第49話 恋しい人の毛でぬいぐるみを作りました
春の光が、窓辺にやわらかく差し込んでいた。
王城の庭園では噴水の水がきらきらと跳ね、刈りそろえられた植え込みの上を小鳥が軽やかに飛んでいく。遠くから聞こえるさえずりは穏やかで、港町で聞いた波音とはまるで違う。
それでも、私は手のひらで温かいカップを包みながら、ぼんやりと海の景色を思い出していた。
「……ズッパの街、楽しかったなぁ」
市場に並ぶ色鮮やかな布。焼いた魚の香ばしい匂い。潮風に揺れる灯り。人々の感謝の声。
そして、夜の宿で隣にいたノエルのぬくもり。
思い出しただけで、頬がじんわりと熱くなる。
(あの夜のノエル……普段よりもずっと優しくて、まるで夢みたいだった)
胸の奥が、ふわりとあたたかくなる。
言葉は多くなかった。けれど、額に落とされた口づけも、そっと抱き寄せてくれた腕も、今もはっきり覚えている。
誰かに触れられることが、こんなにも安心できるものだなんて、昔の私は知らなかった。
(前は薬のことばかり考えてたのに。人に触れられることが、こんなにもあたたかいなんて……)
ふと、胸の奥に昔の景色がよぎる。
薄暗い路地。雨に濡れた夜。誰も信じられず、ひとりでうずくまっていた小さな自分。
あのころの私は、人の手を怖がっていた。
差し伸べられる手が助けなのか、罠なのか、分からなかったから。
けれど今は違う。
ノエルの手なら、迷わず取れる。
(もう、あのころには戻れない。……まさか、私がこんなに誰かを愛する日が来るなんてね)
自分で思って、胸がまた熱くなる。
私はごまかすようにカップへ口をつけた。ほんのり甘い薬草茶が喉を通る。
けれど、部屋は静かだった。
机の上には本がきちんと重ねられ、椅子も整えられている。寝台には柔らかな布がかけられ、部屋の隅にはノエルが使っていた外套が丁寧に畳まれていた。
どれも彼の気配を残しているのに、肝心の本人はいない。
「でも……ノエル、今は遠征中なんだよね」
声に出した途端、寂しさがはっきり形になった。
ノエルは騎士団の任務で王都の外へ出ている。予定では十日ほどで戻ると言っていた。
まだ、たった三日。
それなのに。
(あと一週間も帰ってこないなんて……)
カップを置いて、私は寝台に倒れ込んだ。
白い天蓋を見上げる。きれいに整えられた布が、妙に広く見えた。
(ノエル……会いたいよ)
こんな気持ちになるなんて、少し前の私なら絶対に信じなかった。
薬の素材が足りないとか、研究時間が足りないとか、そういうことで頭を抱えることはあっても、人に会えないだけで胸が重たくなるなんて。
私は枕に顔を埋め、小さくため息をついた。
◇
夜になっても、気分は晴れなかった。
侍女たちが下がったあと、私はそっとノエルの部屋へ向かった。
別に、悪いことをしに行くわけではない。夫の部屋に妻が入るだけだ。たぶん、きっと、問題ない。
扉を開けると、灯りの落とされた部屋に月明かりが差し込んでいた。
王族の部屋にしては飾り気が少なく、武具と本、必要最低限の家具だけが整然と置かれている。無駄を好まないノエルらしい部屋だ。
私は寝台のそばに歩み寄り、ふと足を止めた。
枕元に、銀色の毛が一本落ちている。
「……あ」
思わず指先でつまみ上げた。
細くて、月明かりを受けると淡く光って見える。ノエルの神獣化の影響だろうか。普通の髪よりも少しふわりとしていて、指先にやさしく触れた。
「ふふっ……なんだか捨てるのも勿体ないわね」
その瞬間、胸の奥で何かがひらめいた。
私は自室に戻ると、手持ちの毛糸と針を取り出した。薬師の道具ではないけれど、布袋や包帯を縫うくらいならできる。
