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第3話 町に到着! 竜王、絶世の美男子になる!?

森を抜けた先に、巨大な城壁がそびえ立っていた。

高い石壁。頑丈そうな門。行き交う商人や冒険者。そして門の上には、見張りの兵士たち。

ようやく人の暮らす町にたどり着いたのだ。

レオンは思わず両手を広げた。

「町だ……! 人間の町だぞ!」

「騒ぐな。町など、我が炎で一瞬にして灰にできる」

「初めて来た観光客みたいな感想を言ってる横で、物騒なことを言うな!」

「事実を述べただけだ」

「町を焼くのは事実じゃなくて犯罪なんだよ!」

イグニスは不服そうに鼻を鳴らした。

「人間とは窮屈な生き物だな」

「お前が自由すぎるんだよ!」

レオンは頭を抱えた。

目の前にいるのは、伝説級の力を持つ赤い竜。

その竜が今、食べ物のことで頭がいっぱいになっている。

しかも、財布は空っぽ。

料理人としては致命的だった。

「まずは仕事だな。金を稼いで、食材を買って、宿に泊まる」

「肉は?」

「金を稼いでから」

「肉は?」

「だから、金を稼いでから!」

「偉大なる竜王に肉を買わせるというのか?」

「偉大なる竜王様、現在の所持金はゼロでございます」

「……」

「ご理解いただけましたか?」

「人間の貨幣制度は滅ぼすべきだ」

「町に入る前から国家転覆を企てるな!」

そのとき、イグニスがふと立ち止まった。

「レオン」

「なんだよ?」

「この姿のまま町に入るのは面倒だな」

「この姿?」

レオンが振り返る。

イグニスの赤い鱗が、夕日のような光を放ち始めた。

「お、おい……なんだ、その光は?」

「人間どもは、竜を見ると騒ぐ。面倒だから姿を変える」

「は?」

「少し下がっていろ」

次の瞬間。

赤い光がイグニスの全身を包み込んだ。

大きな翼が光の粒となって消え、鋭い爪が人間の手へと変わる。巨大な胴体はすらりとした長身に縮み、赤い鱗は艶やかな衣服へと姿を変えた。

そして光が消えたとき。

そこに立っていたのは――。

燃えるような深紅の長髪。

宝石のように輝く黄金の瞳。

彫刻家が一生をかけても完成できないほど整った顔立ち。

高い鼻筋。薄く形のよい唇。無駄のない長身と、王族すら裸足で逃げ出しそうな気品。

まるで伝説の絵画から抜け出してきた、美の化身だった。

風が吹き、赤い髪がさらりと揺れる。

近くを通りかかった女性が、持っていた買い物かごを落とした。

「……え?」

別の女性が口元を押さえた。

「な、なに……あの人……」

「この世に、あんな美しい人がいるの……?」

男性までもが立ち止まる。

「くっ……顔面の格が違いすぎる……!」

「俺、今日から顔を隠して生きるわ……」

町の一角が、静かにざわついた。

一方、レオンは。

「…………」

固まっていた。

イグニスが、すっと顎を上げる。

「どうした、レオン。言葉も出ぬほど感動したか?」

「…………」

「当然だな。これが我が人間形態だ」

レオンはゆっくりとイグニスの周りを一周した。

正面を見る。

横顔を見る。

後ろ姿を見る。

もう一度、正面を見る。

「……誰?」

「我だ」

「誰?」

「イグニスだ」

「誰ぇぇぇぇぇっ!?」

レオンは思わず叫んだ。

「待て待て待て! お前、本当にあの赤いトカゲか!?」

「竜だ!」

「いや、だって! さっきまで巨大で、偉そうで、食い意地が張ってて、火を吹くしか能がない赤い竜だっただろ!」

「最後の部分は聞き捨てならぬ!」

「それがどうして、こんな絶世の美男子になるんだよ!?」

イグニスは腕を組んだ。

「我は竜王だぞ。姿を変えた程度で驚くとは、人間の想像力は貧弱だな」

「いやいやいや! 姿を変えた程度ってレベルじゃない!」

レオンはイグニスの顔を指さした。

