第46話 神獣人の天命と、幼い傷跡
夕陽を背に、私はほんの少しだけノエルの肩へ寄り添った。彼の手は相変わらず私の手を包んだままで、その熱がじんわりと指先へ移ってくる。
さっきまで胸の奥に引っかかっていた苦い記憶も、不思議なくらい静かになっていた。
だからこそだろう。
次の瞬間、ぐいっと別方向から腕を引かれたとき、私は小さく目を丸くしてしまった。
「ねぇ! あっちの出店も見てみようよ!」
ニケだった。
空気を変えようとしてくれているのが、すぐに分かる。
「え、ちょ、ちょっとニケ……!」
「早く早く!」
私の手を引いて駆け出すニケの足取りは軽い。
つられるように数歩進んだところで、思わず笑みがこぼれた。
まったく、この子は本当に気が利く。
振り返れば、ノエルが少し遅れてこちらへ来ようとしていた。
そのときだった。
「……おや、アンタ。もしや十年前の……」
低い、しゃがれた女の声。
ノエルがぴたりと足を止める。
私もニケもつられて振り返ると、大通りの端に荷車を押した中年の女商人が立っていた。
積まれているのは、乾燥させた薬草や色とりどりの布、香辛料の袋に、旅の道具らしい細々とした品々。風に焼けた肌と、鋭い目つきがいかにも場数を踏んだ商人らしい。
その人が、食い入るようにノエルを見つめていた。
「俺を……知っているのか?」
ノエルが低く問う。
女商人は鼻を鳴らすように笑った。
「忘れるもんかい。あの銀の獣を……」
その言葉に、ノエルの表情が目に見えて強張った。
私の胸も、嫌なふうにざわつく。
銀の獣。
それはきっと、今のノエルではなく――まだ幼かった頃の、神獣人として扱われ始めた彼のことだ。
ノエルは何かを言い返すでもなく、ただわずかに目を伏せた。
その横顔を見た瞬間、私は胸の奥にひやりとしたものを覚えた。
この人は、ノエルの何を知っているのだろう。
◇
王城の冷たい石床の上で、幼いノエルは膝をついていた。
まだ体も小さく、肩も細い。
けれど、その前に立つ男――国王は、そんなことを一切考慮していない目をしていた。
「我が息子、ノエルよ」
低く、重たい声が降ってくる。
「お前に任務を与える」
顔を上げた先にあったのは、父親の情ではなく、ただ命令を下す王の視線だった。
「港町ズッパにはびこる、賊共を一掃せよ」
拒絶も、躊躇も、許されない声音。
「神獣人としての役目を果たせ――」
幼いノエルは震えた。
けれど、頷く以外に許された選択肢などなかった。
◇
潮と血の匂いが入り混じる、港町の地下倉庫。
そこは人の売買に使われていたらしい、薄暗く湿った空間だった。
布を頭からかぶせられた子どもたちが、檻の中に押し込められている。泣き声を上げる子もいれば、すでに声も出せず震えている子もいた。
その前に立つ幼いノエルを取り囲んでいたのは、この国の人間ではなかった。
浅黒い肌に、砂色の布を巻き付けた異国の装い。
首や腕には金属の装飾がじゃらりと下がり、曲刀や湾曲した槍が薄暗い灯りを鈍く反射している。
砂漠の民特有の顔立ちをした男たちは、獣を見る目でノエルを睨んでいた。
(この国の人間じゃない……? ……くっ)
迷っている暇はなかった。
一人が吠えるような声とともに斬りかかってくる。
次の瞬間、ノエルの体はもう反応していた。
弾かれる刃。
蹴り飛ばされる大人の体。
狭い倉庫に鈍い音が連続して響く。
怖い。
けれど、それ以上に止まれなかった。
止まれば、自分が斬られる。
止まれば、檻の向こうの子どもたちがもっと酷い目に遭う。
だから、躊躇っている余裕なんてなかった。
いつの間にか、床には何人もの賊が転がっていた。
荒い息を吐きながら、ノエルは檻へ近づく。
「もう、大丈夫だ」
小さな手で鍵を外し、頭からかぶせられていた布を取ってやる。
助けたかった。
安心させたかった。
なのに――
「ありが……ひっ」
布の下から自分を見た子どもたちは、揃って顔を引きつらせた。
泣き出す子。
後ずさる子。
怯えきった目。
ノエルは反射的に、自分の手を見下ろした。
血に濡れていた。
爪も、腕も、服も。
まるで本物の獣のように。
胸の奥が、冷たくなる。
助けた、はずだった。
それなのに。
助けられた側にすら、こんなふうに恐れられるのか。
「あ、待って……!」
幼い女の子の声が背中にかかった。
