第7話 料理人の動きじゃない!? 最強ドラゴンも驚く太極拳!
黒い獣が、料理祭の広場を震わせながら突進してきた。
「グオオオオオッ!」
「うわあああっ! 逃げろ!」
料理人たちが悲鳴を上げ、観客たちが一斉に逃げ出す。
屋台が倒れ、料理が宙を舞った。
焼きたてのパンが飛ぶ。
串焼きが転がる。
そして、誰かの大切な昼食が、魔物の足元で無残に踏みつぶされた。
「俺の肉串がああああっ!」
イグニスが叫んだ。
「そこかよ!」
レオンは思わずツッコんだ。
「見ろ! あの魔物、俺の肉串を踏んだぞ!」
「人命より肉串を心配するな!」
「人命も心配している! だが肉串も大事だ!」
「優先順位がおかしい!」
そんなやり取りをしている間にも、黒い獣は二人に迫っていた。
全身を覆う黒い霧。
赤く光る目。
鋭い爪。
普通の魔物とは明らかに違う、不気味な気配を放っている。
イグニスの表情が険しくなった。
「レオン、下がっていろ。あれは俺が始末する」
「町のど真ん中で炎を使うなよ」
「分かっている!」
「前科があるから信用できない!」
「俺はまだ町を焼いていない!」
「焼きかけたことはあるんだな!?」
「細かいことを気にするな!」
「命に関わる細かさだよ!」
黒い獣が大きく口を開いた。
黒い光が口元に集まる。
「まずい! 魔力を溜めているぞ!」
冒険者の一人が叫んだ。
次の瞬間、黒い光が砲弾のように放たれた。
狙いは――逃げ遅れた子どもだった。
「危ない!」
レオンの身体が動いた。
一歩、半歩。それだけで。
レオンは地面を蹴った。
いや、正確には蹴ったようには見えなかった。
足を滑らせるように踏み出し、身体をわずかに横へずらす。
片手を子どもの背中に添え、もう片方の手でその肩を軽く導く。
まるで、踊りの相手を優しく誘導するような動きだった。
「こっちだ」
子どもの身体が、ふわりと横へ移動した。
直後、黒い光が二人の横を通り抜け、後方の石壁に激突した。
ドゴオオオンッ!
壁が砕け、破片が飛び散る。
「ひっ……!」
子どもは目を見開いた。
自分が助かったことを、まだ理解できていない様子だった。
レオンはしゃがみ込み、子どもの目線に合わせた。
「怪我はないか?」
「う、うん……」
「よし。お母さんのところへ戻るんだ。走ると転ぶから、周りを見ながらな」
子どもは何度もうなずき、母親のもとへ駆けていった。
レオンはその背中を見送り、静かに立ち上がった。
「さて……」
彼は軽く息を吐いた。
「料理祭を台無しにしてくれたお礼をしないとな」
その様子を、イグニスはじっと見ていた。
黄金の瞳が細くなる。
今の動き。
あの距離で、魔力弾の軌道を見切ったのか?
いや、それだけではない。
攻撃を避けると同時に、子どもの身体を安全な場所へ移動させた。
力任せではない。
速さだけでもない。
相手の動きと力の流れを読み、最小限の動きで結果を変えたのだ。
「……おい、レオン」
「なんだ?」
「今のは何だ?」
「何が?」
「子どもを助けたときの動きだ」
「ああ。危なかったから避けただけだ」
「避けただけ?」
「そうだが?」
「……」
イグニスは黙った。
目の前の男は、どう見ても普通の料理人ではない。
しかし本人は、何事もなかったかのように服についた埃を払っている。
「お前……本当に何者だ?」
「中華料理人」
「それは聞いた!」
「じゃあ、質問の答えは終わりだな」
「終わっていない!」
イグニスが叫んだ瞬間、黒い獣が再び咆哮した。
「グオオオオオッ!」
レオンは振り返った。
「話はあとだ。まずは、あれをどうにかしよう」
「……ちっ。仕方がない」
イグニスの身体から、赤い魔力が立ち上った。
伝説の竜王、本気を出す!
