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相も変わらず、平日の朝の通勤電車は重松にとって苦痛だった。
高度成長期のように、会社の歯車となって身を粉にして働くというイデオロギーは、現代では錆び付きつつあるが、朝のサラリーマンの荒んだ殺気というものはいつの時代も変わらない。
這いつくばるようにして、府警本部まで辿り着いた。
――今日の捜査会議は永野管理官、前垣捜査一課長、そして三瀬府警本部長の三役揃い踏みである。
膨らみかけの風船のように不機嫌そうな表情をしているのが標準的な永野でさえ、捜査の進展具合に上機嫌といった模様だった。なにせ、被害者の共通点を明かしただけでなく、限りなく黒と言うべき人物を特定しているのだ。
三瀬本部長は会議に先立って、簡潔な訓示を述べる。あくまでも現場に出ている捜査員相手に出しゃばるようなことはしない。その様はスマートな狼を思わせた。
前垣の司会のもと、重松がここまでの捜査の進展状況について掻い摘みながら説明する。江口と前嶋が掴んだ、宮田の動機を推し量ることの出来る過去の強姦致死事件についても、忘れずに。
無論、殆どの捜査員は既に知っている内容だ。
重松の講義が終了すると、永野がマイクを掴んで大きく咳払いをした。このような聴衆の前でマイクを手に喋る時、不思議と人は咳払いから入るものだ。
「――今の重松君の説明に付け加えて、報告しておくべきことがある。まず今朝早く、和歌山県警から連絡があり、五件目の事件の被害者のDNAと黒木清次郎のDNAが一致したそうだ」
群衆から感嘆の声は上がらなかった。皆かなりの確信を持っていたのだろう。
「これからの捜査は、このボードに列記されている八人の被害者の身辺を洗い、宮田整形外科医院に通院していた証拠を見つけ出すこと。これに渾身の力を込めて欲しい。増えれば増えるほど、宮田医院への捜索差押令状が取りやすくなるからな……。まだ殺害から間もない村上のカルテは残ってる可能性が高いし、通院してたことが証言されてる菱谷のカルテが無かったら、それはそれで義務違反や。とにかくガサ入れをしたい」
眼鏡の奥の瞳が舐め回すように旋回する。対峙する者を不愉快にさせる不思議な眼光だ。
「現時点では友人の証言として菱谷が通ってたことが分かっているのみである。平井に関しては堺市の整形外科に、矢沢に関しては堺市の病院に通っていたとのことで、濃厚ではあるが確実でない。出来ればこの二人も含めて証拠が欲しい。因みに、被害者の加入してた健保組合とかには既に捜査が入ったけれども、受診歴は残ってなかった。恐らく、受診のデータを消して医療費の請求をしないことで受診歴を残さないようにしてたと思われる」
言われなくとも重松の心中もその通りであった。そのような安直な近道を残しておく程、宮田は馬鹿では無い。
宮田整形外科医院は宮田の掌の上に造られた城なのだ。幾らでも操作できる。他の捜査員達も揃いに揃ってそう思っていることだろう。
永野が額の汗を拭う間、持て余された沈黙が流れる。
「……そして、昨日宮田整形外科医院に聞き込みに行った重松・勝野組から、次の標的になりうる人物として篠崎昌信という男の情報が入っている。彼もまた太腿に入れ墨がある。従って、先に述べたことに加えて、篠崎の警護もまた重要な仕事になってくる」
重松が腰を浮かせると、永野はその動作を執拗なまでに眺めていた。今にも開いた口から不満が漏れそうだった。
「ええ、昨日篠崎には警護の必要上、ある程度の捜査情報を話しました。徹底的に護衛する手筈です。昨夜のうちに所轄の警官を篠崎の自宅に送り込んで、玄関先で二人交代で見張ってもろてます。それから、これは非常に都合のええことなんですが、篠崎は二年程前から無職の状態なんですわ」
不機嫌そうな唇がふわりと弛緩する。無職、ということは在宅している時間が長く、それだけ監視下に置きやすい。
「重松君、宮田は篠崎を襲うとすればいつ頃動き出すと思う?」
