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灰の中  作者: 茜坂 健
二〇一〇年八月二十二日 日曜日 午後
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26/31

 まるで急かしているかの如く、生温い風が吹き付ける。夏日の残り香が攫われていく。

「しゃあないですな……。これから話すことは、実は単なる憶測です。証拠がない。せやけど話さんわけにはいかんので話します」

 喉に物が引っ掛かったような口振りの重松を、篠崎は斜に見ている。細目で眼球は見えないが、じろりと陰湿な目付きが想像出来る。

「実は、我々が捜査している事件は連続殺人事件なんですがね……」

 篠崎は懐から煙草を取り出して咥えると、ライターで火を点けた。風から火を守るための左手の華奢な囲いは、やけに繊細に見えた。

「その被害者には共通点があるんですわ。皆腰とか太腿に入れ墨が入ってます。さっきトイレで鉢合わせになった時に、あなたの太腿に入れ墨があるのが見えたもんでね……」

「入れ墨のある奴なんか山ほどいますよ」

「ええ。もう一つ共通点があります。――問題はここがまだ憶測に留まっとるんですがね、 恐らく皆この宮田整形外科医院の患者なんですわ」

 篠崎は名残惜しそうに煙草を口から離し、紫煙を吹き出す。

「それはほんまなんですか?」

「まだ確証はありません。でも可能性は高いです。あなたも診察の時に入れ墨が露出したんとちゃいますか?」

 西の空は鈍い橙色に変わっている。いつの間にか駐車場の面した歩道に設置された街灯が灯っていた。

「まぁ、股関節やからな。宮田先生とかには入れ墨は丸見えや」

「そこなんです。ここの患者の内、そうやって腰とか太腿に入れ墨があるのが分かった人間が、次々と殺されてるようなんですわ」

「宮田先生が殺してるっちゅうこと?」

 重松は表情を変えず、自らもラークを取り出した。

「ここまで言うたら、隠しようもありまへん。そういうことですわ。せやから、あなたもターゲットに選ばれとる危険が高いんです」

「その話、信じてええんですか? 憶測やとか言うてたけど……」

 見た目によらず、随分な慎重居士だと感じた。よほど警察が信用出来ないらしい。

「確かにまだ証拠がありません。でも状況的にはほぼ確実です。あなたを護らんと、我々は新たな殺人を生んでしまうかもしれへんのです」

 民衆を前に大演説を放っている気分だった。舌を回す度に、自分の中でたがが外れていく感覚を味わっていた。

「どうです? 別にあなたのことをどうしようと思てるわけやありません。ただ、あなたに身辺警護を付けたいんです」

 結局重松の言いたいことはここに集約されていた。

 この篠崎という男の警察への過剰な警戒心からしても、何かやましい背景があるのかもしれないが、今はそんな物は眼中にない。重松の望みはこれ以上被害者を出さないことに尽きている。

「身辺警護て、ボディーガードやろ? 一日中見張られるんですか?」

「ははは、そんなん気にせんでも構いません。自宅の中にいる時は自宅の外に数人の刑事を付けて、出かけはる時にはちょっと離れたところから付いていくだけです。宮田があなたに危害を及ぼす前に、彼が犯人やっちゅう証拠を挙げて、早々に逮捕するつもりですから。ただすぐには証拠が掴むのが難しいですから、それまでの間、あなたを護りたいんです」

 流暢に長台詞を垂れ流して、代わりに煙草を咥える。肺を満たしては喋ることをひたすら繰り返していた。



 待合席には美由希以外に人気が無くなっていた。

「篠崎に事情を話して、殺人のターゲットになっとるかもしれんと知らせたで。身辺警護を付けることも了承してくれた」

「事情て……被害者の共通点とか、宮田が犯人かもしれんとか、そういうことも話したんですか?」

 受付の女性に聞かれないよう、努めて小声で尋ねる。声よりも息遣いの方がよく聞き取れるくらいだ。

「そらそういうことを話さんなどうにもならんやろ。いきなりあんたに身辺警護を付けさせてくれて言うたって、誰でも理由を聞きたがるやろ」

「まぁ、しゃあないですね……」

「所轄に連絡して、二人程警官を篠崎の自宅に派遣したから、もしこの後宮田が篠崎を殺しに出かけても大丈夫や」

 これはあながち冗談ではない。村上殺しで、遺体を燃やすという一種の儀式を、犯人は成し遂げていないのだ。次のターゲットが現れれば、すぐに食いつくことは容易に先読み可能だ。

「せやけど、これからそんな殺人鬼と対峙すると思うと、緊張しますね」

「ええ? そらまた勝野君にしては珍しいこと言うなぁ。今まで殺人犯なんか何人も接してきたやろ?」

「そうですけど……。まだ宮田が犯人やって確定してるわけやないから、なんていうか……」

 重松は顔の前で手を振った。

「なにもこれから尋問をしに行くんやないからな。菱谷の話を訊きに来たっちゅう設定を忘れたらあかんで」

 温和な重松の顔が、僅かに赤らんだ。ここで下手を踏むことだけは避けたいとの意思がついつい零れ出たのだ。

 そんなことを声を潜めて話していると、最後の患者が診察を終えて姿を現し、会計を済ますと、重松らを見世物でも観るような目で舐めまわしてから、そそくさと出て行った。

「ほんなら、お話を伺うてもよろしいですか?」

 重松が受付の女性に軽い調子で問いかけると、女性は受付の奥に二、三言声をかけてから、無言で頷いた。

 診察室の方へと脇目も振らずに歩を進める重松。美由希は小さく会釈だけして、小走りでその大きいとは言えない背中を追っていった。

 短く高いノックの音が二度響き、重松は失礼します、と無感情に声を上げて引き戸になっている診察室の入り口のドアを開けた。なんの抵抗もなく、簡易ベットや事務机や、正式な名前も知らない医療機器が林立した診察室の様子が、二人の刑事の目に触れる。