「人間ども、よく見ておけ!」
イグニスが片手を掲げた。
「この俺こそ、偉大なる竜王イグニス!」
「おい、名前を大声で言うな!」
「なぜだ!」
「目立つからだ!」
「すでに十分目立っている!」
「そういう問題じゃない!」
イグニスの指先に、赤い炎が集まった。
炎は小さな球となり、徐々に大きくなる。
その熱だけで、周囲の空気が揺らぎ始めた。
「ま、待て! そんな魔力を使ったら町が……!」
冒険者たちが慌てて叫ぶ。
しかし、イグニスは不敵に笑った。
「安心しろ。俺は力の加減くらいできる!」
レオンは即座に叫んだ。
「昨日、薪を炭にした奴の言葉を信じるな!」
「まだそれを言うか!」
イグニスは腕を振り抜いた。
「喰らえ! 竜炎弾!」
炎の球が黒い獣へ飛んだ。
ドゴンッ!
直撃。
黒い獣の巨体が後方へ吹き飛び、広場の石畳を滑っていく。
「やった!」
「すげえ……!」
冒険者たちから歓声が上がった。
イグニスは髪をかき上げ、満足げに笑った。
「ふっ。これが竜王の力だ」
「……今のは、確かにすごかった」
レオンが素直に認めた。
イグニスは一瞬、驚いた顔をした。
「ほう。ようやく俺の偉大さを理解したか」
「ただし、町を焼かなかったことは褒めておく」
「そこなのか!?」
「成長したな」
「俺を子ども扱いするな!」
そのときだった。
吹き飛ばされた黒い獣が、ゆっくりと立ち上がった。
傷ついたはずの身体が、黒い霧に包まれて修復されていく。
「なに……?」
冒険者たちの顔から、笑みが消えた。
普通の魔物なら、今の一撃で倒れていてもおかしくない。
だが、黒い獣は何事もなかったかのように、再び二人を見据えた。
「封印の竜……その力を……よこせ……」
イグニスの眉が動いた。
「やはり、俺を狙っているのか」
黒い獣の身体から、黒い霧が噴き出す。
霧は地面を這い、周囲の人々へ伸びていった。
「みんな、離れろ!」
レオンが叫んだ。
霧に触れた木箱が、みるみる黒く変色する。
ただの煙ではない。
触れたものの生命力を奪っているようだった。
「厄介だな……」
レオンは周囲を見渡した。
逃げ遅れた人がいる。
倒れた屋台の陰に、年配の女性がうずくまっていた。
黒い霧が、その足元まで迫っている。
「イグニス! あの霧を止められるか?」
「焼き払う!」
「周りまで焼くなよ!」
「分かっている!」
「その返事が一番怖い!」
イグニスが炎を放とうとした、その瞬間。
黒い獣が地面を蹴った。
狙いはイグニスではない。
レオンだった。
「レオン!」
イグニスが叫ぶ。
黒い獣の爪が、レオンの頭上から振り下ろされた。
普通なら、逃げる間もない。
しかしレオンは、慌てなかった。
右足を半歩引く。
腰をわずかにひねる。
上半身を柔らかく傾け、爪の軌道から身体を外した。
爪が、髪の先をかすめる。
風圧が頬を打った。
それだけだった。
「なっ……!?」
イグニスが目を見開いた。
レオンは獣の懐に入り込んでいた。
逃げたのではない。
攻撃の勢いに逆らわず、その力が通り過ぎる場所へ身体を移したのだ。
レオンは獣の前脚に片手を添えた。
もう片方の手を、ゆっくりと円を描くように動かす。
「力を入れすぎだ」
まるで料理の火加減を注意するような口調だった。
「……は?」
黒い獣が、前脚を引こうとした。
だが、巨体の重心が崩れる。
レオンは無理に押していない。
相手が動こうとする方向を利用し、ほんの少しだけ流れを変えた。
巨体がぐらりと傾いた。
ドォン!
