1
携帯電話という文明の利器は、この二〇一〇年の世の中に蔓延りきっている。互いが電波の届く場所にさえいれば、目当ての電話番号を打ち込むだけで、人の声と人の声を結び付けてくれる。
佐久間はそのような飛躍的な技術進歩を、当たり前のように享受している。上司の重松は、昔はこないに便利ちゃうかったから――と盛んに愚痴をこぼしているのだが。
携帯を耳に当ててから程なくして、受話器越しの菱谷の友人の声が佐久間の鼓膜に確かに届いた。
「あ、もしもし。今朝お伺いした大阪府警の佐久間です。はい、はい……。ええ、すんませんなぁ……」
佐久間は会話の相手が眼前に存在しないにも関わらず、身を縮めて畏まっている。
助手席の鈴木は妙にしかつめらしい顔で、佐久間の方を見るでもなく、真っ直ぐに前を見つめている。
「一つ確認したいことが出来ましてね……。はい。今日の話の中で、趣味のボウリングの話をされましたよね? でね、ボウリングしてたら肉離れを起こして病院に行ったって話がありましたよね?」
訊くべきことはずばりそれだけだ。佐久間は何の廻り道もせず、ストレートに話を持っていく。
「はい、そうなんです。その病院なんですが、何ちゅう名前の病院やったか分からはりますか?」
佐久間は受話器の向こうで上がった地鳴りのような唸り声を少しの間黙って聞いていた。記憶が曖昧ですぐには思い出せないでいるようだ。
しかし、ぶつぶつと殆ど息遣いばかりが聞こえた後、短い声が上がった。
「ああ、思い出されました? はい、はい、宮田? 宮田整形外科医院ですね?」
佐久間の口から発せられたその名前を、鈴木がすぐに手帳に書き留める。忘れないうちにと気が焦り、とんでもない殴り書きになった。
佐久間は、他に菱谷が堺市内の病院に行ったことが無いかを念入りに確認した後に、どうやら宮田整形外科医院以外には思い当たらないとの返事を受けた。何度か礼を言い、通話を終えた。
「よっしゃ。すぐに警部に報告しますわ」
佐久間は携帯電話の電話帳に登録されている重松の電話番号に電話をかけた。
重松は咀嚼していた弁当の具をペットボトルの麦茶で流し込み、しつこくベルを鳴らす携帯電話の通話ボタンを押した。
佐久間からの着信だということは、ディスプレイを見れば一目瞭然だ。
美由希は二人分の弁当を近場のコンビニで調達してきた後、すぐにトイレに立ってしまった。女性のトイレは長いものだ。重松が弁当を半分ほど平らげた今もなお、会議室に戻ってはいない。
「佐久間君か。何か分かったんか?」
至って平然とした口調で尋ねる。無人の会議室の白い壁に声の波が弾き返される。
「おお! もう菱谷の行った病院が分かったんか! さすがやなぁ、早い早い」
菱谷は例の堺市の友人と、頻繁に堺市内のボウリング場でボウリングに興じていたという。そしてある日、ボウリングの最中に太腿の付け根に肉離れを起こしたらしい。
そして駆け込んだ病院というのが宮田整形外科医院だという。
「宮田整形外科医院……」
重松は薄っぺらい、箱と呼んで良いのかどうかさえ疑わしい弁当箱を片手で持ち上げ、ノートパソコンの前に鎮座した。
「電源切らんで正解やったな。でもまさか、こんなすぐに突き止めてくれるとは」
独り言を漏らしながらインターネットで『宮田整形外科医院』を検索すると、検索結果一覧の画面が一瞬で表示される。
すると、計ったように美由希が部屋に戻ってきた。箸を置いてノートパソコンの前に腰を下ろす重松に珍奇な視線を向けた。
「あれ? また調べ物ですか?」
「勝野君、進展や。佐久間君がすぐに菱谷の行った病院を突き止めてくれたで」
「え? もうですか?」
美由希は素直な驚嘆の声を発した。ショートボブの黒髪が頬をぱらりと流れる。
「宮田整形外科医院っちゅうとこや。今ちょうど調べてたとこや」
「ホームページとかありますか?」
重松はマウスを乱雑に動かす。手の血管が浮いて、赤みが差している。まさに犯人の尻尾まであと僅かというところまで手を伸ばして、ついつい力が入ってしまっている。
「……病院そのもののホームページは無いみたいやけど、堺市内の病院を紹介するようなサイトに載っとるわ」
小さな写真付きのサイトだった。外観を遠目から捉えた写真には、一階建てで丸みを帯びたデザインの建物が収まっている。個人経営にしてはそこそこ大きめな病院らしい。
「おお、見てみ。今日は日曜やけど、ここは日曜もやっとるらしいで」
「それは幸運ですねぇ。日曜にやってる病院ってほんまにありませんもんね」
美由希は腰に手を当てて眉をひそめる。本心から出た愚痴という感じだった。
だがその愚痴は重松の右耳から左耳へと、淀みなくすり抜けていく。その証拠に重松は美由希に対して何の反応もせずに、画面に表示された住所と電話番号、そして休診日などの情報を手帳に書き込んでいる。
「ふうん……。これからどうするか……。まずは守屋さんに会いに行かなあかんからな」
「過去に例の橋本市で開かれた研修会に参加してた医師の中に、宮田整形外科医院の医師がおったらビンゴでしょ?」