けれどノエルは振り返れなかった。
そのまま、ふらふらと倉庫を出る。
誰もいない裏路地にたどり着くころには、呼吸は乱れ、全身の力も抜けかけていた。
(助けたはずの人質にすら怯えられて……自分の凶暴さが恐ろしくなった)
胸が焼けるように苦しい。
手も震えていた。
これは国のためだ。
神獣人の天命だ。
そうやって、自分に言い聞かせる。
そうでもしなければ、自分が何者なのか分からなくなりそうだったから。
「……疲れた。少し、休もう」
壁にもたれたまま、その場にずるずると座り込む。
目を閉じると、体が急に重くなった。
初めての本格的な戦闘だった。
傷も痛みも、もうよく分からない。
そのままノエルは、気を失うように眠りへ落ちていった。
◇
その頃、まだ幼かった私は、物陰からそっとその姿を見つけていた。
助けてくれた子だ。
顔は血と汗で汚れていて、さっきまであんなに恐ろしく見えた銀の髪も、今はぐったりと力なく垂れている。
死んでいるのではないかと、ひやりとした。
「あ、あの……」
声をかけようとして、けれど足が止まる。
怖くなかったわけではない。
あの戦いを見てしまったあとでは、なおさらだ。
それでも。
このまま置いていくのは、どうしても嫌だった。
私はおそるおそる白衣の裾……ではなく、当時のぼろ布の内側に隠し持っていた小瓶を取り出した。
傷に塗れば、少しだけ痛みを和らげる薬。
自分のために作っていた、ささやかな手持ちのひとつだった。
眠るノエルの足元に、そっと置く。
「……ありがとう」
聞こえるはずもない声でそれだけ呟いて、私はすぐにその場を離れた。
◇
どれくらい経ったのか。
裏路地の外から、騒がしい声が近づいてきた。
ノエルがうっすら目を開けると、そこにいたのはツィオだった。
「起きたか?」
「……ツィオ」
安堵と疲労が入り混じった声。
そのとき、ノエルは足元に小瓶があることに気づいた。
見覚えのない薬。
けれど、体はもう限界だった。
半信半疑で傷に塗ると、ひりつく痛みが少しだけ和らぐ。
ツィオは何も言わず、ただノエルの様子を見ていた。
「帰るぞ。陛下に報告だ」
「……ああ」
ノエルは小瓶を握りしめた。
(……俺のために薬を?)
疲れ切った頭では、そこまでしか考えが及ばなかった。
それが誰のものかも知らず、ただ、そばに来てくれたのがツィオだったから。
(……ありがとう)
そうしてノエルは、ツィオの優しさだと思い込んだ。
初めての任務。
初めて人を傷つけた夜。
初めて、自分の凶暴さを心底恐れた日。
そんな日に手を差し伸べてくれた相手として、彼の存在は深く刻み込まれた。
だからこそ、ノエルはツィオに依存していったのだ。
自分を化け物ではなく、まだ人として扱ってくれる数少ない誰かとして。
◇
「……あの頃のアンタは、痛々しかったよ」
女商人の声で、私は現在へ引き戻された。
いつの間にか、通りのざわめきが少し遠く感じる。
ノエルは目を伏せ、わずかに拳を握っていた。
その横顔には、普段の無表情とは違う固さがあった。
思い出したくない記憶を、不意に暴かれた人の顔だ。
「……あの日もアンタを連れたツィオを偶然見かけてね」
女商人は懐かしむように目を細める。
「もう何十年と会ってなかったから、それは驚いたさ」
「ツィオの過去を知っているのか……!?」
ノエルが顔を上げた。
その声には、驚きと焦りが混じっている。
ツィオのことになると、やはり彼は隠しきれない。
女商人の瞳には、遠い記憶の色が宿っていた。
「……何も聞いてなかったのかい」
ふっと、少し寂しそうに笑う。
「ふふ、アイツらしいね……」
その言い方は、ただ知っているというだけではない。
もっと深いところで、ツィオという人を覚えている声音だった。
私はごくりと息を呑んだ。
ノエルも、ニケも、次の言葉を待つように息を潜めている。
夕暮れの港町を吹き抜ける潮風が、荷車の上の薬草をかさりと揺らした。
知らなかった過去が、またひとつ、静かに扉を開こうとしていた。
新作短編投稿しました!
「私を虐げた義妹の子を育てることになりました。元婚約者が今さら親権を主張してきましたが、いつまで選ぶ側だとお思いですか?」
https://ncode.syosetu.com/n0094ma/
是非ご覧ください!




