第4章 青い空の席
生徒指導主事の榊原冴子先生は、反省文を三色のペンで読む。赤。青。黒。意味は教えない。
「公開すると、あなたが最適化するでしょう」
律が黙った。私たちが呼ばれた理由は、昼休みに後天術師への俗称《手習い》を使ったからだった。高瀬蓮が振り返り、「今の、面白かった?」と聞いた。私は答えず、結は「別に悪口じゃない」と言い、律は時刻だけ記録した。順平先輩は止めなかった。榊原先生が三枚配る。
事実確認書。反省文。再発防止計画。
私は事実だけ書いた。赤線。
「反省がありません」
「何を反省するか決まってない」
「決まってから出してください」
「帰っていい?」
「反省が成立すれば」
罰ではない。終わっていないだけ。結は十五分で成立した。
《相手が不快に感じる可能性を十分考慮せず、集団内の俗称を安易に用いた。今後は本人の希望する呼称を確認する。》
「本当にそう思ってる?」
「思ってる部分はある」
榊原先生。
「内心の純度は採点していません」
律。
「では反省とは文書要件ですか」
「教育上の到達状態です」
「測定方法が文書」
「主に」
「演技可能」
「社会適応もです」
先生が強い。廊下には高瀬。白紙。結。
「先生が欲しいやつ書けば早いのに」
「出るために違うこと書くの、出たことになる?」
結が止まった。
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榊原先生の正式送致は今年三十一件。認定成立も三十一件。別の日、ロッカー破損を疑われた一年生を先生は送致しなかった。映像なし。目撃二人。本人否認。担任。
「この子しか」
「だから?」
「状況的に」
「状況は事実ではありません」
一年生を帰す。
「百パーなの、勝てる案件だけ送るから?」
「正式送致は、学校が立証できると判断したという宣言です」
「送られたら終わり」
「ほぼ」
忘れ物を取りに戻ると、先生自身の机に《業務改善書》。
特別指導平均終了時間、前期比一八%増。
原因欄。
《個別事情を確認しすぎる。》
改善案。
《確認時間を短縮する。》
一度書いて、自分で消した。先生も反省が成立するまで帰れない。
✦
廊下へ出ると、高瀬はまだ白紙を持っていた。
「書かないの」と聞く。
「正解が分かったから余計に書けない」
「何で」
「俺がその答えを書いたら、次から『これを書けば反省』になるだろ」
高瀬は紙を折った。正しい答えを知ることと、その答えを制度へ渡すことは同じではなかった。私はその時、まだ違いをうまく説明できなかった。
✦
青区は、本当に重力が軽かった。比喩ではない。上層棟へ入った瞬間、鞄が二割ほど軽くなる。
「教育的配慮だそうです」律。
「何への?」
「優秀な学生が身体的負担で成果を阻害されないため」
結が自分の左足を持ち上げる。普段より位置ずれが小さい。
「私、補助生になりたい」
「理由が物理」
「重力は物理」
青区の廊下は静かだった。床は磨かれ、窓は大きく、制服規程違反の掲示が少ない。学生が規則を守っているからだ、と案内係は説明した。別のものを見た。教室前に予備のネクタイ。傘立てに学院指定傘。忘れ物窓口が各階にある。血液パックの自動販売機。上履きのサイズ交換機。
「守りやすい」
私が言うと、律がこちらを見た。
「何がですか」
「校則」
私は自分の角カバーを触った。上層棟には角・耳・尾・翼用の制服調整室がある。下の被服室では「来月まで待って」と言われた。
「同じ規則でも、ここは守るための道具が先にある」
律はメモを取った。結は取らない。順平先輩は廊下の端に置かれた無料の生理食塩水を二本鞄に入れた。
「先輩」
「一人一本って書いてない」
「補助生用です」律。
「『利用者』って書いてある。今利用してる」
笑った。律は笑わなかった。でも止めなかった。見学の最後に、外部補助制度説明があった。成績、生活態度、社会適応指数。規程違反が少ないほど加点。ただし指定支援設備を使った場合、その利用履歴が「適応補助依存」として一部減点される。結が手を挙げた。
「設備使わない方が点高いんですか」
担当者は丁寧に答えた。
「自立的適応を重視していますので」
「設備あるのに」
「必要な学生のために整備しています」
「使うと減点」
「総合評価です」
「使えるけど、使わない方が評価される」
「個別事情を勘案します」
結は頷いた。質問をやめた。帰りのエレベーターで言った。
「これ、私が人にお金貸すときと同じ」
「どこが」
「借りられる状態を作る。でも借りた人は、借りたって記録が残る」
「結は減点するの?」
「しない」
「じゃあ違う」
「私はね」
その「私はね」が気になった。一階へ戻ると重力が戻った。鞄が重い。結の足が三十センチ左へ戻る。律が一歩よろけた。順平先輩だけ平気だった。
「慣れてる」
「何に」
「戻される方」
その言い方だけ、六年分重かった。青区の食堂では、無料のデザートが出た。
「学習成果促進用糖質補助」
名前まで恵まれている。下層食堂のデザートは、金曜日だけ出るゼリーで、味は《統計的に果物》。結はプリンを二個食べた。
「一人一個って書いてない」
順平先輩と同じことを言う。
「感染」
私が言う。
「学習」律が訂正。
食堂の隅で、補助生の女子が支援端末に何か入力していた。画面が赤くなる。
