第6章 間違えてもいい歌
御影律は、私を「境野さん」と呼ぶ。入学以来、一度も例外がない。私も「御影さん」。結は「綴」と「律」。順平先輩は全員苗字。呼び方には、学校の規程以上に細かい境界がある。問題は、それが規程集に載っていないことだった。木曜日の実習で、私たちは接客ロールプレイをやった。人間社会で怪異が苦情を受けた場合の対応。私の役は、コンビニで角が商品棚に当たって菓子を落とした客。律は店員。
「申し訳ございませんが、店内では周囲のお客様にご配慮いただき」
「配慮しました。角がしました」
「角を身体から分離して扱うのはやめてください」
「今、身体って認めました?」
律が止まる。
「境野さん」
「はい」
「これは接客演習です」
「店員が客の身体分類を確定したので重要です」
「重要じゃない、今は!」
教室が静かになった。律も静かになった。私も。今。
「さん」がなかった。
御影律が私に普通体を使った。たった一文。律はすぐ姿勢を戻した。
「……失礼しました」
「何が?」
私は訊いた。律の目が細くなる。
「演習を続けます」
続けた。誰も触れなかった。昼休み、結が私の向かいでニヤニヤしていた。
「何」
「何も」
「言えば」
「規約がないから」
「作らないよ」
「まだね」
恋規を開く。
《呼称の変更は、告白より先に関係を変更することがある。本人たちはだいたい後から気づく。》
私はページを閉じた。
「役に立たない」
「顔赤いよ」結。
「鬼だから」
「便利」
律が食堂へ来た。
「境野さん、午後の資料です」
「ありがとうございます、御影さん」
互いに丁寧。丁寧すぎた。順平先輩が遅れて座る。三秒で空気を読んだ。
「俺、別の席行く?」
「行かないでください」私と律が同時に言った。
先輩は座った。結は笑った。その日の恋規に一行だけ書いた。
《一回。》
何が一回なのかは書かなかった。呼び方の事故は、律の家でも起きた。課題資料を受け取りに行ったとき、玄関で律の母親に会った。
「まあ、綴ちゃん?」
私は止まる。律も止まる。母親は笑顔。
「律から聞いてるわ」
「お母様」律の声が一段低くなる。
「何」
「その呼称は」
「綴ちゃんでしょ?」
「境野さんです」
「学校ではね」
私は靴を脱ぎながら、消えたくなった。人間の家なら玄関で靴を脱ぐ。吸血鬼の家でも同じだった。ただし玄関マットに《招待成立済》の魔法陣がある。
「上がって、綴ちゃん」
「はい」
律の視線が刺さる。
「何」
「何でもありません、境野さん」
過剰に丁寧。理解した。これは怒っている。
「御影さん、お母さんに私のこと何て話したの」
「必要な範囲です」
母親が台所から言う。
「毎日名前出るくらい」
律が完全に静止した。勝った気がした。何にかはわからない。帰り道、律が言った。
「今日の件は忘れてください」
「記録しない?」
「しないでください」
「理由は?」
律は私を睨んだ。
「嫌だから」
初めて、律が証拠のない理由を出した。頷いた。
「了解」
その返事の後、律は少し歩幅を緩めた。駅まで並んで歩いた。その日から私は、律の「嫌」を証明させないことにした。
✦
その夜、律の端末が机の上で鳴った。画面に《母》。
「出ないの?」
「出ます」
律は廊下へ出ようとした。結が言う。
「ここでいいじゃん」
「私的通話です」
「私たち、私的じゃない?」
律の動きが止まった。
「分類を急がないでください」
「了解」
結が嬉しそうだった。律は結局、窓際で通話した。声は小さい。でも吸血鬼は耳がいい。私たちは普通なので、聞こえたのは断片だけだった。
「はい」
「違います」
「境野さんは……」
私の名前。顔を上げた。律はこちらを見ない。
「研究対象という表現は、家庭内説明として簡略化しているだけです」
結が肩を震わせる。順平先輩は口元を隠すために飲み物を飲んだ。通話が終わる。
「何」
律が言った。
「何も」
私。
「家庭内説明」
「聞いていましたね」
「公共の教室」
「放課後です」
「公共の放課後」
律が息を吐く。
「母が、あなたの角の写真を見たいと言っています」
「何で」
「……話したので」
