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灰の中  作者: 茜坂 健
二〇一〇年八月二十二日 日曜日 午後
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24/31

 江口は前嶋刑事と共に、今回の一連の事件の最初の被害者の可能性が高い人物を突き止めることに成功した。堺市に居住していた平井史弘ひらいふみひろという六十一歳の男だ。

 当初の予想通り、堺市に居住している人物であったが、なかなか突き止められなかったのは彼は軽い認知症を患っていたらしく、認知症老人が徘徊の末の事故で行方不明になったとして既に処理されていたからだった。しかも彼は若い頃に離婚しており、大阪市内に住んでいた別れた元妻と子供は、平井とは滅多に連絡もしない関係となっていたため、これといって大掛かりな捜査はされなかったのだ。

 平井が第一の被害者だと目を付けるきっかけとなったのは、彼の太腿に入れ墨があったということだ。

 第一の被害者を突き止めるため、既に捜索願が取り下げられた事案についても堺市内の警察署で資料を提供してもらった。その結果、第一の事件の頃から所在が掴めなくなっている人物の中で、特徴として太腿に入れ墨があったと記録されていた唯一の人物が平井だったのだ。

 それに加えて大きかったのが、今回の被害者がいずれも堺市の同一の病院の患者だったのではないかと重松が推理したことだった。

 平井の元妻の現在の住居を突き止めて話を聞きに行き、とある事実を耳にした時、江口は一瞬で背中が粟立った。

 ろくに平井と連絡を取っていなかった元妻が、失踪以前の平井の近況として唯一聞いて知っていた事実が、彼が整形外科に通っていたことだったのだ。膝の関節に怪我をしていたらしい。病院の名前までは分からなかったが、十分な証言だった。

 そして、重松の方もその病院が宮田整形外科医院ではないかと、当たりを付けたようだ。

 現時刻は午後三時半を回った頃だ。江口と前嶋を乗せた車は大阪市東住吉区の東住吉署の駐車場で身体を休めていた。

「よっしゃ、行きましょか」

 江口が車を降りて颯爽と建物の方に歩みを進める。向かい風で額に被さる前髪がはためいている。

 二人が東住吉署にやって来たのは、ある人物と会う約束をしたからだ。

 そもそも二人が東住吉署を訪れるのは今が初めてではない。実は平井の捜索願はそもそも、この東住吉署に出されていたのだ。元妻の住居はこの東住吉区にあるために、自分の居住地の警察署に提出したのだ。その結果、平井の居住地である堺市の警察署にも情報が共有されたという経緯だった。

 そして、元妻と会って聞き込みをするために、まず東住吉署へと向かったのだ。それが今日の昼過ぎだった。

「根本さんでしたっけ?」

 前嶋が歳下の江口に対して、慇懃な調子で訊く。

「そうですね。今は生活安全課の所属です」

 玄関扉をくぐり抜けると、正面にカウンターになった受付がある。日曜日ということで当直の職員しかおらず、広々としたロビーは寂寥感と呼ぶべき独特の雰囲気を落としている。もちろんカウンター内に人の姿は無い。江口は高校生の頃の、土日の部活動の際に足を踏み入れた人気の無い校舎内を思い出した。

 カウンターの前に立て札で来訪者宛の案内が示されている。

「えっと……生活安全課は二階ですね」

 一般人ならこの立て札だけを頼りに目当ての窓口まで辿り着かなければならず、それだけでも気を揉むだろう。

 左手に見える薄暗い階段を、連れ立って一定のリズムで登る。二組の革靴の音が、時折ぴたりと重なった。

 ――昼過ぎに東住吉署を訪れた際、江口と前嶋は『大阪府内連続殺人遺棄・遺体焼損事件捜査本部』から捜査でやって来たことを告げた。訪れたのは行方不明者の捜索願を管理している生活安全課だった。

 そこで出会ったのが生活安全課所属の根本という警察官だった。昔は捜査一課で数多の刑事事件を追った刑事だったものの、五十九歳となった今は定年間近で一線級を退き、生活安全課で腰を据えている長老だ。