「同一人物……いや、同一竜なのか!?」

「同一竜だ!」

「本当に!? 魂を入れ替えられたとか、どこかの美男子と入れ替わったとかじゃなくて!?」

「そんな面倒なことをするか!」

「だって顔面偏差値が違いすぎるんだよ! 竜のときは恐怖で直視できなかったのに、今は別の意味で直視できない!」

イグニスは満足げに笑った。

「ようやく我の価値を理解したか」

「いや、理解が追いついてないんだよ!」

「ふん。ひれ伏してもよいぞ」

「その顔でそれを言うな! 腹立つのに説得力がある!」

イグニスは得意げに髪をかき上げた。

その仕草だけで、通りの女性たちから小さな悲鳴が上がる。

「きゃあああっ!」

「こっちを見たわ!」

「今、目が合った……! 今日死んでも悔いはない……!」

レオンは頭を抱えた。

「お前、町に入る前より目立ってるじゃないか!」

「なぜだ? 竜の姿よりは騒がれぬと思ったのだが」

「方向性が違うだけで、騒がれる原因はお前だ!」

「人間とは不可解だな」

「お前が一番不可解だよ!」

***

二人が町の門へ向かうと、門番が槍を構えて立ちはだかった。

「止まれ! 身分証を見せろ!」

「身分証?」

レオンは困った。

異世界に来てから、そんなものは持っていない。

「すみません。遠いところから来たばかりで、身分証はありません。俺は料理人です。仕事を探しに来ました」

門番はレオンを見て、それから隣のイグニスを見た。

そして、ぴたりと動きを止めた。

「……あの」

「はい?」

「そちらの方は……?」

イグニスは胸を張った。

「よくぞ聞いた。我こそは、太古より存在する偉大なる竜王――」

レオンは素早くイグニスの口を塞いだ。

「荷物持ちです!」

「んぐっ!?」

「ちょっと口数の多い荷物持ちです! 顔はいいですけど、中身は残念なんです!」

「んんんっ!!」

門番は目をぱちくりさせた。

「……荷物持ち?」

「はい!」

「ずいぶんと……その、目立つ方だな」

「本人も困ってるんですよ! 顔だけは生まれつきどうしようもなくて!」

「んんんんんっ!!」

「静かにしろ、荷物!」

レオンはイグニスの口を押さえたまま、にっこり笑った。

門番は少し考えたあと、ため息をついた。

「まあ、町で騒ぎを起こさないならいい。入ってよし。ただし、竜を連れ込むような真似はするなよ」

「もちろんです!」

「我は竜だが?」

「黙れ、荷物!」

「んんんっ!!」

こうして二人は、どうにか町へ入ることができた。

門をくぐった瞬間、レオンは深く息を吐いた。

「はあ……疲れた……。町に入るだけで、どうしてこんなに苦労するんだ……」

「お前が我を荷物呼ばわりするからだ」

「お前が正体をばらそうとするからだろ!」

「真実を告げて何が悪い」

「ここで『伝説の竜王です』なんて言ったら大騒ぎだよ!」

イグニスは不満そうに鼻を鳴らした。

「人間は竜を恐れすぎる」

「そりゃそうだろ。竜なんて、めったにいないんだから」

「……ほう?」

「え?」

イグニスの黄金の瞳が、わずかに細くなった。

「この世界では、竜は珍しいのか?」

「珍しいどころじゃないと思うぞ。俺も実物を見るまでは、伝説上の生き物だと思ってたし」

「ほう……」

「昔話や伝承に出てくるくらいだろ。竜が現れたら国が動くとか、災害の前触れだとか、竜を見た者は英雄になるとか……」

「英雄になるのか?」

「そこに食いつくのかよ!」

イグニスは少し考えた。

「つまり、我が正体を明かせば、人間どもはひれ伏すということだな」

「違う! 国中が大混乱になるってことだ!」

「同じようなものだろう」

「全然違うわ!」

レオンは真剣な顔で言った。

「いいか、イグニス。竜は希少なんだ。しかも、お前みたいな古代から生きてる竜なんて、伝説クラスだ。見つかっただけで国が大騒ぎになってもおかしくない」