「研究対象を?」
「境野さん」
また、さんが戻っていた。戻っていることの方が、少し面白かった。
✦
文化祭で呪物喫茶をやる、とクラスが決めた。多数決だった。反対した。理由は呪いではない。申請が多そうだから。正しかった。食品営業届。火気使用届。危険物持込申請。異界接続仮設許可。生体由来素材展示届。未成年吸血種向け代替飲料申請。校内通貨決済登録。呪物による人格変容が発生した場合の責任者選任届。
「最後の何」
結が聞く。
「過去にあったんでしょ」順平先輩。
律が調べる。
「三年前、二年B組の担任が文化祭終了後も十四日間『王』を名乗っています」
「楽しそう」結。
「離婚しています」
「それは呪物のせい?」
「資料上は因果関係不明」
私は机に額をつけた。クラス委員が泣きそうな顔で言った。
「境野さんたち、こういうの得意だよね」
嫌な言い方だった。
「得意じゃない」
「この前、避難経路一位だったし」
「一位は律の資料」
「分類は境野さん」
「申請は恩田さん」
「倉橋先輩は?」
「存在が裏口」
順平先輩が遠くから言った。
「聞こえてるぞ」
結が書類を並べた。
「やる?」
文化祭企画書を見た。クラス全員がこちらを見ている。断れる。でも断った後、別の誰かがこの書類をやる。その誰かは、私たちほど速くない。気づいた。これが圧力だ。命令ではない。得意だから頼まれる。できるから断りにくい。順平先輩が六年いる理由の一部が、少しわかった。
「条件」
私が言う。
「何でも!」委員。
「何でもって言わないで。危ないから」
律が頷いた。
「作業分担を記録します」
結が言った。
「必要な差し入れ一覧出す」
順平先輩。
「学生課は今日十六時まで。行くなら今」
始まった。二日後、申請は全部通った。一番難しかったのは異界接続ではなく、食品営業だった。
「呪われた紅茶は飲料です」私。
「効能があります」保健担当。
「呪いは効能ではありません」
「飲んだ人の過去の恋愛を一件思い出させます」
「心理作用です」
「効能では」
律が横から言った。
「表示上、『効果を保証しない演出』とします」
担当者が考える。結が試作品のラベルを出す。
《本品による過去恋愛の想起は演出であり、事実性・完全性・幸福な結末を保証しません。》
順平先輩が保健担当にコーヒーを渡す。
「砂糖なしでしたよね」
私は三人を見る。怖い。頼もしい。同じ意味になりつつあった。文化祭当日、呪物喫茶は黒字だった。事故は二件。軽微。王は出なかった。クラス委員が売上表を見て泣いた。
「ありがとう」
私は言った。
「来年はやらない」
結が言った。
「来年用の申請テンプレ、もう作った」
律が言った。
「改善点が十四件あります」
順平先輩が言った。
「来年、俺いないかも」
三人とも彼を見た。先輩は笑った。
「かも、だから」
私はなぜか、その「かも」が文化祭で一番嫌だった。夜、灰区寮へ戻ると、結が文化祭の自分の取り分から千円だけ抜いた。灰色の封筒。
今月掛け。
「文化祭の利益、もう使うの?」
「私の分だから」
「何になる」
掲示板に手書き。
今月:二年C組・面接靴。三年A組・治療薬不足分。乾燥機修理は来月へ繰越。
数日後、私は廊下で新品の黒い靴を履いた二年生を見た。誰も拍手しない。本人も礼を言いに来ない。代わりに、その人が夜の食堂で一年生の願書を直していた。
「返してる?」私。
結。
「たぶん」
「誰に」
「別の人に」
講はそういうものらしかった。貸した相手から返してもらう必要がない。誰かが次へ回せば、残る。青区の設備より、ずっと壊れやすそうだった。でも壊れた乾燥機よりは長く動いていた。文化祭の成功で、私たちは妙な有名人になった。ほどなく、他クラスから申請相談が来る。
「何を」
順平先輩が横から言った。「できるって思われると、断る方に説明がいるようになる」
文化祭の後片づけでは、クラス全員が私たちへ礼を言った。誰かが「来年もお願い」と言う。結はすぐ「いいよ」と答えかけた。私が袖を引く。
「来年の私たちに聞いて」
結が口を閉じる。
律はそのやり取りを見ていた。
