第48話 潮風の夜、君と寄り添う
やがて港町に夜が降りた。
市場には明かりが灯り、昼間とは違う柔らかな賑わいが広がっている。屋台の灯りが石畳を照らし、遠くの海には船の灯が小さく揺れていた。
女商人との話が終わったあと、私はニケと一緒に少しだけ市場へ戻った。
ノエルを一人にしたわけではない。護衛騎士たちが控えていたし、私たちはすぐ近くにいた。
ただ、彼には少しだけ静かに息を整える時間が必要に見えたのだ。
そして戻ってきた私は、海沿いの広場に立つノエルを見つけた。
黒を基調とした服に銀の髪が映えて、夜の港でもすぐに分かる。整った横顔は月明かりを受けて白く、けれど昼間よりも少し疲れて見えた。
「ノエル、ただいま戻りました」
声をかけると、彼はゆっくり振り向いた。
赤い瞳が私を捉える。
その瞬間、張り詰めていた気配がほんの少しだけ緩んだ気がした。
「これを」
私は手の中の小さな香り袋を差し出した。
布は市場で買った淡い青色の端切れで、口を細い紐で結んでいる。中には、女商人から分けてもらった薬草と、私が手持ちの香草を少し合わせて入れてあった。
「これは……?」
「今日いただいた薬草で作ったんです。お守り代わりにどうぞ」
ノエルは受け取ると、鼻先に近づけた。
香りを確かめるようにゆっくり息を吸う。
その目元が、かすかに緩んだ。
「いい香りでしょう? 抑制薬ほどの効果はないですけど、少しは心が落ち着くかなって」
「……ああ」
ノエルは香り袋を大事そうに手のひらで包んだ。
「ありがとう」
その声が、いつもよりずっと柔らかかった。
胸の奥が、あたたかくなる。
彼の表情から、さっきまでの強張りが少しずつほどけていくのが分かった。
「……なんだ、そんな顔もできるじゃないか」
女商人が、いつの間にか少し離れたところに立っていた。
肩をすくめ、からかうように笑っている。
「銀狼殿下は野蛮、なんて噂を聞いて心配したが……杞憂だったようだね」
「……噂は噂だ」
ノエルはそっけなく答える。
けれど、先ほどまでのような苦しさはもうなかった。
女商人はにやりと笑うと、周囲の人々へ声を張った。
「もうツィオの呪縛に縛られる必要はない。アンタにはもう新しい家族がいるんだ。奥さんたちと幸せになりな」
「お、奥さんたち……?」
思わず私が小声でつぶやくと、ニケが胸を張った。
「僕は家族枠だよ!」
「そこは分かってるけど、言い方が……」
私が頬を熱くしている間に、背後に控えていた護衛騎士たちが揃ってうんうんと頷いていた。
(どうしてそんなに温かい目で見ているんですか!?)
心の中で叫んだけれど、誰にも届かない。
女商人はさらに声を上げる。
「それに、アンタのことを覚えているのはアタシだけじゃないよ! 海の人間は、一度受けた恩を忘れやしないのさ!」
その言葉に、周囲がざわめいた。
市場の明かりの中から、一人の男性が進み出る。年配の、日に焼けた顔をした人だった。
「……あの時、さらわれた子を取り戻してくれたのは殿下だった」
続いて、若い青年が一歩前に出た。
「俺も助けられたんです。あの夜、殿下が賊を退治してくれなかったら……今ここにいません」
別の女性が、涙ぐみながら両手を胸の前で組む。
「家族を救ってくれて、本当にありがとう……!」
感謝の声は、一つでは終わらなかった。
あの日連れ去られた子の親。
助け出された子どもが成長した青年。
家族を取り戻した母親。
次々と、人々がノエルへ言葉を向ける。
ノエルは思わず目を伏せた。
信じられないものを聞いたように、唇をわずかに開いている。
護衛騎士たちも、誇らしげに彼を見ていた。
その眼差しには、主を敬うだけではない、確かな信頼があった。
「ほらね」
女商人が笑う。
「ちゃんと殿下のしてることは伝わっていくもんだよ。そのまま頑張りな」
ノエルは長く黙っていた。
それから、小さく苦笑する。
「……そうだな」
短い言葉だった。
けれど、その声には確かに何かが戻っていた。
彼はゆっくり視線を上げる。
表情に差していた暗い影が消え、すっきりとした笑みが浮かんだ。
ほんの一瞬の笑顔。
それでも、私には分かった。
ノエルの中で、長く絡まっていたものが少しだけほどけたのだと。
◇
初めて人を傷つけた夜。
ノエルの手は血に濡れていた。
洗っても落ちず、心の奥に残り続けた。
血に濡れた手で人質の少女を引き、必死に走った。
その少女は泣いていた。
助けられたことへの安堵なのか、ノエルへの恐怖なのか、その時の彼には分からなかった。
ただ、その手が汚れていることだけが、はっきり分かった。
◇
けれど今。
私はその手を取った。
何も言わずに、そっと重ねる。
ノエルの指先が一瞬だけ震えた。
すぐに、ニケの小さな手もそこへ重なる。
「ほら、帰ろうよ。お腹空いたし」
ニケが明るく言う。
ノエルは驚いたように私たちを見て、それから小さく頷いた。
私たちは三人で手をつないで歩き出す。
夜の港町は、昼間よりも少し静かで、灯りが水面に揺れていた。
ノエルは深く息を吐き、夜空に瞬く星を見上げた。
その眼差しは、苦しみだけに沈んではいない。
安堵があった。
そして、前へ進もうとする意志があった。
「あのころとは違う」
誰に聞かせるでもなく、ノエルが呟く。
「俺は……俺の意思で戦えている。大事な人たちを守るために」
