第47話 優しさの裏にあったもの
女商人は、人波から少し外れた裏通りへ荷車を進めた。
表通りの賑わいはまだ聞こえている。けれど、こちらは建物の影が濃く、潮風に混じって乾いた薬草の匂いが漂っていた。
荷車には束ねた草や小瓶、古びた布が積まれている。そのそばに立つ女商人は、風に焼けた頬を夕陽に照らされながら、まっすぐノエルを見た。
「ツィオは……孤児だった。私と同じ孤児院で育ったのさ」
ノエルの赤い瞳が、かすかに揺れる。
銀色の髪が潮風にさらりと流れた。いつも背筋を伸ばしている彼が、その瞬間だけ、ほんの少し肩を落としたように見えた。
「孤児院で……」
「ああ。あの子は昔から頭が良かったよ。けれど、優しいだけの子じゃなかった」
女商人は目を細める。
「貧しい街角で、よく一人で本を読んでいた。粗末な服を着て、膝に本を置いてね。周りの子どもたちが走り回っていても、あの子だけはずっと文字を追っていた」
その声は懐かしむようでいて、どこか苦かった。
「けれど、身なりのいい子どもたちにはよく馬鹿にされていたよ。孤児のくせに本なんか読んでどうする。貴族でもないくせに、薬師になれると思っているのかってね」
私は思わず唇を引き結んだ。
薬師になるには、知識だけでは足りない。道具も、本も、師も、身分もいる。前世の知識がある私でさえ、この世界で薬師として認められるまで、何度も壁にぶつかった。
何も持たない孤児のツィオが、それを望むのは、きっと簡単なことではなかったはずだ。
「ツィオはね、特権階級への強い劣等感を抱いていたんだ」
女商人は荷車の取っ手に手を置いた。
「だからこそ、必死に頭を使った。誰に近づけば得をするか。何を言えば相手が喜ぶか。どこで弱みを握れば道が開けるか。あの子は子どもの頃から、それを考えていた」
ノエルは何も言わない。
けれど、拳は固く握られていた。
「やがてツィオは、ある貴族の屋敷に入り込んだ。最初は使い走りのような立場だったらしいけどね。けれど、そこでうまく立ち回った。病弱な奥方には薬草の知識を見せ、気難しい主人には忠実な顔をし、使用人たちには弱みをちらつかせた」
女商人の声は低くなる。
「最後には、その家の養子になった。戸惑う養父母の前で、涙まで流したそうだよ。自分には学ぶ機会が必要だ。必ず家の役に立つ、とね」
「……それで、薬師に」
ノエルの声はひどく静かだった。
「ああ。本来なら、孤児が手にできるはずのなかった地位だ。ツィオは狡猾さでのし上がった。貴族の養子となり、薬師の地位まで掴み取った」
風が吹き、荷車の上の布が小さく揺れた。
「他人を利用してのし上がる……それがアイツの正義になったんだ」
その言葉が、夕暮れの裏通りに重く落ちる。
私の胸にも、小さな痛みが走った。
ツィオはノエルにとって、ただの専属薬師ではない。
孤独だったノエルが、心を預けていた人だ。
その人の過去を、こんな形で聞かされるのは、どれほど苦しいだろう。
ノエルは目を伏せたまま、低く息を吐いた。
「俺は……あの人を、信じていた」
その一言に、胸が詰まる。
私はそっと手を伸ばしかけた。けれど今は、彼が自分で受け止めようとしている時間なのだと思い、指先を引っ込める。
女商人は、そんなノエルをじっと見ていた。
「アンタに近づいたのも、優しさだけじゃなかったんだろうね」
その言葉に、ノエルの肩がわずかに動く。
「神獣人を従える専属薬師。王家に近づける立場。あの子にとって、それは自分を馬鹿にした連中を見返すための、何より分かりやすい証だったのさ」
ノエルの表情に、影が差した。
彼の瞳は遠くを見ている。
きっと、昔の記憶をたどっているのだ。
◇
王城の訓練場。
まだ幼いノエルは、木剣を握って立っていた。
銀の髪は今より短く、体つきも細い。それでも周りの兵士たちは、彼を子どもとして見ていなかった。
神獣人。
国を守るための力。
そう呼ばれるたびに、幼い胸には重いものが積もっていった。
「迷うな」
背後から、ツィオの声がする。
白衣をまとった青年のツィオは、薬瓶を差し出した。整った顔立ちに浮かぶ笑みは穏やかだったが、その目は冷静だった。
「お前は神獣人だ。国のために牙を研げばいい」
ノエルは薬瓶を受け取る。
迷いながらも飲み干すと、喉の奥に苦みが広がった。
しばらくすると、胸の奥が熱くなる。
怖い。
苦しい。
けれど、その感情が薄い膜の向こうに遠ざかっていく。
目の前の相手を倒す。
命じられた通りに動く。
ただ、それだけを考えればいい。
木剣が振るわれる。
何度も、何度も。
相手が倒れても、訓練が終わるまで動きを止めない。
その様子を、ツィオは訓練場の端から見ていた。
満足げに。
まるで、薬の効果を確かめる研究者のように。
◇
次に浮かんだのは、戦場だった。
煙と怒号の中、成長したノエルは敵兵を斬り伏せていた。
白銀の髪は血と泥で汚れ、赤い瞳は感情を失っている。
誰かが彼を化け物と呼んだ。
誰かが銀狼だと叫んだ。
それでもノエルは止まらない。
敵を倒す。
国を守る。
神獣人としての役目を果たす。
そうするしかないと信じ込むことで、自分の心を守っていた。
その後ろで、ツィオが静かに頷いている。
彼の表情には、労りよりも、手応えを確かめるような色があった。
(ツィオは自分のために……俺をただの、指示通りに動く殺人の道具に仕立てたのか?)
その疑問が胸を刺す。
けれど、答えは誰も返してくれなかった。
◇
「彼は優越感に酔っていたんだよ」
女商人の声が、現在へ戻してくる。
「神獣人を従える専属薬師。権力者に利用されるどころか、利用する側に立ったつもりでね」
ノエルは唇を噛みしめた。
白い肌に、血の気が薄くなっている。
赤い瞳は、怒りとも悲しみともつかない色に沈んでいた。
(ノエル……)
私はもう、ためらわなかった。
そっと彼の手に触れる。
ノエルの指先は冷えていた。
彼は一瞬だけ驚いたようにこちらを見る。
けれど、私が何も言わずに手を握ると、拒まなかった。
その代わり、苦しそうに目を伏せる。
「……ツィオ……お前は……」
小さくこぼれた声は、潮風に消えそうなほど弱かった。
裏切られた怒りだけではない。
それでも信じた時間を、なかったことにできない痛みが、そこにはあった。
女商人は静かに息を吐く。
「全部が嘘だったとは言わないよ。あの子にも、情はあったのかもしれない。ただ、その情よりも自分の欲が勝った。それだけさ」
ひどく簡単に言われた言葉なのに、胸に重く残る。
ノエルは黙ったまま、握った私の手を少しだけ強くした。
その力が、今にも崩れそうな彼の心を支えているように思えて、私は指を絡めるように握り返した。




