第8章 何も起きない土曜日
高瀬蓮の特別指導は、四日目に入った。原因は、殴ったから。正確には、一年B組の生徒を一回突き飛ばし、相手がロッカーへぶつかった。相手は軽傷。高瀬は認めている。問題は、その前だった。学校の記録には、前が六つに分かれていた。
雑談上の対立。
教材の貸借トラブル。
術式失敗に関するからかい。
呼称をめぐる口論。
実習班編成への不満。
本人の情緒的不安定。
全部、個別には間違っていない。全部を並べると、別の形になる。高瀬は三か月、同じ生徒たちから後天術師のことを笑われていた。私たちも一度、その笑いに乗った。
「反省文にそれ書けばいいじゃん」
結が言った。榊原先生の机の前。高瀬は椅子に座っている。私たちは、制度改善実習の資料確認名目で同席した。高瀬。
「書いた」
紙を見せる。
《相手を突き飛ばしたことは悪かった。怪我をさせた責任は自分にある。》
そこまで。榊原先生の赤線。
《原因認識が不十分。》
学校側の案。
《自分が後天術師であることへの過敏な意識から、通常の同級生間の冗談を敵意と受け取り、衝動的行為に至った。》
高瀬は、その一文だけ書かない。
「それ書けば終わる」結。
「違うから」
「でも出られる」
「違うこと書いて出るくらいなら、まだここでいい」
榊原先生が言う。
「恩田さん。説得を依頼していません」
「でも長引いてる」
「長引いています」
先生は疲れていた。机の端にコーヒー。冷たい。反省成立率九十九・四%。平均終了時間、悪化。たぶん今日も業務改善書を書く。それでも高瀬を帰さない。
「先生、本当に本人がそう思うまで待つんですか」私。
「思うことまでは測れません」
「じゃあ何」
「自分の行為を、再発防止可能な形で説明できること」
「学校の説明と同じじゃないと駄目?」
榊原先生が止まる。
「通常は、事実認定を共有した上で反省します」
「通常」
好きな言葉ではない。
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律が三か月分の記録を並べた。呼称トラブル七件。教材貸借四件。班変更三件。実習失敗後の笑い十一件。担任指導二件。保健室相談一件。
「全部記録されています」律。
「はい」榊原先生。
「いじめ認定は」
「各件単独では基準未満」
「累積評価」
「制度上、重大案件化後に行います」
「重大案件になる前は」
「個別対応」
律の顔が変わった。彼女の嫌いな顔。記録がないのではない。
記録が細かすぎる。
正確に砕いたせいで、一人の生活が見えなくなっている。私たちの発言もあった。十二時四十一分。
《手習い》使用。
相手の反応。軽微。終了。
「これ」
私が指す。高瀬は見なかった。
「覚えてるよ」
「ごめん」
「今」
「遅い」
「うん」
それ以上、言えなかった。謝罪は、相手が使える時にしか役に立たない。高瀬は今、私を許す作業までしたくない。それでいい。
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四日目の午後、別の違反が追加された。
《聞き取り中の不正確な申告。》
高瀬が「最初に殴られた」と言ったが、映像では相手の肩が先に触れただけだった。榊原先生が紙を増やす。
「追加指導です」
高瀬が笑う。
「一個終わる前に増えるんだ」
「別件です」
「帰れる日は?」
「各指導の反省成立後」
「刑期じゃないから終わりがない」
先生は否定しなかった。
「刑罰ではありません」
だからこそ、終わらない。
✦
順平先輩が夕方、廊下の自動販売機で高瀬の好きな缶コーヒーを買った。
「渡せる?」
榊原先生。
「面会物として記録します」
「記録しないと」
「渡せません」
「じゃあ記録」
高瀬へ渡す。先輩は何も助言しない。帰り、私が訊いた。
「模範解答、本当は知ってる?」
「知ってる」
「教えないの」
「今回は教えたら負ける」
「誰が」
「高瀬が」
「出られないよ」
「うん」