 定年間近になっても土日の警察署で身を切り働くその男の佇まいは、朽ちた巨木を思わせた。

 江口が根本に事情を話した時、老木の節のような濁ったまなこが印象的だった。

 彼は、今回の事件の被害者が皆腰や太腿に入れ墨があり、犯人はそれを隠すように遺体を燃やしていたことを聞いて、僅かに動揺した後、遥か遠くの羊雲を眺めるような淋しげな様子を浮かべていたのだ。しかも、仕入れたての、医者が犯人かもしれないという推理も零すと、根本は医者……と、何度か呟いた。

 何か引っ掛かることでもあったのかと首を傾げていると、根本は犯人を特定する目星はついているのかと尋ねてきた。その時点では、まだ宮田の名前は江口らの元には届いていなかったので、当たり前にまだだと答えた。

 すると根本は、自分はヒントになる事実を知っているかもしれないと口にしたのだ。江口は刮目した。同じ警察官だからといって、この捜査に関わっていない生活安全課の老ぼれ警察官が何を知っているというのか、絵の具を混ぜ合わせるように想像出来なかった。

 そのような経緯で、とりあえず先に平井の元妻宅へ行き、それが終わったら話を聞かせてもらうと約束をしたのだ。

「あぁお二人さん、どうも」

 江口と前嶋の姿を捉えた根本は、右手を挙げて薄っすらと黄ばんだ歯を見せた。

「先に報告させてもらうと、やはり平井は病院に通ってたみたいです。具体的な病院名までは分かりませんでしたけど、整形外科に通院してたことははっきりと教えてくれました」

 根本の表情は一切動かず、相変わらず遠くをぼんやりと眺めている。

「それと、我々の上司の重松警部がその病院ちゃうかと疑わしい病院を見つけました。名前は……」

「宮田か?」

 言葉を遮って、根本が口走った『宮田』の名前に、江口はひどく驚愕した。前嶋も目を白黒させている。

「な、なぜ宮田やと分かったんですか?」

「言うたやろ? 私はヒントになる事実を知っとるかもしれんと……。それはまさにヒントやのうて、答えやったっちゅうことや」

「何を知ってはったんですか?」

 まるで被疑者を尋問するような口振りで、前嶋が根本に喰いかかる。根本は背中を丸めて一人緩やかな時の波を漂っている。

「……あんたらがさっき来た時に、被害者は皆腰とか太腿に入れ墨があったと言うたやろ? それに加えて医者が犯人やろうと。私は三十八年前のある事件を思い出したんや」

「三十八年前?」

「私は高卒で警察官になった。ほんで若い頃から刑事部で刑事として働いとった。ちょうどあんさんみたいに」

 根本は江口の顔を指差す。江口の眼前に迫った爪は色が悪く、不健康そうだった。

「私が二十一歳の時に今と同じ東住吉署の捜査一課におったんや。その時に強姦致死事件が起こった。今時分みたいな暑い夏の夜やったなぁ……」

 抑揚や語り口が紙芝居の語り手のようで、心地良く江口の骨の髄まで篤と染み入ってくる。

「110番通報を受けたんや。通報してきたんは小さい子供の声やった。子供は取り乱しとって、正確な詳細は電話ではよう分からんだけど、どうもその子の母親が事件に巻き込まれたようなことを言うとった。現場に駆け付けたら母親らしき女性が、それは無残な姿で路上に突っ伏しとった」

「その子の母親が強姦に遭うたっちゅうことですか?」

「せや。子供の証言はこんな感じやった……。二人でスーパーから帰っとったら、車が歩く二人の脇を並走して、助手席のドアが開いたと思たら、中から男が母親を捕まえて車内に引き摺り込んだ。その子供も車内に入れられて、もう一人の男に身体を抑えつけられとったらしい」

 根本は時折瞼を閉じながら、自分に言い聞かせるように語り続けている。

「そらもう見るに堪えんだなぁ……。局部を剥き出しにされて服はボロボロやったし、顔は散々殴られたんか真っ青になっとった。腕にも掴まれた時の痣が残っとったわ。その子供は犯人の二人組の男についてこう証言した」