「境野さん、今の分類は良いですね」
「来年の私たち?」
「現在の私たちに未来の義務を発生させない」
順平先輩が笑う。
「お前ら、文化祭で何学んでんだよ」
律が振り向く。私たちは笑った。律だけ、笑わなかった。三秒後に笑った。その三秒を、誰も記録しなかった。
✦
閉会後、青区から来た三枝灯里と北村環が、呪物喫茶の片づけを手伝った。灯里は配信を切っていた。
「撮らないの?」結。
「片づけまで撮ると『いい子アピール』って言われる」
「撮らない方がいい子に見える?」
「それも言われる」
「詰んでる」
「人気ってそういうもの」
北村が段ボールを潰す。
「じゃあ私に補助半分よこして」
「映る?」
「片づけだけ」
「地味」
「灰区は地味で金が欲しい」
灯里が笑い、スマホを一度だけ北村へ向けた。
「三十秒」
「長い」
「十五」
「十」
結が横で言った。
「交渉成立」
翌日、北村の補助率が一ポイント上がった。灯里は自分のことみたいに喜んだ。北村は「一ポイント」と言いながら、画面を三回見た。
✦
灯里は二行目で音を外した。
律の指が机の上を動いた。ペンはない。私が借りたままだった。
「書かないで」
「書いていません」
「頭の中」
「そちらは申告対象外です」
灯里が笑って、もう一度始めた。今度は三行目まで行った。
文化祭の飾りを外した小講堂は、椅子が半分しか残っていない。私は結と予算表を取りに来ただけだった。灯里の歌を聴く予定はなかった。律にも、聴く予定があったのか分からない。
「次の許可公演、主演取りたいんだ」
灯里は舞台の端に座った。
「スポンサー枠では?」と律。
「取れる。でも、あれは私の枠じゃなくて契約者の枠。台詞まで売ってる」
「応募条件は同じですか」
「同じじゃない。だから練習する」
灯里は広告の裏を折って、小さな三角を作った。客席の椅子に置く。
《御影様》
「敬称が過剰です」
「高い席だから」
「いくらですか」
「ノートを開かないこと」
律は鞄の口を閉じた。
私は予算表を見つけ、出ようとした。結が入口で待っていた。
「聞いてく?」
「仕事終わった」
「仕事じゃない方を聞いた」
私は戻った。結は隣へ座った。舞台の灯里が、三行目の前で一度息を吸った。今度はそこを越えた。律が顔を上げた。
✦
文化祭の数日後、雨が降った。事件はなかった。誰も消えなかった。規程も増えなかった。そういう日の方が、後で思い出す。放課後、昇降口で立ち止まった。傘がない。朝は晴れていた。天気予報も見ていない。
「綴」
結が一本差し出した。透明なビニール傘。持ち手に小さく私の名前。
「何で」
「予備」
「私の名前あるけど」
「間違えないように」
「誰と」
「未来の綴」
意味がわからない。
「貸与?」
「どっちでも」
「返す?」
「返してもいい」
「返さなくても?」
「いい」
「それ、一番高いやつ」
結は肩をすくめた。外へ出る。律は黒い傘。順平先輩は傘がない。
「先輩?」
「駅まで走る」
「狼だから?」
「傘買う金ないから」
結がもう一本出した。
「あるよ」
順平先輩が止まる。
「なんで二本」
「予備」
「誰の」
「未来の先輩」
「未来の俺、恩田に借り作りすぎじゃない?」
「現在も」
四人で駅まで歩いた。傘がぶつからないよう自然に横幅が変わる。律が私の角を避ける。結の左足が水たまりを踏む。本人は踏んでいない。順平先輩が笑う。駅前のコンビニで肉まんを買った。誰が払うかで結と揉めた。
「今日は私」
「何で」
「傘の利息」
「利息取ってない」
「だから怖い」
律が間に入る。
「四等分にしましょう」
順平先輩。
「一円単位出るぞ」
「記録します」
「それが怖い」私。
結局、順平先輩がまとめて払い、私たちは送金した。電車では四人とも声を落とした。律はドア横に立つ。結は足の位置がずれるので、人の少ない車端。順平先輩は席が空いても座らない。角を窓側に向ける。誰も相談していない。三週間も一緒にいたわけじゃない。でも配置ができていた。途中駅で律が降りる。
「では、また明日」
「また明日」
私が言う。扉が閉まる直前、律が私を見る。
「傘、忘れないで」