「ふむ」

「だから、絶対に正体を明かすなよ」

「承知した」

「本当か?」

「我は竜王だ。約束は守る」

レオンは少し安心した。

その直後。

イグニスが通りの真ん中で大きく手を広げた。

「人間どもよ! 偉大なる――」

「やめろぉぉぉぉっ!!」

レオンは背後から飛びついて、イグニスの口をふさいだ。

「今、約束したばっかりだろうが!」

「我は町の者に挨拶を――」

「挨拶に国を滅ぼす前置きをつけるな!」

通行人たちは、二人を見てひそひそと話し始めた。

「美しい人なのに、連れの男に振り回されている……」

「もしかして、あの料理人が主人なのかしら?」

「いや、あの美男子が料理人の護衛なのでは?」

レオンは小さくつぶやいた。

「……もう帰りたい」

イグニスは堂々と胸を張った。

「安心しろ。人間どもは我の美しさに夢中だ」

「お前のせいで俺が変な誤解をされてるんだよ!」

***

町の中心部は活気に満ちていた。

商人たちの呼び声。荷馬車の音。冒険者たちの笑い声。そして、あちこちから漂ってくる料理の香り。

焼きたてのパン。

香草を使った肉料理。

甘い果物。

煮込み料理の濃厚な匂い。

レオンの料理人としての感覚が、久しぶりに目を覚ました。

「……いい町だ」

「うむ」

「食材も豊富そうだし、調理器具も売ってる。ここなら仕事が見つかるかもしれない」

「肉はどこだ?」

「お前は食材じゃなくて、まず仕事を探せ!」

そのとき、肉屋の前を通りかかった。

店先には、見事な厚切り肉が並んでいる。

イグニスの足が止まった。

黄金の瞳が、肉を凝視する。

「レオン」

「嫌な予感がするから先に言っておく。買わないぞ」

「なぜだ?」

「金がないからだよ!」

「ならば、あの肉をもらってくればよい」

「それを盗みと言うんだ!」

イグニスは心底不思議そうな顔をした。

「我はかつて、山脈ひとつを縄張りにしていたのだぞ。獲物を取るのに許可など必要なかった」

「ここは山じゃなくて町!」

「では、店主に言えばよいのだな?」

「そうだよ。ちゃんと金を払って――」

イグニスは店主の前に立った。

「人間よ。その肉を我に差し出せ」

店主が顔を上げた。

「……は?」

「我は空腹だ」

「……いや、あの、お客さん。お買い上げですか?」

「差し出せと言っている」

「お代は?」

「……お代?」

イグニスが固まった。

店主も固まった。

レオンは空を仰いだ。

「ほらあああああっ! やっぱりこうなったぁぁぁ!」

イグニスはゆっくりと振り返った。

「レオン」

「なんだよ!」

「人間は肉を食べるのに、なぜ肉を買わねばならぬのだ?」

「生産者がいて、運ぶ人がいて、店を開く人がいて、みんな働いてるからだよ!」

「ならば、我も働けばよいのか?」

レオンは一瞬、言葉に詰まった。

「……そうだよ」

「竜王が?」

「そうだよ」

「この我が?」

「そうだよ!」

イグニスは肉を見つめた。

それから、重々しくうなずいた。

「よかろう。人間の風習に従い、働いてやろう」

レオンは感動しかけた。

「おお……! やっとわかってくれたか!」

「ただし、報酬は肉でよい」

「現物支給にもほどがある!」

店主が、笑いをこらえながら口を開いた。

「兄さん、ずいぶん面白い連れだな」

「面白いというか、頭が痛いというか……」

「料理人なんだろう? なら、ギルドに行ってみたらどうだ。冒険者ギルドなら仕事を紹介してくれる。食堂の手伝いを探していることもあるぞ」

レオンの目が輝いた。

「本当ですか?」

「ああ。町の北通りにある。大きな剣の看板が出てるから、すぐわかる」

「ありがとうございます!」

レオンは深々と頭を下げた。

その横で、イグニスが肉を指さした。

「では、仕事が見つかったら、あの肉を買う」

「そうだな」

「大きいのを買う」