 江口は生唾を飲み込み、唇を舐めた。

「一人は腿に入れ墨があって、もう一人は腰に入れ墨があった」

「そういうことですか……。その子供っちゅうんが」

「宮田修治っちゅう名前やった。当時まだ六歳や。よう覚えとるわ」

 バラバラに散らばったピースが一つの真っ黒な絵画へと組み上げられる。そしてその絵画は宮田少年の心を蝕んだ、憎悪という姿の見えない記憶へと成り果てたのだろう。

「その宮田修治っちゅう子供が、大人になった今、当時の復讐として、同じような場所に入れ墨を入れた男を次々と殺してるっちゅうことですな。確かに被害者は全員男ですし」

 前嶋が根本を覗き込むようにして、問いかけた。根本は特に答えはしなかった。

「その当時私は捜査一課で最年少やった。捜査は行き詰まった。当時のあの辺りの治安は悪かったからなぁ……。そういう力づくの強姦とか強制わいせつみたいな事件はしょっちゅう起こっとった」

「ほんなら結局、その犯人は捕まらんだんですな?」

「ああ、そうや。身寄りのなかった宮田修治は三重の方へ引っ越していったけど、私は何遍も宮田修治を訪れた。絶対にあの事件をお宮入りにしとうなかったから……。せやけど、時の流れと共に証拠も証言もどんどん褪せていく。遂にお宮入りや」

 根本は大きく一つ息を吐いた。その姿は形容のしようのない哀愁を帯びている。

「あんたらも捜査一課の刑事やったら分かるやろけど、新しい事件は次々起こるし、刑事は人不足……今も昔もな。私もいつまでもその事件を追うてるわけにはいかんかった」

「でも、よく宮田修治のことを覚えてはりましたねぇ。三十八年前でしょう?」

「事件の捜査が終わっても、私はプライベートで宮田修治に何遍か会いに行ったことがある。あの少年は見るからに心に傷を負うとったからな。犯人が突き止めれんでも、何とか心の支えになったりたかったんや。警察は君を見捨ててへんでってなぁ」

「そこまで……」

「そんな中で、宮田修治が中学生になった頃が最後に会うた時や。彼は闇を閉じ込めたような暗い眼をしとったけど、医大に行って医者を目指すと、初めて夢みたいなもんを語ってくれたんや。それから私は会いに行くのを止めた。今度は逆に、未来を見とる少年をいつまでも過去の記憶で縛るべきやないと思たんや」

 根本の口から吐き出された物語は、当時の根本刑事と宮田修治少年の心情が絡み合った、鮮明なイメージとして描かれる。

「……その後彼がほんまに医者になったんかどうかまで、私には分からんだけど、あんたらが話した事件の経緯からしたら、宮田修治が患者の中でそういう入れ墨のある男を手に掛けてるんちゃうかと、思たわけや」

 江口は胸焼けのような、嫌な不快感に襲われた。今回の事件にかかっていた靄が晴れた代わりに、自分の身体に忍び込んできたようだった。

 根本は深く掘られた皺を指先でなぞっていた。

「貴重な話をありがとうございました。当時も東住吉署やったっちゅうことは、今もここの刑事部に捜査記録が残ってるかもしれませんよね?」

「三十八年前やからなぁ……。せやけど、お宮入りしたヤマやから、まだ残っとるかもしれん」

「ありがとうございます。今から確かめに行ってみます」

 根本は出迎えた時と同じように、ゆっくりと手を挙げて応じた。

「……あの、一つだけお尋ねしても構いませんか?」

「何かな?」

「なぜ根本さんは、そこまでその事件に入れ込んでたんですか? 正直、相当な思い入れがあったと思うんですけど?」

 周囲の空気が、錆び付いたように重く感じられる。根本の双眸に微かな揺れが見えた。

「まぁ……私も同じような境遇で育ったから……。とだけ言うとこか」

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