銀色の毛を少し混ぜ、白と灰色の毛糸を合わせて、ちくちくと縫い始める。
丸い顔。小さな耳。短い手足。
少しずつ形になっていくそれを見ていると、寂しさがほんの少しだけ紛れた。
「これで耳のふわふわも完成っと」
手のひらほどの銀狼のぬいぐるみが、机の上にちょこんと座る。
尻尾は少し曲がってしまったけれど、それも愛嬌だ。私は指先でそっと整え、胸に抱きしめた。
「……うん。かわいい」
けれど、抱きしめてみると、少し物足りない。
もう少しだけ、ノエルらしさが欲しい。
「……うーん、もうちょっと素材が欲しいわね」
私はぬいぐるみを抱いたまま、もう一度ノエルの部屋へ足を踏み入れた。
寝台の下、絨毯の端、クローゼットの奥。丹念に探してみるが、そう都合よく銀色の毛が落ちているわけではない。
「さすがに、そんなに抜けないか……」
残念に思いながら立ち上がったとき、棚の奥で瓶がきらりと光った。
手を伸ばしてみると、高価そうなワインボトルが数本並んでいる。
「これ……貴族からの贈り物? ノエルはあまり飲まないし……飾ってるだけ?」
月明かりが赤い液体を照らしている。
私はしばらく迷った。
勝手に飲むのは、よくない。よくないけれど、たぶんノエルは怒らない。いや、むしろ「好きにしろ」と言いそうだ。
それに、今日は少しだけ眠れるようにしたい。
「……少しくらい、いいよね」
静かにコルクを抜く。
グラスに注ぐと、赤い色がゆっくり揺れた。
せっかくなので、ズッパで買った干物も皿に並べる。軽く炙ると、香ばしい匂いが部屋に広がった。
「ん……おいしい」
干物は塩気があって、ワインにもよく合う。
けれど、ひと口飲んだあと、胸の奥にぽつりと寂しさが落ちた。
「でも……やっぱり、ひとりだと味気ない」
ノエルがいたら、きっと顔をしかめながらも付き合ってくれただろう。
ニケがいたら、干物を狙って横から手を伸ばしてきたかもしれない。
そう思うと、余計に部屋の静けさが気になった。
(ノエル……早く帰ってきて。ひとりがこんなにも寂しいだなんて……)
グラスを傾ける。
頬が少し熱い。
もう一杯だけ。そう思って注いだはずが、気づけば瓶の中身はずいぶん減っていた。
(ノエル……今ごろ何してるんだろう……)
遠征先で、騎士団の人たちと食事をしているのだろうか。
誰かに頼られているのだろうか。
もしかして、どこかの貴族令嬢に話しかけられていたりして。
(まさか、他の女の人と……)
そこまで考えた瞬間、私は勢いよく首を振った。
「ば、ばかばかっ! そんなわけないでしょ!」
ノエルはそんな人じゃない。
そう分かっているのに、不安が胸の奥で小さく膨らむ。
(私のことは好いてくれていると思うけど……ノエルも王族だし。今の国王様みたいに、奥さんを何人も娶るかも)
嫌だ。
そう思ってしまった。
自分でも驚くほど、はっきりと。
(責任感がある人だもん。国のために、次の世代の神獣人を残す必要があるって考えてるかもしれない)
グラスをもう一度あおる。
喉を通る熱で、胸のざわめきを押し流したかった。
(……それにノエルって、優しいし。顔も整ってるし。銀髪で、赤い目で、黙って立っているだけでも絵になるし……ほんと、罪な人……)
考えれば考えるほど、心が落ち着かない。
私は銀狼のぬいぐるみをぎゅっと抱いた。
「ノエルの……ばか……」
机に突っ伏す。
月明かりの中、赤く染まった頬をぬいぐるみに押しつけたまま、私はいつの間にか眠ってしまっていた。
この夜の小さな不摂生が、まさか王城中を巻き込む騒ぎになるなんて。
この時の私は、まだ少しも知らなかった。




