5
「これで全員分かったな」
壮大なジグソーパズルを完成させたように、重松は腕を組んでホワイトボードを眺めている。
江口からの連絡で一人目の被害者が、平井史弘という男の可能性が高いと判明した。和歌山県警の科捜研からの報告待ちの黒木も含めれば、八件全ての被害者と見られる人物が明らかになったのである。
二〇〇六・九 平井史弘(堺市居住) 和歌山県橋本市三石山
二〇〇七・九 高峰秀之(堺市居住) 豊中市
二〇〇七・十一 矢沢保(甲府市居住) 甲府市
二〇〇八・五 菱谷玲二(大阪市在住) 兵庫県養父市氷ノ山
二〇〇八・七 黒木清次郎(堺市居住) 和歌山県橋本市
二〇〇九・十 武原知彦(枚方市居住) 和歌山県九度山町
二〇一〇・三 二瓶典和(堺市居住) 大阪市北区
二〇一〇・八 村上勇太(堺市居住) 泉南市
「捜査本部設置から三日目で全員並べたのは、なかなか頑張ったもんやで」
この中には、あくまでも可能性でしかない者も含まれる。遺体がDNAなどの検出が不可能な程に焼損されているため、それもやむを得なかった。
「それよりびっくりしたんは、宮田の動機まで突き止めたことですよ」
「江口君はよほど運がええんやろなぁ。平井の捜索願を管理してた東住吉署の生活安全課に、宮田の幼少期を知る警官がおったんやから」
「なかなかヘビーな話でしたね。実の母親をレイプした末に殺した相手に入れ墨があったからって……」
女性の美由希からすれば、複雑な心境もあるのだろう。
重松はこの時間になっても艶やかな頬をしている美由希の顔から視線を外し、大きく湿った空気を吸い込んだ。
「せやけど……何の罪もない人間を八人も手に掛けたんや。これは揺るぎない事実やからな」
「ええ。必ず宮田の犯行を止めて、監獄で罪を償わせなあきません」
腕時計を一瞥して、重松はのっそりと立ち上がった。
「そろそろ行こか。まぁ宮田が何か証拠になるようなことを零してくれたらええんやけどな」
「そうですよねぇ。証拠は何もありませんもんね」
美由希はわがままな子供のような顔をして、まるで不貞腐れているようだった。
重松自身もずっとそのことで気を揉んでいたのだ。宮田が一連の事件の犯人だと証明する、明確な証拠はない。
被害者が全員宮田整形外科医院を訪れていたことと、宮田には腰や腿に入れ墨のある人間に対して恨みがあるであろうこと……。これらはただの状況証拠に過ぎないのだ。
「とりあえず、宮田修治っちゅう男がどんな男なんか、それだけでも見てこよや」
夏の空が闇に染められるのはまだまだ先のようだが、見る者の不安を煽る巨大な夕日が、西の空のキャンバスを茜色に塗りつぶしている。烏の鳴き声はもう聞こえない。
二人は玄関の自動ドアをくぐり、受付の女性に目配せした。再訪問を知らせていた甲斐あってか、女性は不審な顔を見せずに、にこやかな笑みを返してくれた。
「まだちょっとかかりそうやな……」
美由希の耳元で囁く。まだ待合席には数人の患者が腰を据えている。
「待たせてもらいましょう」
美由希が近くの席に腰を下ろすと、重松も隣に着席した。美由希の髪の匂いが柔らかく鼻を刺激する。
「ちょっと受付の人と話してくるわ」
座ったばかりだというのにそう言い残すと、受付のカウンターに大股気味に歩み寄る。
「すんません」
「後三十分程で終わると思いますので……」
相変わらずそわそわとしている女性は、恐縮した調子で答える。
「それまでにちょっと訊きたいことがあるんやけど」
「な、何でしょう?」
「ここで働いてる看護師とか、受付のあなたとか、宮田医師以外のスタッフですな。そういう人らの中で一番古い人は、いつ頃からこの病院で雇われとるんですか?」
女性は頭の中で質問の意を噛み砕いているようだった。明後日の方向を見つめて、思考を巡らせた末に徐に口を開く。
「ああ……多分一番昔から居はる人でも、一年半前くらいですかねぇ」
「因みにあなたは?」
「私ですか? 私はまだ半年ちょっと経ったくらいです」
「ほんなら、村上勇太っちゅう名前に覚えはありませんか?」
重松はその場で手帳に『村上勇太』と漢字で書いて、女性に示した。
「なんとなく覚えてるような……。でも、割と平凡な名前ですし……」
苦しげな瞳が、記憶の淵を駆け巡っている。重松は手帳にもう一つの名前を書いて見せた。
「これはどうです? 二瓶典和っちゅうのは?」
「二瓶……うーん、なんとも言えないです。そうやって見せられると何か見たことあるような気もしますし……」
「そうですか。ありがとうございます」
重松は軽く手を挙げて美由希の隣に戻る。美由希は探るような視線を投げかけている。
ちょうど診察室からグレーの短パンを履いた、小太りの患者が診療を終えて出てきたところだった。
「何を訊いたんですか?」
口元に手を添えて、小声で問いかける。
「ここの看護師とか受付は、一番長い人でも一年半前くらいからしかおらんらしいわ。やっぱり宮田は頻繁に人員の入れ替えをしとったんやろなぁ」
「身元が判明して、ニュースとかで報道されたりしても、ここの患者やと気付かれにくいようにですね?」
「あの受付の人は半年くらいの勤務歴らしいけど、村上の名前も二瓶典和の名前も、はっきりとは分からんかった。うろ覚えっちゅうとこやろな」
二瓶はまだしも、村上がここの患者ならそれほど古くはない筈だ。それでもピンと来ていなかった。