「どうも、わざわざすんませんな」

「失礼します」

 部屋の主は丸椅子にちょこんと、それこそ貧弱そうな風体を成して腰を下ろしている。どちらかと言えば、白衣に着られているようだ。

 宮田修治は予想以上に殺人鬼とは思えぬ、小柄で痩せこけた男だった。だがその雰囲気はどこか酷薄そうで、暗がりから抜け出たばかりといった印象だ。

 江口からの報告によれば、彼は三十八年前の事件の時に六歳だった。とすれば現在は四十四歳の筈だが、小皺の目立つ目尻のせいもあってか、五十代に踏み込んでいるように見える。

「宮田整形外科医院の宮田修治と言います。なんでも、当院に殺人事件で殺された方が来院していたとか?」

 宮田の声色は細身の身体とは対照的に、力強さを感じさせる芯の通った低さを保っている。重松は少々面食らった。

「ええ。お忙しい診察時間の後ですから、手短にお尋ねしたいんですがね……。菱谷玲二という名前に覚えはありませんか?」

 宮田は小さく唸った。

「いつ頃の患者さんですか?」

「彼は二年前の五月頃にここに来とる筈なんですがね?」

「二年前ですか……。そんだけ前やとさすがに記憶にありませんね」

「彼が来院したっちゅう記録みたいな物は無いんですか? カルテとか、保険証の記録とか? 確か一定期間の保管義務があったと思いますが?」

 顔を突き合わせていても、手応えを感じられない。宮田は重松の質問など見透かしているとでと言いたげに、涼しい顔をしている。

「確かにカルテなんかは五年は保管せんとあきませんから。だから調べたらその菱谷っていう患者さんのカルテもあるでしょうけど……」

「ああ、別に見せてくれっちゅうてるわけやないですよ。それは個人情報ですから、令状もなしに無理矢理見せろとは言えません」

「そうですね。私も患者さんのカルテを勝手に見せるつもりはありませんから」

 厭味な言葉回しは、挑発しているように感じられる。

「菱谷玲二の名前には覚えは無いんですな?」

「ええ」

「ほんなら、一日何人も診察しとって、腰とか太腿に入れ墨のある患者っちゅうのは見たことはありませんか?」

「入れ墨ですか? たまに入れてる方はおられますね」

「菱谷にも入れ墨があったんですが、覚えてませんか?」

 宮田は一瞬宙空を見回した。それは思い出そうとしている素振りに過ぎないと、重松は鼻を鳴らしたかった。

「さっきも言うたように、入れ墨を入れてる人はちょくちょくいはりますからね。二年前となったら覚えてませんよ」

「そしたら、最近やったらどうです? ごく最近、太腿に入れ墨のある若い男を覚えてませんか?」

 暗に村上勇太のことを示していた。もちろん村上がこの病院を訪れた事実など、まだ判明していないが。

「いたような気もしますけどねぇ。何分、ありがたいことに繁盛してましてね。何とも曖昧な記憶しかありません」

 病院が繁盛することはめでたいことなのか否か、得てしてどちらにも旗を挙げ辛い。

「そうですか。ほんならしゃあないですな。もし覚えておられたら、何か捜査に進展があるかと思うたんですけどね……」

 重松はいかにもおざなりな顰めっ面を作った。

「それは残念です。捜査に協力出来たら良かったんですが……。ところで、私がその……菱谷さんのことを覚えてたら、一体何を訊こうとしてはったんですか? それに、さっきのごく最近の男は何か関係があるんですか?」

 脆く弱々しい小動物に、唐突に歯を立てた気分だった。

 畳み掛けるように幾つかの質問を重ねて投げかけてくる宮田は、案外強敵だと悟った。

「まぁまぁ焦らんといてください。まず何を訊こうとしてたかっちゅう質問ですけど、これは菱谷の様子とかで変わったことがなかったかとか、同じような入れ墨を入れてる人間に心当たりは無いかと、訊きたかったんですわ。他の被害者にも入れ墨がある人間がいて、もしかしたら犯人は入れ墨のある人間を標的にしとるかもしれへんのでね」

 宮田は決して口を開かずに、何度も首を縦に振っている。

「それから、ごく最近の男は堺市に住んどった人間なんでね。もしかしたら、ここに来とるかもしれんと思うただけです」

 苦々しい言い訳だったが、だからこそ踏ん反り返るくらいの態度で答えた。

 相手に付け込まれるような隙を作ってはならない。

「そうですか。答えられなくて申し訳ないですね」

「いえいえ、人間の記憶力には限界がありますからな。それと、もう一つだけ訊いてよろしいですか?」

「はい。何でしょう?」

「さっき、受付をやっとる女性にいつからここで働いてるか尋ねてみたんですわ……もしかしたら受付の人でも覚えとるかもしれませんから。そしたら、この病院では、一番古い人でも一年半くらいしか雇われとらんらしいですな? そないに頻繁に人を替えとったんですか?」

 宮田は唇を少し震わせてから、先程までのように冷静に、かげった瞳で重松を見返した。

「そら替えんで済むんやったらええんですけどね。人によって能力不足、希望による退職云々がありますから。やはり医療に携わる以上、高い能力が必要になりますから」

「そらまた厳しい世界ですな」

「警察の世界も厳しいでしょう?」

 と、粘っこい口調を補色するようなニタっとした笑みに、重松は底のない闇を覗き込んだ気分になった。

 重松はそろそろ帰らせてもらいますと告げてから簡単に礼を言うと、美由希を促して踵を返した。

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