「働いた分だけな」

「一番大きいのだ」

「売り切れてなければな」

「……レオン」

「なんだよ?」

「我は今、働く意欲に満ちあふれている」

「うん」

「だから、先に肉を食わせろ」

「意欲が腹に負けるの早すぎるだろ!」

***

北通りへ向かう途中、レオンは人々の様子に気づいた。

通りのあちこちで、イグニスに視線が集まっている。

女性たちは頬を赤らめ、男性たちは複雑な顔で見送っていた。

中には、イグニスの姿を見て思わず祈り始める老人までいた。

「……あの方、どこかの王族か?」

「いや、あの気品……。もしかして、古い伝承にある竜の化身では?」

「ばかを言うな。竜など伝説だぞ」

レオンは思わずイグニスを見た。

「おい。やっぱり目立ちすぎだぞ」

「何が問題だ?」

「その顔だよ!」

「顔は生まれ持ったものだ。文句があるなら創造主に言え」

「お前、竜のくせに妙に人間くさい言い訳をするな!」

イグニスはふと足を止めた。

「レオン」

「今度はなんだ?」

「人間の女たちは、なぜ我を見て顔を赤くする?」

「……は?」

「我の顔に何かついているのか?」

レオンは、しばらく無言でイグニスを見つめた。

「……お前、本気で言ってる?」

「当然だ」

「自分の顔がどれだけすごいかわかってないのか?」

「我は竜王だ。顔の良し悪しなど、どうでもよい」

「じゃあ、どうしてさっきから髪をかき上げてるんだ?」

「風が吹いたからだ」

「風が吹くたびに三回もやるか!」

「……」

「しかも、女性が見てる方向に顔を向けてるだろ!」

「偶然だ」

「偶然でウインクするな!」

イグニスは目を見開いた。

「今のは人間の挨拶ではないのか?」

「違うわ!」

その瞬間、近くの女性が胸を押さえてしゃがみ込んだ。

「む、無理……! 今、目が合った……!」

レオンは両手で顔を覆った。

「もう駄目だ……。この竜、無自覚に町を制圧してる……」

イグニスは満足げにうなずいた。

「さすが我だな」

「褒めてないから!」

***

やがて、二人は冒険者ギルドに到着した。

頑丈な木造の建物。入口には剣と盾を組み合わせた看板が掲げられている。

中からは、冒険者たちの笑い声や食器の音が聞こえてきた。

レオンは深呼吸した。

「よし。ここで仕事を見つけよう」

「肉はあるか?」

「仕事!」

「肉のある仕事は?」

「知らん!」

扉を開けると、酒場のような賑やかな空間が広がっていた。

鎧を着た戦士。

杖を持った魔法使い。

大きな荷物を背負った商人。

そして、掲示板に貼られた数々の依頼書。

受付の女性が二人に気づき、にこやかに声をかけてきた。

「いらっしゃいませ。冒険者登録ですか?」

レオンは少し緊張しながら答えた。

「いえ、俺は料理人なんです。食堂などで働ける仕事があればと思って」

「料理人さんですか。それなら、ギルド併設の食堂で人手を募集していたはずです。担当者に確認しますね」

「本当ですか!? ありがとうございます!」

レオンの顔がぱっと明るくなった。

ようやく、まともな仕事にたどり着けそうだ。

そのとき。

隣から、堂々とした声が響いた。

「では、我も登録しよう」

受付の女性が顔を向けた。

「冒険者登録ですね。ご職業は何でしょうか?」

イグニスは一歩前に出た。

「竜王だ」

「……はい?」

レオンは天井を仰いだ。

「終わった……」

受付の女性は困ったように微笑んだ。

「ええと……。竜王という職業は、当ギルドには登録区分がございませんので……」

「では、新設しろ」

「できません!」

「なぜだ!」

「規則です!」

「規則を変えればよい!」

「変えられません!」

「人間とは、なんと融通の利かぬ生き物だ!」

レオンはイグニスの襟首をつかんだ。

「すみません! こいつ、世間知らずなだけなんです!」