彼女は記憶の淵を歩いた挙句、霞みがかった遠景しか見えなかったのだ。記憶力には個人差があるが、それを考慮しても患者が被害者だと気付かれる可能性は低く留められていただろう。
「上手くやられましたね。なかなか手強い相手です」
「かなりずる賢い奴や、宮田修治は。……さてと、ちょっとトイレ行ってくるわ。まだ時間かかるやろうし」
重松は待合席の奥のトイレに向かう。ノブを捻って扉を開くと、二重扉になっており、手前には洗面が設置されている。
奥の扉の右上には、個室内の照明が点いているかどうかが外からでも確認出来るように、円形に縁取られたすりガラスがはめられている。だが重松は、鍵が掛かっていないことだけを見て、扉を開けた。
「――おっと、すんません」
開けた扉の隙間から、個室内には丸い躯体が収まっているのが見えたのだ。男は鍵を掛け忘れたまま用を足していたらしい。
重松は慌ててトイレから出た。
入った時の反動で突き返されたように出てきた重松を、美由希は不思議そうに見ていた。重松はきまりの悪そうに後頭部を掻く。
「……」
だが照れ隠しをすることよりも、重大なことに気が付いた。個室内に居た男は、先程診察を終えて待合席に姿を現したグレーの短パンの男だった。そして、用を足すために露わになっていた彼の腿には、間違いなく標的の紋章が刻まれていた。
「入れ墨や!」
おっとり刀で美由希の元へ駆け寄った。
「勝野君、さっき診察室から出て来た男いるやろ? 今その男とトイレで鉢合わせしたんやけど、そいつの太腿に入れ墨があったんや」
美由希の表情が強張る。この医院に入れ墨のある男が訪れているという事実は何を示すのか……。二人は誰よりもその答えを了知していた。
「下手したら宮田に目を付けられてるかもしれませんね」
「一応こっちから手回しといた方がええやろな」
計ったようなタイミングで、男がトイレから出て来た。重松は苦笑を浮かべながら早足で近付いていく。
「あぁ、さっきはすんませんな。中に人が居るのに気付きませんで」
にこやかに振る舞うことを心掛けながら、しかし細心の注意を払っていた。
周囲の人間に、警察が宮田のことを連続殺人犯だと疑っていると勘付かれてはならない。人を通じて宮田本人の耳に入ることは避けなければならないのだ。
「いや、大丈夫ですよ」
男は無愛想に答えた。重松の顔を見もしない。
年齢は五十代前半くらいで、坊主頭に、脂が不潔な印象を与える丸鼻、糸を引いたような細い目の男だ。
「あの、ちょっとよろしいですか?」
腰を下ろした男に視線を合わせるように屈み込むと、さすがに何事かと男は重松の顔の方を向いた。細い目のお陰で、見られているのかどうか不安になる程だったが、警察手帳でなく、あまり使うことのない名刺を手渡した。
沈黙のうちに、男は目の前にいる迷惑な男の正体を把握する。
「ん? 刑事?」
「ええ、実はそうなんです。ちょっと訊きたいことがあるんですけどね……」
男は自然と小声になっている。微かな動揺が読み取れる。
だが、受付から名前を呼ばれたために男は一旦受付へと駆けて行った。
どうやら男の名前は篠崎昌信というようだ。
「――何ですか? 私が何か悪いことでもしましたか?」
会計を済ませて戻って来た篠崎は動揺の裏返しの虚勢なのか、ぶっきらぼうな物言いで尋ねる。
「外行きましょか。もう会計も終わったから帰らはるんでしょう?」
「ああ。そうですな」
素直に応じるところを見ると、ただ無愛想なだけな寡黙な男のようだ。
美由希を中に残して、二人で外に出ることにした。
暫くラークを燻らせて、貧乏揺すりのリズムを眺めていた。
篠崎は股関節の病気でもう何度も通院しているらしい。そして、薬の服用でようやく症状が良くなってきたという。
「もう痛みはあらへんのですか?」
先に痺れを切らしたのは重松の方だった。
宮田がとある事件の関係者であり、極秘に捜査をしていると、茶を濁して伝えた。さすがにまだ具体的なことを口走るわけにはいかなかった。
重松が要求したことは、宮田のことを訊きたいので連絡先を教えてくれと、それだけだった。
しかしすぐに首を縦に振ることはなかった。宮田のことを訊きたいだけならわざわざ自分の連絡先を知らなくても、この場で直接訊けば良いではないかとの言い分だった。そのような反応になっても無理はない。上手く言いくるめて、自分のことを調べているのではないかと勘繰られているのだろう。
「――ああ。股関節やったら薬飲んどったらだいぶ楽や。歳のせいで股関節が歪んどるらしいんですがね……」
「そら良かったですな。あんまり具合が良うならんだら、手術せなあかん場合もあるんでしょう?」
ラークの箱を手に取ると、随分と軽くなっているのに気付く。砂漠のオアシスで水を汲むように、慎重に数少ない残った煙草のうち一本を、するりと取り上げて咥えた。
「ほんで、もうええですか? ここの宮田先生のこと訊きたいんやったら、今でええでしょう?」
「これから我々が直接彼と話をするんですが……あなたに話を訊くのはその後にしたいんですよ。だから、また後日か、今日の夜にしたいんですが……」
篠崎は脚を重そうに貧乏揺すりを止めた。
「そもそも何で私なんですか? 患者なんか他にもいっぱいおるでしょう!」
「そうですなぁ……」
重松はまだ確実でない、憶測の範囲を出ていない推理をこの男に話そうと決意を固めた。




