第5章 放課後の部屋
雨宮梓の名札には、術名欄だけ空白がある。後天術式文化研究会の先生。
「せっかくの名前なのに。隠す必要はないよ」
「隠してるんじゃなくて、学校では使わないだけです」
「堂々と使える環境を作りたい」
「私は、堂々と使わない権利がほしいです」
先生は悪い人ではない。昔、術名を隠していた後天術師を守った。
「守った方法が、今の私には合わない」
私。
「規則にする?」
「まだ。境野さん、すぐ制度にする。制度にした瞬間、私以外にも効くから」
何もしない。学校で一番教えてくれない技。
✦
夜教室は旧理科棟地下。正式には《後天術式文化研究会・自主練習室》。登録上は倉庫。順平先輩が鍵を持っていた。中には十七人。杖。ノート。魔導書。コンビニ弁当。壁。
《過去問》
《安全な先生》
《推薦先》
《面接で術名を聞かれた場合》
《生得系限定と書いていない求人》
《生得系限定と書いていないが実質無理な求人》
「学校の中にある学校」梓。
上級生が一年生へ術式を教える。卒業生が求人を持ってくる。カレーをこぼす。本が一冊燃える。誰かが恋愛相談をする。避難所ではなく、生活だった。
「ここ、好き?」
「学校の中で一番」
帰り。梓。
「先輩卒業したら鍵どうする?」
順平先輩が止まる。
「次の人」
「誰」
「考える」
夜教室にも、先輩がいなくなる問題があった。
✦
梓の机に《後付け》と油性ペンで書かれた。先生が消す。
「誰がやった」
誰も。
「見た人」
誰も。三十六人いた。担任。
「反応すると面白がる子もいるから。悪意のない冗談でも、相手が嫌ならやめよう」
「悪意あると思う」
私が言った。後ろから「正義マン」。笑い。梓が袖を掴む。
「やめて。私の話だから」
また本人より先に動いた。放課後。梓。
「犯人探ししたら、次は『梓のせいで全員残された』になる」
「じゃあ」
「いじめって、一人見つけたら終わると思う?」
書いた人。笑った人。見ていた人。見なかったことにした人。先生。私。梓。
「誰もいじめてないって言えるように分けるんだよ」
数日後。四人席で一年の後天術師が呪文を噛んだ。誰か。
「後付け更新失敗」
笑い。順平先輩も。結も。私も。律まで「比喩としては」と笑った。四人で同じタイミング。仲間になった感じがした。反省文に書いた「本人の希望する呼称を確認する」が、一秒遅れて頭へ戻った。午後。梓。
「昼、楽しそうだったね」
結。
「ごめん」
「私に謝れば、後天術師全部に謝ったことになる?」
律。
「社会的順位の回復行動だった可能性があります。私たちは灰。教室内では後天術師がさらに低く扱われる」
「分析は合ってる。すごく不快」
私。
「じゃあ何で笑った」
「私たちが面白いからじゃない。その瞬間、みんなが私たちより上になれたから」
自分が上がったわけではない。誰かを下げた。体感は似ていた。その日から俗称は使わなくなった。頭の中まで止まるには、もっと時間がかかった。
入口の充電器には名前がない。誰かが使い、戻す。奥のソファでは、昼の教室に三日出ていない一年生が数学の宿題をしていた。ここには毎晩来ているらしい。
「学校、休んでるの?」
「昼は」
「ここは?」
「ここは来てる」
梓は何も訂正しなかった。出席か欠席かではなく、来られる場所が一つ残っている。それだけで成立する時間があった。
共同棚には貸出用の杖がある。梓の杖は梓のものだった。
「一回だけ貸して」と後輩が言う。
「嫌」
「理由は?」
「嫌だから」
夜教室では、それで終わった。断るための説明を追加料金にしない場所だった。
✦
白石先生の職員室には机が四つあった。担任。再適応主任。出生証明内部評価。高リスク生徒継続教育責任者。最後は昨日、床から生えた。
「成功したから担当増えた?」
「昨年度の認定率が高かったので」
放課後は、私だけ古いケースを見せてもらう。制服例外。幽体出席。変身責任。まずい缶コーヒー。
「特別扱い?」
「興味のある学生へ資料を出しています」
「私しかいない」
「結果として」
嬉しかった。
✦
加賀谷澄江先生の支援室は、相談票、医療申請、推薦書、保護者メールで埋まっている。結は面談変更を届けるようになった。次に予定を整理した。次に「誰なら断らないか」を先生から聞かれた。
「恩田さんなら安心」
一番効く言葉。いつの間にか結の予定表に《支援室》が週三回入った。先生はミルクティーを覚えた。結は先生の仕事を覚えた。
✦
職員会議室。白石法子。認定率:上昇。担当高難度学生:次年度+6。加賀谷澄江。推薦成立率:高。支援対象:+18。桐生征司。学生技術支援:高。論文主著:低。真壁宗一。事故率:低。追加行事:+3。榊原冴子。反省成立率:99.4%。平均終了時間:悪化。
「できる人へ増やしてる」
判田巡。
「能力に応じた配置です」
評価結果は昇給、配置、研究時間、契約更新へ反映される。先生たちも次の何かへ応募している。会議の最後。モニター。フランチェスコ。
「数字は見た。で、学生は何を覚えた?」
切れる。六秒。判田さんが顔を覆った。
「来年度の報告書、全部その質問になります」
「答えれば?」
「何を答えればいいか分からないから制度になります」
一番上だけ、質問する側だった。
会議が終わる前に、加賀谷先生の端末へ面談追加が六件入った。真壁先生には行事運営。桐生先生には、学生支援時間を減らして研究時間を確保する提案。
白石先生の机には《業務量管理・健康福祉確保計画》が開いていた。
「先生、それ何ですか」
「過労を防止する書類」
壁時計は二十二時四十七分。
「いつまで?」
「今夜」
誰かをうまく助けると、次はもっと助けられる人として扱われる。学生だけではなかった。
✦
【律が後で見せてくれた、研究室訪問の記録】
最初に桐生先生が律のノートを見た時、再現する誤差を指して「普通なら捨てる。でも再現するから残す」と言った。律は、その一言を覚えていた。
桐生先生の研究室には、名前のない仕事が多かった。床の結界修理。解析用データ整形。他研究室の術式翻訳。実験事故の後始末。誰かがやらないと研究が止まる。論文の著者欄には入らない。
「先生、これ全部」
律。
「仕事」
「研究成果には」
「入らない」
「何で」
「研究ではないから」
梓が横から。
「でも研究止まる」
桐生先生。
「そう」
言い方。慣れている。古い論文。先生が律へ出す。著者。生得系の教授三人。謝辞。
技術協力:桐生征司
「解析、先生?」
「主に」
「主にって」
「全部ではない」
「結果の再現確認」
「私」
「図」
「私」
律の声が冷える。
「著者では」
「なかった」
「異議」
「出した」
「結果」
桐生先生は笑う。
「次年度の学会出張費がなくなった」
梓。
「だから先生、全部残す」
先生。
「残しても消されることはある」
律。
「なら」
「消された証拠が残る」
それが先生の宗教。その頃から、律は研究室へ通っていた。先生は古いケースを見せる。研究不正。著者順。共同研究。
「御影さんは筋がいい」
律の顔。嬉しい。




