第7章 出席している幽霊
順平先輩が遅刻した。六年間で初めてではない。でも今回は三十秒だった。
「三十秒」
先輩は教室前の端末を睨んだ。
《入室時刻 08:40:30 / 遅刻》
「惜しいですね」律。
「慰める気ないだろ」
「事実です」
理由は変身だった。登校中、駅のホームで子どもが転び、先輩が反射的に抱き上げた。疲労と緊張で腕だけ狼化。駅員が確認。本人確認。公共変身事故届。学院へ連絡。その全部をやって三十秒。
「遅刻取消申請は?」私。
「しない」
「なんで」
「一回遅刻ついたくらいで死なない」
「認定延期には?」
「影響ある」
「じゃあ」
「申請すると駅の子の個人情報添付が必要になる」
律が顔を上げた。
「匿名化できませんか」
「事故の第三者証明が必要」
「駅員証明だけでは」
「校則上は本人確認まで要求」
私は規程を見る。本当だ。
「変えればいいのに」
「毎回そう思う」
先輩は自分の席に座った。そこで終わりにする顔だった。昼、私たちは学生課へ行った。先輩には言っていない。結が駅の事故証明の様式を調べた。律が個人情報取扱規程を調べた。「第三者証明」の定義を調べた。本人氏名が必要とは書いていない。これなら、救助された子どもの名前を出さずに済む。
《事故発生を客観的に確認できる第三者による証明》。
「駅員で足りる」
律が頷く。
「遅刻取消要領の添付例だけが『救助対象者氏名』を要求しています。例示です」
結がもう駅へ電話していた。
「証明出せるって」
「早い」
「先に聞いた」
放課後、順平先輩へ書類を渡した。先輩は見た。私たちを見た。
「頼んでない」
結が言った。
「知ってる」
「これ、恩田式だろ」
「感染した」私。
律が訂正する。
「学習です」
先輩は笑わなかった。書類を机に置く。
「俺が出さなかった理由、聞いた?」
「個人情報」
「それだけじゃない」
私たちは黙った。
「俺が全部こういうの拾うと、みんな『倉橋に聞けばいい』になる」
「もうなってる」私。
「だから困ってる」
初めて聞いた。六年いるから全部知っている。全部知っているから頼られる。頼られるから、また学校に必要になる。卒業したら困る人が増える。必要とされることが、先輩の在籍を延ばしていた。
「じゃあこれは?」結が書類を指した。
「出す」
「いいの」
「俺じゃなく、お前らが作ったから」
先輩は申請した。遅刻は取り消された。その夜、順平先輩からグループメッセージ。
《駅員証明だけでいけた。様式保存しとけ。次から俺に聞かなくていい。》
律がファイル化。結が共有フォルダを作る。私は恋規に書いた。
《先輩は知識を渡すと、少し先輩でなくなる。》
消そうとして、やめた。遅刻取消が通った後、順平先輩は自分の共有フォルダを作り直した。
《倉橋に聞く前に見る》
名前がひどい。中身はもっとひどい。学生課窓口時間。保健室の担当表。申請の差し戻し理由上位二十。雨の日に動かないコピー機。文化祭で毎年忘れられる三つの届出。食堂のアレルギー表示が更新される曜日。誰かが十年かけて書くべき運用マニュアルを、先輩は六年で勝手に作っていた。
「これ全部、自分で?」律。
「半分くらい。先輩からもらったのもある」
「先輩の先輩?」
「もう卒業した」
「じゃあ先輩も受け継いだんだ」私。
順平先輩は考えた。
「そうだな」
彼を起点ではなく途中として見た。先輩は何でも知っているから特別なのではない。誰かから受け取り、更新して、渡す途中にいる。
「だったら卒業しても平気じゃない?」
言ってから、先輩の顔を見る。
「理屈では」
「何が残る」結。
「俺がいないってこと」
珍しく、答えが制度ではなかった。その日、先輩は私たちに共有フォルダの編集権限を渡した。律がファイル名を統一する。結が《誰に聞けばいい》欄を追加する。私は《何の管轄か》タグを付ける。順平先輩が文句を言う。
「見づらくなった」
「良くなった」三人同時。
「多数決嫌い」
「校則にはない」私。
先輩は負けた。それから後輩が直接フォルダを見るようになった。廊下で「倉橋先輩」と呼び止める声が、少しずつ減る。先輩は楽になったはずだった。でも呼ばれない瞬間、時々振り向く。その矛盾を私は覚えていた。
廊下で後天術師の発音を真似する冗談が出た。何人か笑った。私は笑わなかった。でも止めなかった。
隣の子は笑いながら机の下で拳を握っていた。私は、その拳を見た。
✦
影浦澄は、毎日学校に来ていた。そして四十三日連続で欠席していた。