黒い獣が、石畳に片膝をついた。
広場が静まり返った。
冒険者たちは、何が起きたのか理解できずにいた。
巨大な魔物が。
人間の料理人に。
体勢を崩された。
「……今、何をした?」
イグニスがつぶやいた。
レオンは獣から距離を取り、軽く手を払った。
「重心が前に寄っていたから、少し誘導しただけだ」
「少し……?」
「そう。少し」
「お前の『少し』は、普通の人間の『少し』ではないだろう!」
「そうか?」
「そうだ!」
レオンは困ったように笑った。
「昔、ちょっと武術を習っていただけだよ」
「ちょっと?」
イグニスは目を細めた。
「お前は今、俺の目の前で巨大な魔物の動きを崩したのだぞ?」
「料理にも体の使い方は大事なんだ」
「どんな料理人だ!」
「肩や腰を痛めたら仕事にならないだろ?」
「その理屈で魔物を転ばせる料理人がいてたまるか!」
レオンは答えず、肩をすくめた。
彼の脳裏に、遠い昔の光景がよぎる。
師匠の声。
何度も繰り返した型。
ゆっくりと動きながら、相手の力を感じ取る稽古。
そして、拳を振るうときに教えられた言葉。
――力で力をねじ伏せるな。相手の動きを見ろ。
レオンは目を閉じ、息を整えた。
今は、昔の話をしている場合ではない。
「イグニス!」
「なんだ!」
「こいつ、倒しても再生する。黒い霧の中心を狙えないか?」
イグニスの顔つきが変わった。
「……なるほど。霧の奥に魔力の核がある」
「なら、そこを露出させる。少し時間を稼いでくれ」
「お前がか?」
「俺がやる」
「……本当にただの料理人か?」
「今は料理人だよ」
「今は、だと?」
「ほら、来るぞ!」
黒い獣が再び立ち上がった。
赤い目が、怒りに燃えている。
◆竜王と料理人の連携
「グオオオオオッ!」
黒い獣が突進してきた。
レオンは真正面から迎え撃つ。
いや、迎え撃つように見えただけだった。
獣の爪が振り下ろされる。
レオンは身体を沈め、すっと横へ移動する。
爪が地面を砕く。
レオンは獣の腕に軽く触れ、流れるように身体を回転させた。
獣の勢いがわずかに逸れる。
続く尾の一撃。
レオンは後ろへ飛び退かず、前へ半歩踏み込んだ。
尾が頭上を通過する。
「な、なんだ、あの動き……!」
冒険者の一人が声を上げた。
「攻撃を避けているのに、動きが小さい!」
「まるで相手の動きを先に知っているみたいだ!」
レオンは獣の攻撃を見ながら、ゆっくりと息を吐いていた。
拳を握りしめない。
肩に力を入れない。
相手の動きを見て、必要な場所に必要なだけ身体を動かす。
それは、太極拳の基本に通じる動きだった。
しかし、レオンはまだ本気を出していない。
今の目的は勝つことではない。
黒い霧の中心を見つけることだ。
「……見えた!」
獣が大きく腕を振り上げた瞬間。
胸元の黒い霧が薄くなり、奥に紫色の核がちらりと見えた。
「イグニス! 胸だ!」
「任せろ!」
イグニスが炎を集める。
だが、黒い獣はそれを察知したように、急に身体を丸めた。
黒い霧が爆発的に広がる。
「しまった!」
霧がイグニスを包み込んだ。
「イグニス!」
レオンが叫ぶ。
黒い霧の中から、苦しげな声が響いた。
「ぐっ……この霧……!」
イグニスの胸元が、黒い呪印と共鳴するように光った。
彼の身体がぐらつく。
いつもの圧倒的な魔力が、急速に弱まっていく。
「竜の力……封じる……」
黒い獣が、不気味に笑った。
レオンの目が細くなる。
これは、ただの魔物ではない。
明らかにイグニスの呪印と関係がある。
そして、誰かが意図的に差し向けた可能性が高い。
「……なるほど」
レオンは静かに構えた。
右足を前へ。
左足を後ろへ。
重心を落とし、両手を柔らかく開く。
先ほどまでの穏やかな表情が、少しだけ変わった。
「イグニス。少しだけ我慢してくれ」
「レオン……何をする気だ?」
「料理人にも、得意な火加減があるんだよ」
「今は料理の話をしている場合か!」
「緊張をほぐしているんだ」
「俺の緊張は今、限界だ!」
「じゃあ、任せろ」
レオンは一歩、前へ出た。
レオンの拳
黒い獣が、レオンに向かって爪を振り下ろす。
レオンは避けなかった。
正確には、避ける必要がなかった。
爪が届く寸前、身体をわずかに回転させる。
左手で獣の腕を受け流し、右手を胸元へ滑らせる。
ドンッ!
