第五話 異世界転移
「母ちゃん……? 母ちゃん!」
さっきまでとは反対に、俺は母ちゃんの体を抱き留め救急車も待たずにかかりつけの病院に転移した。
突然、病院の玄関に現れた俺たちに何人かが驚きの声を上げるが、気にしてはいられなかった。
ほっそりとした体を軽々と抱き上げ、受付窓口に駆け込む。するとそれを見つけた看護師がストレッチャーを持ってきて母ちゃんを運んで行った。
診察を待つ間、俺は渡された書類を書き込んだ。受付に渡して暫く待つと、俺を呼ぶ声があった。
指定された病室に転がり込むように入ると、ベッドの上で目を開けた母ちゃんが横になっていた。
「ぁ、雄大。ごめんね。私が助けに行ったはずなのに、心配かけちゃった」
「検査しましたが特に異常は見つかりませんでした。念の為、暫く入院して貰いますが。心配は要りませんよ」
白衣を着た初老の医師は、俺の顔を見て力強く頷いた。
それから、日常は少しだけ形を変えた。
謙吾と話すことは無くなり、クラスメイトはおろか不良仲間ともつるまなくなった。学校が終われば病院に直行して、母ちゃんの様子を見て一人で家に帰る。
そんな毎日を一か月ほど繰り返した。
しかし、その日常でさえ、ある日の昼下がり。歴史の授業中に崩れ去った。
「本間! ちょっと来なさい!」
そう言って教室の扉をガラガラと開いたのは、ジャージに身を包んだ松岡だった。俺はその怒鳴り声を聞いて反射的に席を立ち、クラスメイトのヒソヒソ声に見送られるようにして廊下に出る。
「先生、あの、違うんっすよ。俺、悪気があったわけじゃ——、」
ここ一か月は大人しくしてたはずなのに、と思いつつ、そんな言い訳が口をついて出た。
「そんな話じゃない。今、病院から電話があってお母様が危篤だって、俺の車で病院まで送るから着いてきなさい!」
その話を聞いてさえ、俺は内心、母ちゃんが死ぬなんて有り得ないと思った。それでも動揺しているフリくらいはした方がいいかと思って、深刻そうに「はい」とだけ返す。
先生の車の中では特に何の話もせず、俺は高速で流れていく窓の外をぼんやりと眺めた。
病院に駆け込み、受付で先生が手続きを済ませてくれた。お見舞いには毎日来ていたので、母ちゃんの病室はよく知っている。俺は先生に一言断って病室に向かった。
太陽がほとんど直上に昇って、部屋に光が入らず少し薄暗い。個室の病室にはベッドと、側に点滴の支柱、その反対側に一輪挿しで飾られたベッドボードがあった。
俺は丸椅子を引き寄せてベッドの側に座り、母ちゃんの顔を覗き込んだ。
「平気か?」
「……雄大? 学校は、どうした、の?」
母ちゃんは途切れ途切れに喋る。
見た事が無いほどに憔悴した母ちゃんを見て、焦りがゆったりと頭を擡げた。
「母ちゃんがやべーって電話が入って、先生が送ってきてくれた」
「そう。お礼は、ちゃんと、言った?」
「そんなの後で言うよ。……今日はちょっと調子悪いのか?」
俺はそっと母ちゃんの額に右手を添えてみた。義務教育すら終わらせていない俺に、何が分かる訳でもないが、何となく体が動いた。
「そう、ね。思ったより、早く、こうなっちゃったわ。……ごめんね、雄大」
「は?」
心臓が跳ねる。コメカミから垂れた冷や汗が、嫌に生暖かい。
「雄大。あなたに会えて、本当に、よかった」
「何言ってんだよ。ちょっと、調子を崩しただけなんだろ!? 心配いらないって、先生も!」
俺は丸椅子を蹴って立ち上がり、思わず怒鳴った。しかし、母ちゃんは仄かに笑うだけで、黙り込む。
母ちゃんは、一人で家も建てられるし、木だって薙ぎ倒せるし、俺をたった一人で育てた。こんな簡単に死ぬ訳がない!
「……雄大、泣いてるの……?」
「……ッ」
「ごめんね、寂しいよね。ほんとは、雄大が二十歳になるまでは、頑張ろうって、決めてたん、だけど」
俺はどうしても自分が泣いていることを認めたくなくて、涙を拭うことも鼻水を啜ることもしなかった。
「雄大、昔、私が言った事、覚えてる?」
「ああ」
ひっくり返りそうな声で短く返す。
「あなたの、お父さんは、異界にいる。あなたの、家族が……だから、異界に行って。そして、雄大の、お父さんに、会って」
そう言い終えると、母ちゃんは大きく息を吸って、静かに眠った。俺は何も言うことが出来なかった。
ガタッと後ろのドアが開いて、医者の先生が入って来た。何か色々と言っていた気がするけど、何も耳に入らなかった。
昔。魔力と地力を同調させた時のように俺の体はフワフワと世界に揺蕩うみたいな感じがした。
こちらの世界には、母ちゃんの親族にあたる人は誰もいない。だから、数日して母ちゃんの体は役所が弔うと言う話になった。
でも、俺は何の縁もない所に母ちゃんを埋めるのは嫌だった。
まずいとは思いつつ、病院の遺体安置所に忍び込み、母ちゃんの体を風の術で運び出す。
母ちゃんの体を伴って小屋に帰ると、山がざわめいた様な気がした。
俺は母ちゃんを林の開けたところに横たえて、かつて毎晩そうしてくれたように、その額にキスする。
「”洛陽の赤・帰幽の往還を為さしめ・戦地を均せ”」
その詠唱に応じて、巨大な火の玉が母ちゃんの体を包み込んだ。
炎が立ち消えると、後には濃い暗闇と一人分の骨だけが残された。俺は骨を拾い上げ、箱に納める。
母ちゃんの骨を小屋の近くに埋めるか、異界の母ちゃん自身の故郷に埋めるか少し迷った。しかし、条件さえ揃えばあちらとこちらを渡る事は難しくない。どこに埋めるかは異界に渡ってから決めればいい。
俺はリビングにある本棚から一冊の本を取り出した。全て異界の言葉で認められているが、その言葉も魔術を習ってからは毎日のように勉強していたから、難なく読める。
そこに書かれているのは尋龍術についてだ。
尋龍術の一つ。転移術は、基本的には地面を流れる龍脈に沿ってしか移動する事はできない。
ただし、こちらの世界で十五年に一度だけ、あちらとこちらが接近する事があって、正にその日だけ異界規模で転移することが出来る。それを、異界渡り、と呼んだ。
その日は何の偶然か、俺の誕生日でもあった。
俺は七日後、十五歳になる。
そして、それと同時にこの世界を去り、親父に会いにいく。
大切な時にいつも側に居なかった。
俺と母ちゃんを捨てた、糞親父に会って、一発殴ってやらなきゃ、気が済まねえ。
七日で小屋の掃除をして、旅の準備を済ませた。
十五回目の誕生日。毎年、俺を祝ってくれていた人は、もう居ない。
謙吾とは疎遠になって、不良仲間とも話さない、母ちゃんは死んだ。
この日本で生まれ。街に慣れ親しんできたと思っていた。けど、今の俺は孤独だ。たった一人。だから、別れを告げるのにも、何の抵抗も無かった。
「”其は遠き虚無の輝き・恋しくば手を伸ばせ・さすれば道は開かれん”」
俺の体が光に包まれる。小屋の少し開いていた窓から、勢いよく風が吹き込んだ。
純白の闇が視界を一色に染め上げる。
そして、俺はもう一つの世界へと誘われた。