その言葉に、私は静かに微笑んだ。
「はい」
握った手に、少しだけ力を込める。
「私は、そのノエルの隣にいたいです」
彼がこちらを見る。
赤い瞳が、夜の明かりを受けて柔らかく揺れた。
「……マリー」
名前を呼ばれただけなのに、胸がきゅっとなる。
ノエルは何かを言いかけて、けれど言葉に迷ったように口を閉ざす。
代わりに、つないだ手を離さなかった。
それだけで十分だった。
◇
結局、その日は港町ズッパに泊まることになった。
街長のすすめもあり、遅い時間に無理に王城へ戻れば、護衛騎士団にも負担がかかる。港の門も閉じられていた。
案内された宿屋の客間は、王城ほど豪華ではないけれど清潔だった。窓の外には夜の港が見え、遠くで船の鐘が小さく鳴っている。
ニケは気を使ったのか、それとも本当に眠かったのか、別室ですでにぐっすり眠っている。
つまり今、この部屋には私とノエルしかいない。
「……結局、泊まることになっちゃいましたね」
私は落ち着かない気持ちを隠すように言った。
「街長のすすめもあったし、遅い時間に無理に帰れば騎士団に負担がかかる。港の門も閉じられていたしな」
「そ、そうですよね」
会話は普通のはずなのに、なぜか妙に意識してしまう。
蝋燭の灯りが揺れて、ノエルの横顔に淡い影を落としていた。
銀色の髪は少しほどけ、昼間よりも柔らかく見える。赤い瞳は私をじっと見つめていて、逃げ場がない。
「……マリー」
「!」
心臓が大きく跳ねた。
どうして名前を呼ばれただけで、こんなに緊張するのだろう。
ノエルは意を決したように近づいてくる。
そして、もぞもぞと私の肩に頭を預けた。
そのまま、すっと体を寄せてくる。
「ちょ、近い、近いです!」
「香り袋もいいが、こちらの方がもっと落ち着くな……」
ノエルは真面目な顔でそう言うと、私の肩口に頬を寄せた。
銀色の髪が首筋に触れて、くすぐったい。
(完全に犬だ……)
しかも大型の、すごく綺麗で、すごく甘え方を知らなかった犬だ。
「もぉ……! みんなの前でも甘えすぎですよ」
「俺は別に気にしないが」
「私が気にするんです!!」
思わず声が大きくなった。
ノエルは少しだけ耳を下げる。
その顔をされると、強く言いづらい。
けれど、ここで引いてはいけない。
私は顔をぷいとそむけ、できるだけ毅然とした声を出した。
「もう、そこまで頑固ならルールを決めます! 人前でいちゃつかないこと!」
「……いやだ」
「即答!?」
思わず振り返ると、ノエルは真剣な顔でこちらを見ていた。
「じゃあ、私に嫌われてもいいんですか!?」
その瞬間、ノエルは迷いなく頷いた。
「守る」
早い。
あまりにも早い。
「……でも、その代わりにご褒美がほしい」
「ご、ご褒美?」
嫌な予感と、少しだけ期待してしまう気持ちが同時に胸を叩く。
ノエルは私の手を取り、指先を包んだ。
その仕草があまりに自然で、言葉が詰まる。
「人がいないところでなら……多少は、その……」
自分で言って、顔が熱くなった。
ノエルの耳がぴんと立つ。
「約束だ」
「ま、待って。今のは言葉のあやというか、限度はありますからね?」
「分かっている」
本当に分かっているのだろうか。
不安になって見つめ返したけれど、ノエルの眼差しはひどく真剣だった。
甘えているようで、どこか大事なものを確かめるような目。
その瞳を見ていると、胸の奥が静かに熱を持つ。
蝋燭の炎が揺れた。
影が壁に重なって、部屋の中が少しだけ静かになる。
ノエルはそっと私の手を取り、ベッドの縁へ導いた。
「……っ」
腰を下ろすと、距離が近くなる。
肩が触れそうで、触れない。
鼓動が早くて、うまく言葉が出てこない。
ノエルは迷いを捨てるように、私の前に膝をついた。
そして、ゆっくりと顔を近づける。
唇が触れたのは、額だった。
あたたかくて、丁寧な口づけ。
それだけなのに、胸の奥までほどけていくようだった。
「今日は、ありがとう」
ノエルの声が近い。
「俺の手を取ってくれて」
「……何度でも取ります」
自然と、言葉がこぼれた。
「ノエルが望むなら。いいえ、望まなくても、必要そうなら勝手に取ります。私は薬師なので」
「それは理由になるのか?」
「なります」
そう言い切ると、ノエルが小さく笑った。
その笑みがあまりにも優しくて、私は息を呑む。
次の瞬間、彼は私をそっと抱き寄せた。
強くはない。
逃げようと思えば逃げられるくらいの力。
でも、私は逃げなかった。
彼の胸に頬を寄せると、ゆっくりとした鼓動が聞こえる。
昼間の痛みも、過去の記憶も、今だけは遠ざかっていく。
寄り添う心は、少しずつ温もりに変わっていく。
港町ズッパの夜は静かで、遠くの波音だけが聞こえていた。
私は目を閉じる。
ノエルの腕の中は、もう怖くなかった。
むしろ、ひどく安心できる場所になっていた。
その夜、私たちは長い時間、ただ寄り添っていた。
言葉は少なかったけれど、触れた手と、重なる呼吸が、互いの気持ちを少しずつ確かめてくれた。
夜更けの空に、星が静かに瞬いている。
明日になれば、また何かが起こるのかもしれない。
けれど今だけは、この穏やかな時間を大切にしたかった。
ノエルの指が、私の手をそっと包む。
私はその手を握り返しながら、小さく息を吐いた。
港町の夜が、私たちにささやかな休息を与えてくれていた。