短い音が響いた。
大きな拳を振りかぶったわけではない。
全身の力を一瞬だけ集め、近い距離から打ち込んだのだ。
黒い獣の巨体が、わずかに後ろへ揺れた。
「な……!?」
イグニスが目を見開く。
レオンの拳が触れた場所から、黒い霧が一瞬だけ散った。
紫色の核が、再び姿を現す。
「今だ! イグニス!」
「おおおおおっ!」
イグニスは残された魔力をかき集めた。
炎が集まる。
今度は巨大な火球ではない。
細く、鋭く、まっすぐな炎だった。
「竜炎――穿ち!」
炎が黒い獣の胸を貫いた。
バキィィン!
紫色の核に亀裂が走る。
黒い霧が激しく暴れ、広場を覆い尽くすように広がった。
「うわああっ!」
「伏せろ!」
レオンは腕で顔をかばいながら叫んだ。
「イグニス! 最後まで押し切れ!」
「言われなくても分かっている!」
イグニスが両手を突き出す。
「消え失せろ!」
炎が一気に燃え上がった。
次の瞬間。
紫色の核が砕け散った。
黒い霧は悲鳴のような音を立て、空中へ舞い上がり、少しずつ消えていった。
広場に静寂が戻る。
倒れていた屋台。
砕けた石畳。
散乱した食材。
そして、黒い獣がいた場所に残された、小さな黒い欠片。
レオンはそれを見つめた。
「……これが、核か」
イグニスは片膝をつき、荒い息を吐いていた。
「はぁ……はぁ……」
「大丈夫か?」
「当然だ……竜王を誰だと思っている……」
「じゃあ、立てるな?」
「……少し休ませろ」
「当然じゃないのか?」
「うるさい!」
レオンは笑った。
その笑顔を見た瞬間、イグニスはふと気づいた。
先ほどの戦い。
レオンは一度も、無駄に力んでいなかった。
魔物の攻撃を受け止めることも、押し返すこともせず、流れを変えていた。
最後の一撃も、ただ強く殴っただけではない。
黒い霧が薄くなる瞬間を見極め、核を露出させるために打ち込んだのだ。
料理人の動きではない。
少なくとも、普通の料理人の動きではない。
「……レオン」
「ん?」
「お前、武術を少しかじったという程度ではないだろう」
「さあな」
「さあな、ではない!」
「腹が減ったな」
「話をそらすな!」
「戦った後は腹が減るだろ?」
「俺は今、真剣に聞いている!」
「分かった、分かった。あとで話すよ」
「本当だな?」
「たぶん」
「たぶん!?」
イグニスの叫び声が、静まり返った広場に響き渡った。
料理祭はどうなる!?