先輩は六年いる。学校から出る方法を、一番知っている。その人が、出ない方を選んだ。私はその夜、恋規の余白へ一文だけ書いた。
《出口があることと、その出口を使えることは同じではない。》
翌朝、榊原先生から連絡。
《高瀬蓮・指導継続。》
それだけ。日数は書いていなかった。
✦
その土曜日は、何も起きなかった。だから覚えている。悪育の土曜日には補講がある。補講がない生徒には自主研修がある。自主研修をしない生徒には《自己管理能力向上支援》がある。つまり休みは、申請しないと発生しない。順平先輩が四人分の《校外自主生活適応》を出していた。
「何する研修?」
私。
「駅前行く」
「目的」
「買い物」
律が申請書を見る。
「社会適応に必要な公共空間利用」
「そう書いた」
「嘘ではありません」
「強い」
電車。土曜の昼。普通の人。普通の制服。怪物が四人。順平先輩は変身抑制のため端に立つ。律は日光を避けて車両中央。結の左足が床の黄色い点字ブロックから少し外れる。私は角を壁へ向ける。誰も命令しない。身体が場所を読む。優先席前。おばあさんが乗ってくる。結が先に席を立ちかける。私は袖を引く。
「本人に聞く」
「座りますか」
おばあさん。
「次で降りるからいいわ」
結は座り直す。
「学習」
「遅い」
律。
「でも確認した」
順平先輩が笑う。駅前。本屋。ゲームセンター。百円ショップ。血液代替飲料の自販機。結は百円ショップで透明ファイルを二十枚買う。律は文房具。私は何も買わない予定だった。順平先輩が雑貨店で、小さな犬のキーホルダーを買った。
「それ何」
「犬」
「狼じゃなく」
「犬」
「何に使う」
「使わない」
三人とも止まる。順平先輩が、使わない物を買った。
「六年いると、必要な物だけ買う癖つくんだよ」
「何で今日は」
「卒業したら、こういうの買うかなって」
未来。また。私は何も言わない。ゲームセンターで環と灯里に会った。二人一緒ではない。環はスポンサー用の短い動画を撮りに来ていた。灯里は面接用の靴を買いに来ていた。
「仕事?」私。
環。
「休日」
「撮ってる」
「休日を撮る仕事」
灯里。
「最悪」
環。
「青区に言われたくない」
灯里はクレーンゲームで蛙のぬいぐるみを取った。一発。
「ララに売る?」
「贈る」
「スポンサー関係?」
「友達」
環がスマホを向ける。灯里。
「撮るなら先に聞いて」
環は一瞬止まり、梓の件を思い出した顔になる。
「撮っていい?」
「蛙だけ」
動画。蛙。灯里の手だけ。誰も死なない。誰も進路を奪わない。ただ五分一緒にいて、灯里は靴を買い、環は再生数を確認して別れた。その程度の知り合いが、あとで人を失うには十分だった。ゲームセンターでプリクラを撮る。結の提案。
「何で」
「証拠」
律が言う。
「何の」
結。
「今日」
撮る。一枚目。私の角がフレームから出る。二枚目。結の左足だけ別の枠。三枚目。順平先輩の耳が出る。四枚目。律が笑う直前。五枚目。全員ひどい。それを選んだ。律は写真を見て、
「保存します」
私が言う。
「私的?」
一拍。
「私的」
結。
「返却義務なし?」
「写真に返却義務はありません」
順平先輩。
「御影、そういうとこ」
帰り。雨。透明傘は二本。私と結。律は黒い日傘兼用。順平先輩は傘を持っていない。
「入る?」
私。
「角刺さる」
「失礼」
結が私の傘を少し傾ける。先輩の肩だけ入る。三人で一本。狭い。律は隣を歩く。駅で、見知らぬ子どもが私たちを見る。
「怪物」
母親が慌てる。
「すみません」
私は何も言わない。順平先輩。
「合ってるし」
子ども。
「かっこいい」
結が笑う。律も。私も。その土曜日、私たちに回収通知は来なかった。申請は通っていた。規程違反もない。誰も泣かなかった。何も解決しなかった。夜、プリクラを寮の机へ貼った。翌週も同じ四人で昼を食べると思った。来月も結の整備へ行くと思った。来年の文化祭も、先輩が制服じゃなくても顔を出すと思った。そういう未来が、もう予定表に書かれていないのに存在した。名前をつける必要はなかった。ただ、土曜日だった。