「正直すぐにでも動くと思います。宮田は頭の切れる男です。我々が聞き込みに行った時点で、多少は察したやろうと思いますから」
永野の顔には重い鈍色の雲がかかったようだった。
「それやったら寧ろ暫く動かへんのとちゃうか? 能ある鷹は爪を隠すっちゅう言葉を知っとるやろう?」
この意見には同調する捜査員も幾らかいた。重松自身も予測していた反応だった。
「確かにそうとも考えられますが……宮田の執着心ちゅうのは、相当の物があると感じます。幼少期の事件が犯行の発端になっとることを聞いて、ますますそんな気がします」
「逮捕される恐怖よりも、復讐心が勝つと見とるんやな?」
「奴には我々警察に対する恐怖心ちゅうのはあんまり感じませんでした。いつ捕まってもええように、すぐに動き出しそうな気がします」
永野が露骨な仏頂面を作る。終始真顔を守っている前垣や、鋭敏な表情で鎮座する三瀬と好対照だった。
「今の所、重松君の『気』だけがその根拠のようやけども?」
「まぁ確かにそうですな。せやけど、どっちにしても護衛せんわけにはいかんでしょう。標的になりそうな人物を野放しにしといてむざむざと殺されでもしたら、それこそ庭先の毛虫みたいにマスコミから叩き潰されますよ」
害虫と同じ目に遭うのは嫌だったのか、永野は口を窄めて苦笑を浮かべた。
「ほんなら重松君の言うように、宮田がすぐ動く可能性も十分に考えながら、所轄と連携して警護に当たってくれ」
捜査会議が終わると、重松は江口と美由希、前嶋や鈴木などのメンバーを被害者の周辺捜査に当てた。自らは佐久間と共に篠崎の自宅の様子を見に行くつもりだ。
一通り指示を終えると、三瀬から声をかけられた。
「重松君、連日マスコミが騒ぐ中、目を瞠るスピードで捜査が進んどるね」
いつものらりくらりと晩秋の紅葉の葉のような重松でさえ、本部長と一対一となると、ただぎこちない微笑を蓄えているだけだった。
尤も重松の場合は、三瀬の額の上に切り立つ嵩高い頭髪からして、劣等感を感じざるを得なかった。
「部下が頑張ってくれますから。私は大したことはしとりません」
「ここからはホシを挙げることだけやのうて、篠崎の命を守ることも大きな任務や。徹夜仕事になるかもしれんけど、頼むで」
胸を張って深みのある声でそう語る姿は、不思議と威圧感を感じさせない。
「そらもう徹夜仕事ですわ……」
その言葉に装飾は一つも無い。今日からは時間との戦いとなるだろうと踏んでいる。宮田はすぐにでも動くかもしれないのだ。それまでに証拠を掻き集めながら、篠崎を警護しなければならない。
三瀬が姿を消すと、似合わぬしかつめらしい顔をしていた佐久間が大きく息を吐き出した。
「本部長直々の激励ですか……そら身も引き締まりまっさ。高慢ちきな狸に言われるんとは全然ちゃいますなぁ」
そう吐き捨てた刹那に、狸こと永野がもう室内にいないことを慌てて確認している。
「よし、佐久間君、そろそろ行くで。篠崎の自宅に行って警備状況を見とこ」
「そうですな、行きましょ」
佐久間は自分の鞄の中にスポーツ新聞が収まっていることを、丹念に調べあげてから、重松と肩を並べて歩き出した。
堺市の金岡に到着してから入った第一報は、江口からだった。
以前に探り当てた二瓶の同居人だった女の協力で、二瓶が以前病院で貰ってきたという塗り薬の残りを見つけることが出来た。
塗り薬の入った袋には一緒に処方箋が入っており、処方した医師の名として『宮田修治』と確かに印字されていた。
続いては高峰だった。妻の敏江が、夫の部屋をひっくり返して探し出したのが、やはり宮田が処方した湿布薬だった。
「よしよし、これで菱谷を含めて三人ははっきりした。順調や」
重松が携帯電話を二つに折り、懐にしまう。佐久間はスポーツ新聞を拡げてしきりに目を擦っている。
「やっぱり薬ですね。僕もいつも病院でもろた薬は、余ってその辺に放っぽってますわ」
「これでどこまで行けるかやなぁ。全員は厳しいやろ」
「そん時は宮田が篠崎を殺しに動いたとこを、現行犯でしょっ引くしかないですかねぇ」