「皆さん! 怪我人はいませんか!?」
冒険者たちが、急いで人々の安否を確認していた。
幸い、重傷者は出ていないようだった。
レオンが助けた子どもも、母親に抱きしめられて無事だった。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
子どもが笑顔で手を振る。
レオンは片手を上げて応えた。
「もう危ない場所に近づくなよ」
「うん!」
その様子を見ていたイグニスが、ふんと鼻を鳴らした。
「人間にしては、なかなかやるではないか」
「お前もな。町を焼かなかったし」
「だから、そこを基準にするな!」
「大事なことだろ?」
「俺は伝説の竜王だぞ!」
「はいはい、伝説の竜王様」
「その言い方は腹が立つ!」
そこへ、審査委員長のグスタフが駆け寄ってきた。
「君たち! 無事だったか!」
「はい。何とか」
レオンは丁寧に頭を下げた。
グスタフは広場の惨状を見回し、それからレオンの顔を見つめた。
「先ほどの動き……見事だった」
「いえ、たまたまです」
「たまたまで、あれほど巨大な魔物の攻撃をかわし、体勢を崩せるものではない」
「……そうですか?」
「君は、どこで武術を学んだのだ?」
レオンは少しだけ黙った。
そして、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「昔、少しだけ」
グスタフはそれ以上、追及しなかった。
ただ、その目には確かな興味が宿っていた。
「君は料理人としても、武術家としても、まだ何かを隠しているようだな」
「そんなことはありませんよ」
「ならば、次の料理祭でじっくり見せてもらおう」
「……次もあるんですか?」
「もちろんだ!」
グスタフは胸を張った。
「町は必ず復興する。そして料理祭も再開する!」
その言葉に、周囲から拍手が起こった。
レオンはほっと息をついた。
だが、イグニスは別のことを気にしていた。
「レオン」
「なんだ?」
「料理祭は中止か?」
「この状況じゃ、そうなるだろうな」
「……では、優勝賞金は?」
「知らないよ!」
「俺の肉代はどうなる!?」
「そこを心配するな!」
「重要な問題だ!」
「お前にとってはな!」
イグニスは真剣な顔で、グスタフに向き直った。
「審査委員長!」
「な、何でしょう?」
「俺たちは町を救った! 当然、報酬が出るのだろうな?」
「ええ……それは町の責任者と相談して――」
「肉でいい!」
「現金でもらえ!」
「肉と現金だ!」
「欲張るな!」
周囲の人々から、笑い声が起こった。
張り詰めていた空気が、少しずつ和らいでいく。
黒い欠片と、竜の呪印
騒ぎが落ち着いたころ。
レオンは、魔物が消えた場所に残された黒い欠片を拾い上げた。
表面には、細かな紋様が刻まれている。
まるで、何かの封印を模したような形だった。
「……これは自然に生まれた魔物じゃないな」
レオンがつぶやく。
イグニスも欠片を見つめた。
「俺の封印と似た気配がある」
「やっぱり、お前の呪いと関係があるのか?」
「分からん。だが、俺の力を奪おうとしていたのは確かだ」
イグニスは胸元を押さえた。
服の下の黒い呪印が、先ほどよりも濃くなっている。
「……くそっ」
彼の表情が険しくなった。
レオンは、そっと声をかけた。
「無理をするな。今日は休んだ方がいい」
「竜王に休めだと?」
「そうだ。食事も必要だ」
「……肉か?」
「まずは体調の確認だ」
「肉も必要だ」
「話を聞け!」
レオンは黒い欠片を布に包み、荷物にしまった。
呪いの専門家に見せれば、何か分かるかもしれない。
今はまだ、手がかりが少なすぎる。
だが、一つだけ確かなことがある。
イグニスを狙う何者かが、この町にいる。
そして、その者は料理祭の混乱に紛れて動いていた。
レオンは広場の人混みを見渡した。
人々は復旧作業を始め、冒険者たちは魔物の痕跡を調べている。
その中に、不自然な人物がいないか探した。
しかし、黒いローブの人物はすでに姿を消していた。
イグニスの新たな疑問
夕方。
二人は宿へ戻る道を歩いていた。
イグニスは、珍しく静かだった。
レオンが横目で見ると、彼は何度もこちらをちらちらと見ている。
「……何だよ?」
「いや」
「言いたいことがあるなら言え」
「お前は、本当に料理人なのか?」
「今日、何回目だよ、その質問」
「何度でも聞く!」
「料理人だよ」
「では、なぜ拳で魔物を崩せる?」