「我は世間を知っている!」

「じゃあ、冒険者ギルドで竜王を名乗るな!」

「真実だぞ!」

「真実でも場所を選べ!」

受付の女性は、ついに口元を押さえて笑い始めた。

「ふふっ……。仲がよろしいんですね」

「よくないです!」

「仲がよい!」

二人の声が重なった。

レオンはイグニスをにらんだ。

イグニスは勝ち誇った顔をした。

「聞いたか。仲がよいそうだ」

「都合のいいところだけ聞くな!」

その瞬間、ギルドの奥から慌ただしい足音が響いた。

「大変だ! 町の東門に魔獣が出た!」

一人の冒険者が駆け込んできた。

「巨大な魔猪だ! 防壁に向かって突進してきている!」

ギルド内が一気に騒がしくなる。

「魔猪だと!?」

「普通の個体じゃないぞ! 体が岩みたいに硬い!」

「討伐隊はどうした!」

「まだ間に合っていない!」

受付の女性の顔から笑みが消えた。

「皆さん、落ち着いてください! 近くの冒険者は東門へ向かってください!」

レオンは眉をひそめた。

「魔猪……?」

イグニスの黄金の瞳が、きらりと輝いた。

「ほう。猪か」

「おい、待て。その顔はなんだ」

「肉だ」

「まだ倒してもいない!」

「倒せば肉になる」

「理屈だけなら正しいのが腹立つ!」

イグニスは堂々と歩き出した。

「行くぞ、レオン」

「お前、戦う気か?」

「当然だ。町を守れば、感謝の印として肉をもらえるかもしれぬ」

「動機が最低なのに、結果だけは英雄っぽいな!」

レオンも包丁袋を背負い直した。

「わかった。ただし、町を壊すなよ。人を巻き込むなよ。勝手に火を吹くなよ!」

「注文が多い!」

「お前が危険物だからだ!」

二人はギルドを飛び出し、東門へ向かった。

町の外から、地面を揺らすような轟音が響いてくる。

ドドドドドドッ!

土煙の向こうに、巨大な魔猪の姿が見えた。

岩のような皮膚。

太い牙。

赤く光る目。

その巨体が、町の門へ向かって突進している。

冒険者たちが武器を構える中、レオンは静かに魔猪を観察した。

「……正面から止めるのは危険だな」

イグニスが横目で見た。

「料理人のお前に、何がわかる?」

「料理人だからこそ、食材の動きはよく見るんだよ」

「食材……」

イグニスの表情が変わった。

「つまり、あれは食材なのだな?」

「今は魔獣! 食材認定するのは倒してからだ!」

魔猪がこちらに気づいた。

次の瞬間、巨体が方向を変え、二人に向かって突進してきた。

「来るぞ!」

冒険者の叫び声が響く。

イグニスが炎をまとおうとした、そのとき。

レオンは半歩だけ、横へ動いた。

ほんのわずかな動き。

魔猪の牙が、レオンの服をかすめて通り過ぎる。

その巨体は勢いを殺せず、地面を削りながら大きくよろめいた。

イグニスの目が細くなった。

「……今の動き」

レオンは何事もなかったように、服についた土を払った。

「よし。まずは動きを止めよう。話はそれからだ」

「レオン」

「なんだ?」

「お前、本当にただの料理人なのか?」

レオンはにっこり笑った。

「腹が減ってるときは、ただの料理人だよ」

「腹が減っていないときは?」

「……さあな」

魔猪が再び咆哮した。

レオンは腰の包丁袋に手を添える。

イグニスは不敵に笑った。

「よかろう。では、あの猪を倒し、我らの夕食にしてやろう!」

「町を守るのが先だからな!」

「わかっている!」

「本当だろうな!?」

二人は同時に魔猪へと向き直った。

伝説級の竜王と、妙に落ち着いた料理人。

この町の人々は、まだ知らない。

今まさに、町を救うかもしれない二人組が誕生したことを。

そして、その二人組の最大の問題が――。

討伐報酬より、夕食の献立を優先しかねないことを。

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