。
「……マリー様が、食欲不振?」
「あっ、イーラ様。はい。それにお顔色も優れなくて……。いつも眠そうですし……」
イーラは静かに歩み寄り、指先を顎に添えた。
「食欲不振、匂いへの拒否、眠気……」
低く呟く声に、メイドとコック長が顔を見合わせる。
イーラの瞳の奥に、思案するような色が浮かんだ。
「……懐妊の可能性があるかもしれませんね」
「えっ!? ご、ご懐妊……ですか!?」
メイドの声が裏返る。
コック長も目を丸くした。
イーラは落ち着いたまま頷く。
「まだ確証はありませんが、兆候としては一致します。陛下に報告する前に、慎重に確認を」
そう言いながら、彼女の瞳の奥が一瞬だけ陰を帯びた。
穏やかな微笑の裏に、誰にも触れさせない記憶が沈んでいるようだった。
(……もし本当なら、この国にとっても、私にとっても――運命が動く)
イーラはそっと目を伏せた。
そのとき、外から馬の蹄の音が響いた。
衛兵の声が、玄関の方から慌ただしく届く。
「殿下、ご帰還です!」
◇
王城の玄関前に、騎士団の一行が到着していた。
馬から降り立ったノエルは、旅装のままだった。黒い外套には道中の砂埃がかかっていたが、背筋はまっすぐ伸びている。
銀の髪が風に流れ、赤い瞳が城の中へ向けられた。
旅の疲れを見せるより先に、彼は口を開く。
「マリーはどこにいる?」
「お部屋にいらっしゃるかと!」
衛兵の返事を聞くなり、ノエルはすぐに歩き出そうとした。
その足を、イーラの声が止める。
「殿下、少々お待ちを。ひとつ、確認をしたいのですが」
「……? なんだ、なにかあったのか?」
ノエルは足を止めた。
早くマリーに会いたいのだろう。表情はいつも通りに見えるが、目だけは少しだけ不満そうだった。
イーラはその様子を見ても動じない。
「奥様とのご関係は順調で?」
「何かと思えば、順調に決まっているだろう」
ノエルは少し胸を張った。
その反応に、イーラは静かに目を細める。
「夜のほうも?」
「なっ……!」
ノエルの顔が一瞬で赤くなった。
「な、何を言うんだ、イーラ!」
「当然の務めを果たされているか、確認しているだけです。王族として、子を残す責務がございますから」
「そ、そんなことを……っ!」
ノエルは完全に言葉を詰まらせた。
耳の先まで赤い。戦場ではどれほど恐れられていても、こういう話題にはまるで慣れていないのだ。
イーラは小さく笑った。
「顔が真っ赤ですよ、殿下。ふふ……その様子なら、心配はなさそうですね」
「何が心配ないんだ……」
ノエルが眉を寄せる。
けれどイーラは、長年彼を見てきた侍女らしく、すでに結論を出した顔をしていた。
(やはり、可能性は高い……)
そして、静かに告げる。
「殿下。マリー様が――懐妊されたかもしれません」
ノエルの動きが止まった。
「……っ!? マリーが……!?」
赤い瞳が大きく見開かれる。
「本当か!」
そのまま廊下を駆け出そうとしたノエルを、イーラが慌てて止めた。
「お待ちください! 本人に直接聞くのはおやめください。女性は繊細です。過度な確認は負担になります」
「……そ、そうか……たしかに……!」
ノエルは真剣な顔で頷いた。
さっきまでの動揺が嘘のように、今度は考え込む表情になる。
「俺は、どうすればいい」
「まずは出産についてお学びになるとよいでしょう。準備が肝心ですから」
「……分かった。助言、感謝する」
ノエルは重々しく頷くと、マリーの部屋とは逆方向へ足を向けた。
その目は、戦場へ向かう時と同じくらい真剣だった。
◇
王城の図書館は、昼でも静かだった。
高い天井まで届く本棚が並び、窓から差し込む光が床に長く伸びている。紙と革表紙の匂いが満ちた空間で、ノエルは真剣な面持ちで本棚を見上げていた。
「出産、育児、妊婦の心得……どれを読めばいい?」
独り言にしては切実な声だった。
そこへ、年配の女性司書がそっと近づいてくる。落ち着いた茶色の髪をまとめ、丸眼鏡の奥から優しげな目を向けていた。
「まあ、殿下がご自身で?」
「い、いや、その……事情があってな!」
ノエルはまた耳まで赤くなる。
女性司書は苦笑しつつ、棚から一冊の本を抜き出した。
「では、こちらをおすすめします。初めて父親になられる方には、基礎から分かりやすいかと」
「……助かる!」
ノエルは本を受け取ると、表紙をじっと見つめた。
まるでそこに、これから守るべきものの答えが書かれているかのように。
その横顔は、どこまでも真剣だった。
そして私はそのころ、自室で銀狼のぬいぐるみを抱いたまま、二日酔いの頭痛と戦っていた。
「……うぅ。今日は絶対、もう飲まない……」
そう誓った声は、誰にも届かなかった。