篠崎の自宅は道路に面した二階建ての一軒家だった。玄関脇に制服警官が一人、周囲に傾注している。
そこから二十メートル弱の距離に重松らのセダンが停まっている。今日は午前中二人でこの位置から警戒し、午後になれば他の捜査員と交替することにした。
宮田整形外科医院は今日も開院しているのだから、この時間に宮田が動く可能性は小さいが、警察の裏をかくために、診療を中止してここにやってくるというケースも考えられないではなかった。
緊張感を切らしたわけではないが、やはり時間が無限に長く感じられた。朝の十時を回った頃に篠崎の妻がパートに出たことくらいしか特筆すべき事態は起こらなかった。
車内の灰皿はすぐに一杯になり、佐久間は受験生が英単語を暗記するように、何度も何度も新聞の同じページを読み返していた……
抗う術もなく午後になって、二人は村上の周囲を洗う作業を始めた。
しかし、数件回ったところで、枚方の武原の周辺を捜査していた捜査員から報告が入った。
彼らは朝から武原の勤め先である板金塗装工場に足を運んだという。もちろん今日この時までに何度も捜査員が足を踏み入れていた。
だが堺市の整形外科というキーワードがあるだけで、情勢は全く違ったのだ。工員の一人が、武原がぎっくり腰になって三日程仕事を休んでいたことを思い出した。
その工員が武原になぜぎっくり腰になったか尋ねても、はぐらかされてしまったらしいので、今まですっかり忘れていたという。どうも武原はプライベートなことを他人に話すのが好きではなかったらしい。
「もっと饒舌な男やったら捜査も楽やったのに」
重松はそう漏らした。
問題は武原が枚方に住んでいたということだった。あえて堺市の病院に行く理由があるのかという壁に当たったが、その答えは意外な所に転がっていた。
宮田整形外科医院の近くに、武原の同級生の友人が経営する飲食店が存在することが分かったのだ。借金に追われていた身としては頻繁に訪れる余裕はなかったようだが、事件の一ヶ月ほど前に現れていた。
武原の身元はすぐに判明していたのだから、事件当時にすぐに見つかっても良さそうなものだが、武原がその友人と仲良くなったのは実は卒業してから後のことだった。その上、その友人はあくまでも経営者であって店に出ることは滅多になかったために、従業員が武原を一人の客としてしか知らなかった。もちろん名前も知らない。
さらに悪運は重なるもので、その友人は新聞を取っていないために武原の名をメディアで聞くことが無かったのだ。
加えて自殺派も捜査員の中にはいたのであるから、そのような経緯と重なって、今になって掘り出されたというわけだ。
そしてその飲食店の従業員が、このように証言した。
「そう言うたら……随分腰が痛そうな仕草してはったなぁ。腰いわしたんやろうと思とったけど」
どうもその店を訪れる途中で、何かしらの理由からぎっくり腰になってしまい、そこでタクシーでも拾って近くの整形外科に行った……といったところだろう。
電話を切る時、重松は捜査員を労っておいた。
「これで武原も堺市で整形外科に掛かってたことが分かったな」
「それが宮田整形外科医院とまでは分からんだんですか?」
「まぁそれはしゃあない。でも枚方に住んでた武原の堺市との繋がりが見つかったのは前進や」
佐久間は納得したのかどうか分からぬ程に表情を変えなかった。
ここまで順調に捜査が進んだが、ここで暗礁に乗り上げた。陽が傾く頃には、夕凪に取り残されたように何も見つからなくなってしまったのだ。
下弦の月が滲む時間に、重松は佐久間と共に篠崎宅の警護に回った。玄関脇の警官は朝とは別の男になっている。
パートに出た妻が帰宅した。そして篠崎が煙草を買うために近所のコンビニに出かけ、捜査員の一人が後ろをつけていったが、何事もなく無事に帰宅した。それだけが伝達事項として伝えられた。
今夜は車内で夜を明かすことになる。こういう夜に限って、自宅の煎餅布団が恋しくなるものだ。