「どういう意味?」
「そのままです」
澄は私の隣に座っていた。青白い。制服は着ている。上履きも履いている。机もある。先生とも話す。ただ出席端末だけが彼女を読まない。
「顔認証?」
「通らない」
「IC学生証」
「触れない」
「手書き」
「担任が毎朝書いてる。でも中央システムが『客観的出席記録なし』で戻す」
律が資料を確認する。
「四十三日欠席だと進級要件に」
「だから困ってる」
澄は怒っていた。泣いてはいない。その方が困る。
「今まで誰も?」
「みんな助けてくれたよ」
「じゃあ」
「助けてくれた記録だけ増えた」
机の上にファイルを置く。厚い。
《幽体生徒出席確認に関する特別対応》
《担任所見》
《同級生証言》
《保健室確認》
《存在登録室確認》
全部、澄が学校にいることを証明している。でも出席記録ではない。
「違う部署が全部、存在は認めてる」私。
「出席課だけ認めない」律。
結が訊いた。
「出席って何」
澄が笑った。
「私もそれ聞いた。三回」
答えは《所定の時間に所定の場所で教育活動に参加していること》。澄を見る。
「参加してる」
「うん」
「所定の場所?」
「この机」
「時間?」
「遅刻したことない」
順平先輩がファイルを読む。
「問題、記録方法だけだな」
「でも中央は機械記録がないと」律。
私は机を叩いた。
「じゃあ澄じゃなくて、机を記録する」
三人が私を見る。澄も。
「何」
「澄の机は毎日ここにある。授業中、教材受信もしてる。机の使用ログを出席の補助記録にする」
律の目が変わった。
「本人性との接続が必要です」
結。
「証人二人」
順平先輩。
「教室委員の当番表もある。毎朝机の状態チェックする」
澄が口を開く。
「私、机になるの?」
「違う」
私はすぐ言った。
「机をあなたの代わりにするんじゃない。あなたがそこを使った記録を、出席の証拠にする」
澄はしばらく私を見た。
「その違い、大事?」
「大事」
「じゃあやる」
翌日。机使用ログ。担任確認。同級生二名の当番署名。律が作った証拠一覧。結が申請順を整えた。順平先輩が、処理してくれそうな窓口時間を教えた。私が《出席確認手段》を《本人検知》から《教育活動参加の客観的記録》へ切り替える申立てを書く。印南さんは一時間読んだ。
「前例がありません」
「禁止ですか」
「前例がないと言いました」
「じゃあ?」
「上に回します」
「いつ」
「速やかに」
「日付で」
印南さんが私を見る。
「境野さんは行政用語への敬意が不足しています」
「期限への敬意があります」
三日後。澄の出席簿に初めて丸がついた。本人はその丸を五分見た。
「丸だ」
「丸だね」
「普通だ」
「うん」
澄は笑った。その笑いのためなら、やった価値はあったと思った。その時は。澄が私たちへ相談したのは、実は最初ではなかった。ファイルの最後に、相談履歴があった。生徒会。保健室。担任。教頭。存在登録室。外部の幽体生活相談窓口。全員が親切だった。全員が「担当部署へ確認します」と言った。その結果が四十三日欠席。
「誰も悪くない」澄が言った。
それが一番怖かった。担任は毎朝、澄に声をかける。クラスメイトもいる。机も用意されている。でも中央システムだけが欠席を増やす。人間関係と制度記録が別々に正しく進み、澄だけがその間から落ちている。
「怒らなかったの?」
「最初は」
「今は?」
「疲れた」
結が澄のファイルを閉じる。
「怒るのもコストかかる」
澄が頷く。
「そう」
私はその言葉が嫌だった。怒りまで資源みたいだったから。机ログ案を出した後、私は澄と教室に残った。彼女は自分の机を触れない。手が少し沈む。
「自分の机なのに」
「うん」
「嫌?」
「最初は。でも机があるから、みんな私の席だってわかる」
物が本人の代わりになるのは嫌だと思った。でも澄にとって机は、本人を消す物ではなく、本人が消えないための痕跡だった。
「さっき、机をあなたの代わりにしないって言ったけど」
「うん」
「ちょっと違うかも」
澄が笑う。
「境野先輩、訂正するんだ」
「するよ」
「校則みたい」
「やめて」
二人で笑った。私はこの時、制度が人を間違って分類することばかり見ていた。澄は、物や人や習慣が本人を支える分類もあると教えた。
✦
澄と昼を食べた。出席問題を解く前に、問題ではない澄を知る必要がある、と結が言ったからだ。本人には言わなかった。澄はプリンを食べる。スプーンが持てないので、ストローで吸う。
「それ、プリンの食べ方?」
