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十八話

 犯人は、渋谷駅の構内へと逃げ込んだ。


 道祖土と鬼崎が追いかけるも、どこにでもいるようなスーツ姿の人間はすぐに駅の利用客へ紛れ込む。


「くそっ!」


 鬼崎の耳には、上司の怒鳴り声が直接注ぎ込まれていた。応援が来る前に声を掛けたことや犯人を取り逃がした時の責任やらをがなり立てている。


「おい、監視カメラを見せてもらうぞ」

「はい」


 上司以上に上司のような道祖土が、駅員の協力を仰ぐと瞬時に決断する。犯人の行き先だけでも突き止めるのだ。手勢がない場合における妥当な判断だった。


「あ、ちょっと待て」


 道祖土が走り出そうとした鬼崎を呼び止める。


「どうしました?」

「うちのエースが犯人を追跡してる」


 道祖土はスマートホンに表示されたメッセージを見ていた。


 モモネからのメールだった。




 モモネの鼻は、匂いの古さをも嗅ぎ分けられた。


 誘拐犯から漂う殺人犯の匂いは、五、六年前のものだった。きっと恋仲だったのだろうと、モモネは想像した。


 匂いには時間が記録されている。もしくは、時間が匂いを記録していた。


 モモネにはどちらでもいいことだった。モモネにとって過去とは匂いなのだ。今という時間は流れ去るものではなく、匂いとして留まるものだった。匂いを持った人が走れば、それは空間に打点されていく。モモネの仕事は、その事細かに打点された三次元の曲線を追うことだった。


 そして匂いは、永久に染みつくことをモモネだけが知っている。


 普通の人間なら、最低でも母親の匂いが一つ染みついていた。年を重ねるごとに触れあう人間が増えれば、染みつく匂いも増えていった。真岡のように血の臭いを身につけている人もいる。血の臭いは嫌いだった。怖い想像を真っ先にしてしまうのだ。今追いかけている犯人からも他人の血の臭いが複数漂っていた。


 モモネは真岡からもらったぬいぐるみを取り出し、過敏になった嗅覚からの刺激を和らげようとする。


 なんどもこねくり回した猫のぬいぐるみ。しわくちゃにして申し訳がないから、天日干しでふかふかに戻したばかりなのだ。


「音楽は?」

「いりません。そこまで気持ち悪くありませんから」


 モモネは性の営みで発生する臭いが苦手だった。駅という場所なので、そういう臭いは極端に少ない。


 犯人は渋谷駅の一番奥のホームへと降りていった。

 その旨を道祖土へメールで報告しつつ、モモネも追いかけた。

 とても一人でできることではなかった。

 隣に真岡がいるからできることだった。


 神獣学を監視するために上京したのに、神獣学を志す人といることが不思議だった。もっとおかしいと思うのは、その人といると少し安心してしまうことだった。


 モモネは修行が足りないと反省することが、とりわけ多くなっている。

 少し夢中になって追いかけ過ぎた。

 真岡に肩を掴まれてモモネははっとした。




 真岡は、ホームに降りた時点で誘拐犯と目が遭ってしまった。


 ホームは、ちょうど乗り降りを終えた状態で閑散としている。


 犯人は、明らかにこちらへ敵意を向けていた。スーツを着て、髪を後ろへ流しているのに、人相からあふれ出る一線を越えてそうな雰囲気が堅気のものではなかった。


 モモネは気づいていないのか歩みをやめない。

 犯人もこちらへ向かってきている。

 真岡は慌ててモモネを引き留めて後ろへかばった。


「てめぇら、なんでついてくる?」

「え、なんのことですか?」

「とぼけんじゃねぇ! さてはサツの協力者か?」

「いやー、よくわからないな~」


 モモネを押しやり、階段を上って逃げるように促す。酔っぱらいを担いでいるときに学んだのだ。誰かの世話をしていると、自分の身を守れないと。


 危険を察したのか、モモネは階段を上って逃げ始めた。

 誘拐犯は、モモネの姿を見た後、なにかを決断し真岡を見る。


 やり慣れた実験に取りかかる教授のような顔だと思った。渋谷駅前を通り抜ける人たちとも少し違う、省電力モードだ。


「まぁ、お前でもいいか」


 懐からナイフを取り出す。良く見れば黒い革手袋もしていた。

 人質にされる。

 真岡は悟った。


「わあああ! あああああ、ごめんなさい!」


 ナイフを持った男が迫ってきて、思わず前蹴りを繰り出した。自分がやられた蹴りを悔しいから学習していたのだ。一度やられたことがあると、脳のリミッターが外れるとわかった。受けた痛みに対する復讐もあり、手加減や躊躇がもれなく抑えられていた。振るわれた暴力が子孫に伝染する理由を体験する。