「せやな。元々それが訊きたかったわけやし……。会う前からターゲットが決まるとは思わんだ。ほんまにようすぐに見つけてくれたわ」
「菱谷以外の被害者も宮田整形外科医院に行ったことがあるって分かったら、もうこっちのもんですね」
重松は思い出したように箸を取った。隅っこで何かに耐え忍ぶように丸く収まったポテトサラダを持ち上げて口に運ぶ。
「他の班からの報告待ちやな。こっちから宮田整形外科医院っちゅう名前を知らせてもええんやけど、現状まだ一人について分かったらだけや。最低でも守屋さんから、橋本市の研修会に宮田が参加してたことを聞くまでは、それは置いとこ」
美由希は重松の陣取るノートパソコンの前から離れた所で、まだ手を付けられていない弁当が無造作に置かれた自分の席に腰掛ける。
「一時には出発やから、急いで食べや。それと、身体に悪いからよう噛んでな」
「どっちですか!」
美由希の快活な怒声に重松は満足げに目を細めた。
日曜日に診療を行うということは、宮田にとって特別なことではなかった。
寧ろ殆どの医療機関が日曜日を休診日としていることが、宮田からすれば馬鹿らしかった。官公庁然り、人間の活動に伴って意図せずとも必要になる機関は土日に開いている方が便利であり、その方が人々のストレスも軽減されるというものだ。
現に日曜でも患者はわんさかやって来る。多少遠い所からでも医者を求めて訪ねて来るのだ。身体に変調をきたしている時、白衣は神の衣に見えるものだ。
宮田整形外科医院は水曜日と土曜日の午後を休診日としている。診療時間は午前が八時半から十二時、午後が二時から五時半である。
と言っても、これだけ患者が殺到する日曜日に、十二時ぴったりに診療を終えられる筈もない。今日は一時頃までずれ込んでしまった。
宮田の自宅はこの宮田整形外科医院の建物から徒歩ですぐの所にある。一旦帰宅して昼食を取っても良いのだが、いちいち帰宅するのが煩わしいのでいつもスーパーで調達したパンで腹を満たしている。妻のいない宮田にとっては愛妻弁当なるものを持つことも出来ない。
辛苦の黒い記憶に苦しめられながら、必死で医大に通い、医師免許を取得することが出来た。
医師を目指したのも、大それた大義名分があったからではない。
殆ど心を失っていた子供の頃に、ただ勉強をするくらいしかすべきことが無かった。その結果、成績が良かったために成り行きで医大を目指すことになっただけだ。
医師免許を得た頃には、母を失った自分を育て、決して安くはない医大の学費を工面してくれた祖父母も他界し、本当の意味で独りっきりになっていた。
勤務医として大病院で勤めた後、四年前の春に独立した。
勤務医の頃は、いや、大学生になった頃くらいから、黒い記憶は消えはしなかったものの、随分と薄らいでいた。それ程人生の中でも多忙な時期だったということだろう。
――しかし、独立後に待っていたのはあの記憶の甦生だった。
思えば勤務医時代にも、太腿や腰に入れ墨のある患者というのは目にしたことがある。だが自分でも不思議で狐につままれたような思いなのだが、あの当時は入れ墨を見ても特に苦しみ喘いだりすることは無かった。それは恐らく、母を殺したあの男達とこの患者が同一人物なわけがないと、自分で納得していたからだろう。
それに加えて、大病院の一勤務医の自分がその患者のことをどうすることも出来ないと分かっていたからだ。
無論、今まで手にかけた八人の人間も、あの時の男達だと思っているわけでない。もう三十八年前の出来事なのだから、現在六十歳前後か、下手すれば七十を超えていてもおかしくはない。少なくとも、菱谷や村上のように二十代の若者の筈はない。彼らはその頃、まだこの世の眩い陽だまりに包まれたことも無ければ、苦汁を舐めたこともない――生まれ落ちてすらいなかったのだから。
ところが、自分の医院を開設し、人生が一つの転換期を迎えたことで、自分の中に巣食う忌まわしい記憶が牙を剥くようになったのだ。
その牙はもはや自分の意思とはかけ離れたところで犠牲者達を食いちぎり、餌食にしているのだ。
自分のやっていることがただの逆恨みであることは自分自身が一番良く分かっている。だが――あの記憶を自分の中から消し去るためには、ああして肉体を燃やし、灰に帰して入れ墨を消し去るしかないのだ。
村上勇太の入れ墨はついに消し去ることが出来なかった。現時点では警察は入れ墨には着目していないらしい。
「……ふん、警察か」
宮田は警察に捕まることを恐れてはいない。そもそも警察の足音が迫ってもいないのだ。まだバラバラで無関係だと思われていた各事件が、一連の物だと判明した程度だ。
だから宮田は、次に牙にかかることになるであろう篠崎昌信のことばかり思慮していた。今日の午後にでも彼は来院するだろう。患っていた一次性変形性股関節症の症状も良くなっているらしい。
まだ村上を手にかけたばかりだが――いや、入れ墨を灰に帰すことが出来なかった時点で、目的は果たしていないからこそ、もう自分の中の牙は篠崎に照準を定めている。
午後の診察が始まるまでまだ時間がある。宮田はコーヒーを啜った。