「飲料」
「食品衛生上?」律。
「私の中で」
順平先輩がジャケットを探る。
「幽体用の」
澄。
「何も出さないで」
先輩の手が止まった。
「なんで」
「今日は普通に昼食べたい」
先輩は手を抜いた。結が私を見る。私は見返す。誰も助けなかった。澄は嬉しそうだった。その後で、好きな授業を聞いた。古典。嫌いな授業。体育。理由。
「ボールが私を通る」
「有利では?」
「点にならない」
笑った。澄も笑う。四十三日欠席の生徒が、文化祭の写真では全部写っている。清掃当番もやっている。友達の誕生日にもいる。出席システムの中だけ、いない。その差が、やっと腹立たしくなった。制度の誤りだからではない。プリンをストローで飲む澄を、制度だけが知らないから。
「私、休んでたことになるんだね」澄が言った。
「来てた」
「でも進級判定では休んでた」
同じ一日が、本人の生活では出席で、制度の中では欠席になる。次の扉を開けるのは後者だった。
✦
澄の出席が一日通っただけでは、四十三日は戻らない。学校は過去に厳しい。未来には柔軟なくせに。
「遡及修正には追加資料が必要です」印南さん。
「四十三日分?」
「原則として」
「原則じゃない場合は」
「例外です」
「その例外を聞いてます」
印南さんは疲れた顔をした。少し仲良くなった気がした。私たちは澄に方法を教えた。最初は私。
「言葉を見る。『欠席』って書いてあっても、何を欠いてるのか分ける」
「授業?」
「参加してる」
「記録?」
「ない」
「じゃあ私は欠席じゃなくて、未記録?」
「そう」
澄は自分で申立書の表題を変えた。
《欠席訂正願》から《出席記録未生成に関する補完申請》。
次に律。
「証拠は多ければいいわけではありません」
「そうなの?」
「矛盾する弱い証拠を百枚出すより、争点に直結する三枚です」
担任の日誌。授業提出物。教室委員の清掃当番表。
「私、毎日黒板消してた」澄。
「それです」
次に結。
「証人は頼んでから作ると遅い」
「どうするの」
「普段から一緒にいる」
「友達になるってこと?」
「結果的に」
「怖い言い方」
「よく言われる」
澄は昼食を教室で一人で食べることが多かった。翌日から結が食堂へ連れてきた。
「証人作り?」私。
「昼」
その言葉を私は知っていた。最後に順平先輩。
「一人に頼るな」
「先生?」
「誰でも。担任が休んだら終わる仕組みは弱い」
「じゃあ?」
「三つ作る。先生、同級生、物の記録」
「物」
「机。提出物。図書貸出。購買。人が忘れても残る」
澄は全部メモした。少し時間がかかった。四十三日分のうち、三十八日が出席へ訂正された。残り五日は証拠不足。
「悔しい?」私。
澄は出席簿を見た。
「うん。でも三十八ある」
「進級は?」
「できる」
「よかった」
「うん」
澄は私たち四人に頭を下げた。深すぎる。結が止める。
「それ、返礼重い」
「じゃあどうすれば」
「次、誰か困ってたらやれば」
私は結を見る。結は何でもない顔をしていた。その言葉を私は覚えた。後で、別の意味になる。三十八日の訂正が通った夜、澄は私たちを寮の共有室へ呼んだ。小さなケーキが一つ。幽霊は食べられない。
「何でケーキ」
「みんな食べるから」
「澄は?」
「見てる」
結が嫌な顔をした。
「それ、お礼として効率悪い」
「だからいいの」
結が止まる。澄は笑った。
「恩田先輩、全部返せる形にしようとするでしょ」
「返さないと残る」
「残っていいものもあるって、境野先輩が言ってた」
言っていない。たぶん傘の話を澄が勝手にそう読んだ。
「私じゃない」
「じゃあ今言ったことにする」
「遡及しないで」
律が小さく笑う。順平先輩がケーキを四等分した。
「五等分じゃなくて?」私。
「澄食えないだろ」
澄が手を伸ばし、フォークが透ける。
「匂いはわかる」
結が自分の皿を澄の前へ少し寄せた。意味はない。でも澄が嬉しそうにした。その夜は制度の話をしなかった。澄の昔の学校の話。透け始めた日の話。律が小さいころ血を見るのが嫌いだった話。順平先輩が一年目に校舎裏で迷子になり、三年生に拾われた話。
「先輩でも迷うんだ」
「昔は」
「今は?」
「迷う前に人に聞く」
私たちは笑った。翌日から澄は、昼食を私たちと食べる日が増えた。証人を作るため、ではない。少なくとも本人はそう言った。結は何も訂正しなかった。
✦
四つの方法を教えたあと、澄は一つもそのまま使わなかった。
「え」