「うぇっほ、えっほ!」


 誘拐犯は、いきなり鳩尾を蹴られて膝をついた。


「よくやった!」


 階段の上から道祖土が歓声を上げる。


 駆け下りてきた鬼崎が、すばやく誘拐犯とおぼしき男を暴行罪で現行犯逮捕した。


「俺を逮捕して良かったのか?」

「なに?」

「人質は数時間以内に死ぬ。これで身代金との取引もできなくなった」

「誘拐した少年はどこだ?」


 鬼崎が感情を抑えながら問いただすも、誘拐犯はへっと笑うだけで答えなかった。


「怪しい人物がナイフを振り回したので暴行罪の現行犯として逮捕しました。誘拐に関することも供述しています。人質が数時間以内に生命の危機に陥ると言ってから黙秘しました」


 鬼崎は、正確に事実を報告する。

 すぐにイヤホンを耳から外して顔を歪めた。

 上司の雷が落ちたのだ。


「鬼崎ぃぃ! あれほど慎重にと言っただろう!」


 すぐに階段の上から警官の群れを率いた男がやってきた。鬼崎の上司のようだった。


「なぜ指示に従わなかった!」

「緊急を要すると言ったのは警部です」

「慎重にとも言った!」

「逮捕した誘拐犯を警部の責任で釈放しますか?」

「ぐ」


 鬼崎と上司のそりが合わないのは一目でわかった。


「あの、ありがとうございました」


 真岡が鬼崎と上司の口論を眺めていると、モモネがお礼を言ってきた。目を潤ませて泣きそうになっている。刃物を向けられれば、誰でもそうなると思った。なにせ、真岡も立っているのがやっとなほど、足が震えているのだ。とっさに前蹴りがでなければ、喉元に刃物を突きつけられて誘拐犯と警察の板挟みになっていたに違いないのだ。


「ああ、まあね。無事でよかった」


 真岡は強がりを見せる。笑った顔は恐怖で引きつっていた。


「あー、警部殿、人質を見つけるのが先ではないですか」


 道祖土は、鬼崎と上司の間に割って入り、仲裁する。


「あんたは?」

「もと警視庁捜査一課の道祖土と言います。今は探偵をしています」

「探偵だと?」


 鬼崎の上司は、道祖土を睨み付けるように眺めると鼻を鳴らした。


「まぁ、人質の生命が最優先だ。逮捕してしまったものはしかたない。そいつはこちらで取り調べる。鬼崎は、人質を捜せ」

「了解」


 道祖土が水を差したことにより、上司は現状を正しく理解したようだった。

 誘拐犯は、上司に連行されていく。


「人質か、どうやって探したらいい?」


 鬼崎が自信なさげに呟いた。

 道祖土がモモネを見ると、モモネは力強く頷く。

 すでにヒントとなる匂いを誘拐犯から得ているのだ。


「私が探します。車を用意してもらってもいいですか?」


 人質の居場所は遠方であることまでわかっていた。


「手配しよう」


 鬼崎はモモネの要求を快く引き受ける。


「お前も来い」


 道祖土は、真岡の肩を叩いて気合いを注入する。古くさい非合理な方法だったが、真岡は奮起して足の震えに抗って一歩を踏んだ。


 鬼崎は、渋谷駅前に停車していた応援のパトカー一台と巡査長を一名借り受けて、人質の捜索に乗り出した。


 真岡やモモネにとって初めて乗るパトカーだった。

 無線機などを取り付けられた内装を見ると、特殊な車なのだと思った。


「地図ってありますか?」

「ああ、あるよ」


 鬼崎はダッシュボードから東京都の地図を取り出すと、モモネに渡した。


「シートベルトをしてくれよ。警官が交通規則を破ってたなんていいエサになるからな」


 助手席に座った鬼崎が言うと、後ろに座った道祖土とモモネ、真岡は一斉にシートベルトを探した。

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