普通体だった。扉が閉まった。結が横で何も言わない。私は窓に映る自分を見る。角。濡れた髪。透明傘。恋規は鞄の中。その日は開かなかった。分類しなくても、明日また会うことだけはわかっていた。
✦
数日後、私は傘を返そうとした。結が受け取らなかった。
「乾いてる」
「見れば分かる」
「返却」
「受領根拠ない」
「傘に私の名前書いたの結でしょ」
「所有権表示とは言ってない」
「じゃあ何」
「迷子防止」
「傘が?」
「綴が」
律が隣で弁当を開けた。
「贈与であれば、受贈者の承諾が必要です」
「貸与なら?」
「返還条件が特定されていません」
順平先輩がパンを食べながら言った。
「共有物でいいじゃん」
三人で見る。
「何」
「急に普通の答え」私。
「六年いると、普通がたまに出る」
結は傘を私の机の横へ戻した。
「共同管理」
「誰と」
「寮室」
「礼も?」
礼が鳴った。
「賛成だって」
「死人に所有権ある?」
律の箸が止まった。
「その論点は」
「やめて」結。
「まだ何も」
「絶対増える」
傘は共同管理になった。次の雨の日、使ったのは結だった。私より先に起き、私より先に外へ出たから。持ち手には私の名前。結はそのまま使った。昼、校内で会った時、私は言った。
「それ、私の名前」
「共同管理」
「名前だけ私」
「じゃあ半分消す?」
「やめて」
結が少し笑った。私も。傘は、誰のものか決めないまま、誰が濡れるかで動く物になった。そういう物が一つあると、寮室は少し家に近くなる。
✦
夜、律からメッセージ。
《明日の提出、七時四十分に図書室で確認できますか。》
丁寧体。私は返信する。
《できる。》
送ってから、普通体だったことに気づく。消せない。既読。一分。律から。
《ありがとう。》
普通体。私はスマホを伏せた。結が向かいのベッドから言う。
「何」
「何も」
「顔」
「鬼」
「便利」
✦
残り二十日。恋規は、私が書いていない余白を少しずつ増やしていた。直接演算は四十八パーセント。食堂の席取りは禁止されている。
《私物等を用いた長時間の座席占有は、他の利用者の公平な利用を妨げるため禁止します。》
順平先輩は席を取らない。なのに、私たちが昼休みに食堂へ行くと、いつも四人分空いている。
「先輩」
「何」
「これ、席取りじゃないんですか」
「誰も物置いてないだろ」
「でも空いてる」
「運がいいな」
結が隣のテーブルを見る。二年生が四人、詰めて座っている。
「何かした?」
「してない」
律が周囲を見る。
「昨日、先輩が昼休みの混雑について食堂委員に話していましたね」
「話した」
「今日は通路側の机配置が変わっています」
「変わってるね」
「この席だけ、四人席として残っています」
「そうだね」
「結果として私たちが座っています」
「偶然」
律はしばらく先輩を見た。
「記録しません」
順平先輩が一瞬だけ止まった。
「珍しい」
「記録すると、次回から意図的配置として扱われる可能性があります」
私は律を見る。
「見逃すんだ」
「不記録も情報管理です」
結が弁当箱を開ける。私の方に卵焼きを一つ置いた。
「何」
「余った」
「最初から五個入ってた」
「余る予定だった」
「返礼?」
「昼」
「分類になってない」
律が箸を止めた。
「境野さん」
「何」
「全部分類する必要はないのでは」
「御影さんに言われたくない」
「私は分類ではなく記録です」
順平先輩が笑う。
「二人とも同じ病気だよ」
「先輩は?」結。
「俺は治療放棄」
昼休みが終わるまで、学校の話をしなかった。文化祭の残り菓子。結が昨日見たドラマ。律の家の猫が吸血鬼を怖がらないこと。順平先輩が六年間で三回だけ告白され、全部「卒業してから」と答えたせいで今も三件保留中であること。
「それ、最低」
「だから卒業したいんだよ」
「理由そこ?」
ベルが鳴った。食器を戻す。順平先輩が最後に立ち、机を元の位置へ三センチ動かした。朝の清掃で付いた床の印に揃える。誰も頼んでいない。それが、たぶん一番順平先輩らしかった。その週から、四人席には小さな習慣が増えた。月曜は結が弁当を多めに作る。火曜は律が資料を持ち込まない。水曜は順平先輩が購買の新商品を一つだけ買う。木曜は私が恋規の変な例文を読む。金曜は何もしない。決めたわけではない。一度そうなって、次の火曜もそうなった。その火曜、律が資料を出そうとして止めた。