私は彼女の申請書を見る。表題は私の案。証拠は律の三本。提出時刻は順平先輩の窓口情報。でも結の費用表がない。代わりに、一行。
《本申請の差戻しが生じた場合、担任による手書き記録の継続を求める。》
「これ誰」
「私」
「なんで」
「全部失敗したときの道も欲しかった」
結が目を細める。
「いいね」
律。
「冗長です」
「でも必要」澄。
律は申請書を読む。
「……必要性は理解できます」
澄が笑う。私たちは、澄に方法を教えたつもりだった。澄は五つ目を作った。失敗した時に、元へ戻れるようにする。その発想は、その後ずっと残った。
✦
残り十七日。学校は私たちの制度改善より、私の黒い脈を長く観察していた。直接演算は五十四パーセント。数日後。
《幽体学生出席補助制度》が施行された。
澄の名前はどこにもない。でも内容は澄だった。机使用ログ。複数証人。提出物照合。補完申請。私たちが手探りで作ったものが、九ページの要領になっていた。
「早いですね」律。
「仕事できる学校」結。
私は制度を読んだ。
「悪化してる」
澄が横から見る。
「どこ?」
「証人二人、毎日必要になってる」
私たちの方法では、証人は証拠の一つだった。制度では必須。机ログも必須。提出物も必須。三つのうち一つでも欠けると補助記録不成立。
「私の時より厳しい」澄。
律は比較表を作り始めた。結はもう苦情申請の画面を開いている。順平先輩が言った。
「待て」
三人止まる。
「まず誰が使うか見よう」
「問題あるのに?」私。
「ある。でも今直すと、使う前に俺らの想像で直すことになる」
律がペンを止めた。
「データを待つ」
「そう」
数日で利用者は七人。四人は問題なく通った。二人は証人不足。一人は机が授業ごとに変わる移動教室型の幽霊で、机ログが成立しなかった。私たちは改善案を書いた。証拠の選択制。証人は毎日ではなく一定期間の継続確認。物理机を持たない生徒への代替ログ。提出前、澄が言った。
「これ、また学院が採用したら?」
「するでしょ」結。
「また変になるかも」
律が答えた。
「その場合、また修正します」
澄が笑った。
「終わらないね」
順平先輩が言った。
「制度はだいたいそう」
私はその言葉を恋規に書いた。
《終わらない。》
その下に、誰か別の筆跡で昔書かれた一行があった。
《だから、次の人が余白を使う。》
初めて、その本を書いた人たちが少し近く感じた。改善案を出したあと、白石先生は私たちに一つ質問した。
「制度化しない方がよかったと思いますか」
誰もすぐ答えなかった。澄が最初。
「私は、あった方がいい」
「使いにくくても?」
「私のときは制度そのものがなかったから」
律。
「制度があることで、少なくとも判断基準が公開されます」
結。
「でも公開されると、その通りにしかやらなくなる」
順平先輩。
「人による」
先生は私を見る。
「境野さんは?」
私は考えた。
「嫌です」
「何が」
「私たちが作ったものを、私たちより下手に使われるのが」
言ってから、全員の視線が来た。
「何」
白石先生は珍しく、笑った。
「重要な感情ですね」
「教育っぽく言わないで」
「では、所有欲ですね」
もっと嫌だった。でも正しい。自分たちの方法を学校が採用するのは誇らしい。採用して変になると腹が立つ。だから私たちは改善案を書く。書けばまた学校の制度になる。この循環を、先生は止めようとしない。むしろ提出期限を教えてくれる。
「改善案は金曜までです」
「採用する気?」
「審査します」
「採用されたらまた直すことになる」
「学習が継続しますね」
私はその時、白石先生を完全に嫌いになった。尊敬も少し混ざっていたので、さらに嫌だった。
✦
別紙三
成功例
判田巡は《幽体学生出席補助制度》の施行通知へ決裁印を押した。九ページ。証人二名。机ログ。提出物照合。補完申請。
「これ、境野たちの方法ですよね」
若い職員が言う。
「元は」
「じゃあ、成功例」
判田は九ページを見た。澄の時は、必要な証拠をその場で組み合わせた。制度は、必要だったものを全部必須にした。人間は、成功した手順を見ると守りたくなる。守るために固定する。固定すると、前提が違う相手を食べ始める。判田は附則案へ赤鉛筆で書いた。
《代替手段を認める。》
法務から戻ってきた。
《代替手段の要件が不明確。削除。》
彼はもう一度書いた。
《個別事情により、相当と認める場合はこの限りでない。》
戻る。
《判断主体不明。》
三回目、判田は何も書かなかった。押印した。施行された。