「昔、武術を習っていたから」
「どの程度だ?」
「少し」
「その『少し』を今すぐ詳しく説明しろ!」
「宿に着いたらな」
「約束だぞ!」
「分かったよ」
レオンは笑いながら歩いた。
そのとき、宿の前に屋台が並んでいるのが見えた。
香ばしい匂いが漂ってくる。
イグニスの足が止まった。
「……レオン」
「駄目だ」
「まだ何も言っていない!」
「顔に書いてある」
「俺の顔に何が書いてある!?」
「肉を買え、って」
「なぜ分かった!?」
「毎日見ているからだよ!」
イグニスは屋台を指さした。
「一本だけだ」
「駄目」
「二本」
「値上げするな」
「では三本で手を打とう」
「交渉が下手すぎる!」
レオンはため息をつき、屋台へ向かった。
「串焼きを二本ください」
「おう、毎度!」
受け取った串焼きを一本、イグニスに渡す。
もう一本は自分の分だ。
イグニスは一口かじり、目を細めた。
「……うまい」
「そりゃよかった」
「今日の働きに対する報酬だな」
「俺が買ったんだけど?」
「俺が魔物を倒した」
「俺も戦ったぞ」
「では、二人の報酬だ」
「支払いは俺だけどな!」
「細かいことを気にするな」
「お前が言うな!」
二人は串焼きを食べながら、宿へ戻った。
その背中を、遠くの屋根の上から見つめる影があった。
黒いローブの人物だ。
「……あの料理人」
人物は、レオンの歩き方を思い返す。
無駄のない足運び。
相手の力を受け流す手の動き。
そして、魔物の核を露出させた一撃。
「ただの料理人ではないな」
人物は、手の中の小瓶を握りしめた。
「竜だけでなく、あの男にも注意が必要か……」
小瓶の中で、黒い霧が不気味に揺れた。
そして、夜の闇へと消えていった。
宿にて――拳法の達人、正体を隠す
「さあ、話してもらおうか」
宿の部屋に入るなり、イグニスが椅子に座って腕を組んだ。
「お前の武術についてだ」
「夕食が先じゃないか?」
「串焼きを食べただろ!」
「一本だけだぞ」
「俺も一本だけだ!」
「お前は二本目を買おうとしていた」
「それは今、関係ない!」
レオンは苦笑し、荷物を置いた。
「昔、拳法を習っていたんだ。太極拳もな」
「タイキョクケン?」
「ゆっくりとした動きで、身体の使い方や相手の力の流れを学ぶ武術だよ」
「ゆっくり動くだけで、あの魔物を転ばせたのか?」
「ゆっくり動くのと、弱いのは別だからな」
レオンはそう言って、部屋の中央に立った。
片足を半歩前へ出す。
両腕をゆるやかに開き、呼吸を整える。
その姿からは、先ほどまでの気さくな料理人の雰囲気が消えていた。
静かで、自然体。
それなのに、どこにも隙がない。
イグニスは思わず背筋を伸ばした。
「……ほう」
レオンはゆっくりと腕を動かした。
まるで目の前に見えない相手がいるかのように、重心を移し、身体を回転させる。
動きは穏やかだった。
しかし、足元は驚くほど安定している。
「拳法だけじゃない。身体の使い方を覚えると、包丁を扱うときも役に立つ。長時間立っていても疲れにくくなるし、重い鍋も扱いやすくなる」
「……お前は、武術を料理にまで利用しているのか」
「逆だよ。料理も武術も、身体を使う仕事だからな」
レオンは構えを解いた。
「それに、俺は料理人だ。戦うためにこの世界へ来たわけじゃない」
イグニスはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……だが、お前は強い」
レオンは少し驚いたように顔を上げた。
「そう見えたか?」
「見えたどころではない。俺の知る人間の中でも、かなり異質だ」
「それは褒めているのか?」
「当然だ!」
「なら、ありがたく受け取っておくよ」
レオンは笑った。
イグニスも、わずかに口元を緩めた。
だが、すぐに真剣な顔へ戻る。
「レオン。これからも、俺と一緒に来い」
「……どうした、急に?」
「お前の料理はうまい。それに、戦いでも役に立つ」
「結局、食事が一番の理由だろ」
「違う!」
「本当か?」
「……七割は料理だ」
「ほぼ料理じゃないか!」
イグニスは胸を張った。
「残り三割は、お前の武術に興味があるからだ!」
「正直すぎる!」
レオンは大笑いした。
こうして、異世界の料理人と伝説の竜王の旅は続いていく。
ただし、レオンにはまだ秘密があった。
太極拳は、彼が身につけた武術の一つにすぎない。
そして、彼が本気で拳を振るう姿を――イグニスでさえ、まだ見たことがない。