「火曜」
結が言う。律は無言でノートを鞄へ戻した。
「それ校則?」私。
「違います」
「じゃあ何」
「……慣例です」
順平先輩が笑う。
「慣例は校則より強いぞ」
「先輩が言うと怖い」
食堂の窓から、校庭で一年生が清掃しているのが見えた。一人が箒を忘れ、隣の子が何も言わず半分貸す。先生は見ていない。でも作業は進む。結がそこを見ていた。
「学校って、ああいうの好きそう」
「助け合い?」
「先生いなくても回るやつ」
律が箸を止める。
「教育の目的としては妥当です」
「私たちも?」
誰も答えなかった。その後、順平先輩が購買へ行く。ついていった。
「そうだった」
私たちは笑った。この時期、私は学校で一番楽だった。角の規程はまだ嫌い。課題は多い。結の契約は危ない。律は怖い。先輩は卒業しない。でも昼になれば席がある。誰かが来なければ、残り三人が理由を知っている。それだけで未来が一週間単位に伸びた。来週も火曜がある。来週も律はノートを出さない。来週も結は卵焼きを一個余らせる。
その週の木曜、寮の共有室で勉強した。試験対策ではない。普通の小テスト。歴史。社会法規。人間社会基礎。悪育にも、世界を滅ぼさない科目はある。結は床。左足だけ机の下。律は正面。教科書へ付箋を貼りすぎて、横から見ると魚の鰓みたいになっている。順平先輩はソファ。六年生なので全部知っている。
「じゃあ先輩、教えて」
「嫌」
「知ってるんでしょ」
「知ってるのと教えられるの別」
律。
「正しいです」
「味方いた」
私は《一般社会における暗黙的生活慣行》の頁を開く。
列車内では通話を控える。
列に並ぶ。
共同空間では他者の利用を妨げない。
「これ、規則?」
律。
「法的強制力はありません」
結。
「でも破ると高い」
「何が」
「周囲」
順平先輩がソファから言う。
「悪育より怖いぞ。異議申立て窓口ないから」
赤ペンで余白に書く。
《書かれていない規則は、誰に異議を出す?》
律が横から見る。
「試験範囲外です」
「気になる」
「小テストでは点になりません」
「点になることだけやる?」
律が止まる。結。
「綴、今、律の勉強環境を操作した」
「質問しただけ」
「考えさせた」
「質問って操作?」
「場合による」
順平先輩。
「お前ら勉強しろ」
十分後、結が寝た。死者も寝る。必要ではないらしい。本人は《習慣》と言う。顔を教科書へ伏せ、左足だけ律の椅子に当たる。律が椅子を三センチずらす。起こさない。
「記録しないの」
私が小声で聞く。
「睡眠は異常ではありません」
「左足」
「既知」
順平先輩がジャケットから薄い毛布を出す。結へかける。
「それ何年前から入ってる?」
「知らない」
「洗った?」
先輩が止まる。毛布を取り上げようとした。結が寝たまま掴む。
「寒い」
「汚いかも」
「今は価値ある」
目を開けない。順平先輩が勝った顔をする。律が付箋を一枚剥がす。私の教科書へ貼る。
《明日の範囲ここまで。》
「助け?」
「授業連絡」
「私だけに」
「恩田さんは寝ています。倉橋先輩は知っています」
「強い」
零時前、勉強は終わった。小テストの話より、列車の列と毛布の衛生状態の話をしていた時間の方が長い。翌日。私、八十二点。律、九十九。結、七十六。順平先輩、六十八。
「先輩、知ってたんじゃ」
「知ってるのと試験で答えるの別」
本当に別だった。結が答案を見て言う。
「私、寝た割に高い」
律。
「私の付箋を見ていました」
「起きてた?」
「途中」
「ずるい」
「置いてあった」
私は四枚の答案を見る。同じ夜を過ごして、点数は全然違う。それで誰も困らなかった。昼休み、また同じ四人席へ行った。
昼休みの終わり、四人とも端末の《心身状態》をほとんど見ずに押した。私は普通。先輩も普通。律は良好。結は三秒考えて良好。
誰も、その答えについて話さなかった。




