第18話 竜の呪いが漏れた日
「……イグニス?」
レオンが振り返った瞬間、イグニスの足が止まった。
「どうした?」
返事がない。
いつもなら「腹が減った」「次の町に美味いものはあるか」と騒ぐ男が、今は黙って胸元を押さえていた。
「おい、顔色が悪いぞ」
「……問題ない」
「そのセリフ、問題がある奴しか言わないんだよ!」
レオンが近づこうとした、その時だった。
ドクンッ!
イグニスの身体から、黒紫色の煙が噴き出した。
「うわっ!? 何だ、これ!」
地面が震え、木々が一斉にざわめく。
黒い紋様がイグニスの首筋から頬へと這い上がった。金色だった瞳が、血のような赤に染まる。
「……離れろ、レオン」
「は?」
「早く離れろ!」
その声は、いつものイグニスのものとは思えないほど低かった。
次の瞬間。
ドォォォンッ!!
イグニスの足元が爆ぜた。
吹き飛ばされたレオンは、空中で身体をひねり、どうにか着地する。
「ちょっと待て! 散歩中に地面を爆破するな! 宿代が浮くどころか、弁償代が発生するだろうが!」
「グルルル……!」
イグニスの喉から、獣のような唸り声が漏れた。
彼の背後に、巨大な竜の影が揺らめく。
だが、その影は歪んでいた。
黒い鎖のようなものが竜の身体に絡みつき、翼を締め上げている。
「……呪いか」
レオンの表情が変わった。
イグニスが苦しそうに頭を抱える。
「来るな……! 俺から、離れろ……!」
「嫌だね」
「聞こえなかったのか!」
「聞こえたよ。だからって、仲間を置いて逃げる料理人がいるか!」
「お前は料理人だろうが!」
「料理人だって仲間くらいいるんだよ!」
「今はそういう話をしているのではない!」
「じゃあ、落ち着いてから話し合え!」
レオンが一歩踏み出した瞬間、イグニスの腕が大きく振り抜かれた。
バキバキバキッ!
太い木が三本、まとめてへし折れる。
「……おいおい。あれ、俺に当たったら料理どころか、明日の朝食にもありつけないぞ」
冗談を口にしながらも、レオンはイグニスから目を離さなかった。
これは単なる暴走ではない。
イグニス自身が、必死に何かを押さえ込んでいる。
そして、その何かは――少しずつ漏れ出していた。
「ヒカル、こっちへ!」
レオンが叫ぶと、ヒカルは怯えながらも頷いた。
しかし、次の瞬間。
ヒカルの瞳が、淡く光った。
「……くろい、くさり」
「ヒカル?」
「おじちゃんに、いっぱい巻きついてる……」
ヒカルはイグニスを見つめたまま、小さな手を伸ばした。
「いたいの?」
その声に、イグニスの動きが一瞬だけ止まる。
「……ヒカル、来るな」
けれど、ヒカルは首を横に振った。
「いたいの、いやだよ」
その瞬間、黒紫色の煙がヒカルへ向かって伸びた。
「危ない!」
レオンが飛び込もうとした、その時。
ヒカルの身体から、まばゆい光が弾けた。
黒い煙が、まるで熱湯を浴びた虫のように弾き飛ばされる。
「ギャッ!?」
……今、イグニスが悲鳴を上げなかったか?
レオンは思わず目を瞬かせた。
「お前、今の声……」
「黙れ!」
イグニスは怒鳴ったが、耳まで赤くなっていた。
どうやら、少しだけ正気が戻ったらしい。
だが、安心する暇はなかった。
イグニスの胸元に、黒い紋様が再び浮かび上がる。
「……くそっ、抑えきれん!」
竜の影が、今度は先ほどよりも大きく膨れ上がった。
レオンはヒカルを背中にかばい、拳を握る。
料理人の手だ。
だが、その構えには、ただ料理を作る者とは思えない静けさがあった。
「イグニス。聞こえるか」
「……逃げろ……」
「断る。俺はお前に、まだ食わせたい料理が山ほどある」
「……こんな時に……食い物の話か……!」
「当たり前だ。お前、まだ俺の麻婆豆腐を食べてないだろ!」
イグニスの口元が、ほんのわずかに動いた。
笑おうとしたのかもしれない。
しかし、その直後。
黒い竜の影が、天を裂くように咆哮した。
「グオオオオオッ!!」
森の鳥たちが一斉に飛び立つ。
そして、レオンの耳にだけ、奇妙な声が届いた。
――その竜を、解き放て。
――呪いを受け入れよ。
レオンは眉をひそめた。
「……誰だ、お前」
返事はない。
ただ、イグニスの瞳の奥で、何かが目覚めようとしていた。
ヒカルがレオンの服をぎゅっと握る。
「レオン……あのおじちゃん、なくなっちゃうの?」
レオンは答えられなかった。
呪いは、まだ完全には解けていない。
そして今、初めて分かった。
イグニスが恐れていたのは、呪いによる苦痛だけではない。
自分が、自分ではなくなること。
レオンは深く息を吸った。
「……大丈夫だ、ヒカル」
そして、暴れ狂う竜の影を見据える。
「絶対に、こいつを元に戻す」
その言葉に応えるように、イグニスの赤い瞳が一瞬だけ揺れた。
だが次の瞬間、黒い竜の影がレオンへと襲いかかった。