「どうしました?」結が先に声をかけた。
女子は驚く。
「別に」
「別に、は困ってるときの言葉にもなる」
結が勝手なことを言う。女子は少し迷ってから見せた。翼用制服調整の利用回数が上限を超え、次回から自己負担になる通知。
「でも翼、大きくなる時期なんです」
「成長?」私。
「季節で」
規程上、成長期の身体変化には補助が出る。季節変化は対象外。
「分類が悪い」
言った。律がすぐ止める。
「私たちは見学者です」
「でも」
「本人が相談を求めていません」
結も私を見る。口を閉じた。女子が自分から訊いた。
「何か方法ありますか」
そこで条文を見せた。季節変化ではなく《反復性身体形状変化》。保健室の診断があれば個別配慮へ移せる可能性。女子はメモする。
「ありがとうございます」
「通るかわからない」
「でも聞いてみます」
帰り、律が言った。
「先ほど、待てましたね」
「何が」
「頼まれるまで」
「褒めてる?」
「観察です」
結が横から言う。
「私は褒める。えらい」
「子ども扱い」
「十五歳」
「結、十六」
「先輩」
順平先輩が前から振り返る。
「俺を巻き込むな」
青区で一番残ったのは、重力でもプリンでもなかった。助けられることと、助ける権利があることは違う。律はたぶん、ずっとその区別をしていた。
✦
青区で、九条真琴に初めて会った。当時は名前を知らない。制服は完璧。髪も規程内。狐耳だけが頭頂部に二つ出ていて、片方に透明な保護具。私が角カバーを外しているのを見た。
「下の棟?」
「見れば分かる?」
「カバーの縫い目」
彼女のものは薄い。耳の動きを邪魔しない。私のは被服室の余り布。防御力だけは高い。
「補助生はいいね」
言った後、少し刺々しかったと思った。九条は怒らなかった。
「そうだよ」
即答。
「守りやすい環境で同じ規則を守って、下の人と同じ評価を取る。公平って便利」
私は彼女を見る。
「皮肉?」
「事実」
律と同じ言葉だった。でも温度が違う。九条は自動販売機で血液パックを買う律を見る。
「あなたたち、規則を変えたいの?」
「まだ」
「じゃあ、抜けたい?」
「場合による」
「一番面倒な答え」
彼女は笑った。
「私は、善意で近寄ってくる人の方が嫌い」
その時は意味が分からなかった。
✦
青区の表示板には、家柄も成績も書いていない。
表示板の隣には《本日の育成投資額》。灯里は千八百万円台。ララは三千万円台。環はまだ一万円台。私にも六万円ほど付いていた。金持ち一覧ではない。誰かが、その学生の成功へ今日いくら置いたかの一覧だった。
青区の個別面談室には価格表がある。《追加教員面談》《出生証明個別模試》《身体安定化補助》。
「金で先生を買える?」と聞くと、印南さんは「時間を買えます」と答えた。違うらしい。利用する側には、ほとんど同じだった。
本日補助率。
三枝灯里
四〇八%。
有馬小夜
三一二%。
九条真琴
一八六%。
北村環
二一%。
下の方に、知らない二年生。
主資金源:《最下層から青空へ》社会移動基金。
「灰だった人が青を補助してる?」
「今は金あるから」環。
結が表示を見る。
「嫌いだった制度を、自分で買ってる」
「便利なら使うでしょ」
青は金持ちの色ではない。誰かが余分にあなたの成功へ金を置いたという表示だ。灯里の実家は普通だった。補助は配信、失敗集、広告、小口支援。青区の自販機では、灯里の水だけ無料になった。私は同じ水へ百四十円払う。
「同じ水」
受付の印南さん。
「三枝さんの成功を、あなたより望んでいる人が多いからです」
「公平性は」
「補助制度は公平性を目的としていません」
答えが正確すぎて、怒る場所がない。
✦
椎名ララの補助額は三千万を超えていた。理由。魔蛙飼育配信。
「蛙、好き?」
「好きだった。毎日三時間は好きじゃなくなる」
机にはファンから届いた蛙のぬいぐるみが百二十七個。配信開始。笑顔。投げ銭。終了。椅子から滑る。
「しんど」
「辞めないの」結。
「辞めたら個別模試消える」
人気も技能だった。午後、別の生徒の補助率が一六四、一四九、一四一と落ちた。
《青区常住基準を下回りました。居住再配置手続を開始します。》
「昨日、スポンサーが炎上した」
結が小声で言う。
「借金なら増える理由が分かる。これは、好きじゃなくなっただけで床が重くなる」
青区の学生は好かれている。好かれ続けることまで補助条件に入っていた。
ララの手が画面から離れた瞬間を見た。配信が終わって、スタジオ用の笑顔が閉じる。椅子に背中を預けて、天井を見る。三秒。それから鞄の整理を始める。百二十七個のぬいぐるみは触らない。配信中は一度も触らなかった。それが仕事の手つきだと、ここへ来るまで考えたことがなかった。
今月から《基礎在籍支援》が全所得階層へ拡大された。廊下のポスターには『すべての生徒に、学ぶ権利を』。
その下の適用区分表は細かかった。生得系、認定変異系、永続幽体系。後天術師は別申請。必要書類は七枚多い。
授業料は据え置き。代わりに《現実維持費》《演算網設備費》《存在安全管理料》が新設された。
「授業料は上がってない」
環が合計欄を見る。
「総額は上がった」
その日の廊下で、環は灯里に映像制作の進路票を見せていた。最初の半年、ほぼ無給。
灯里は自分のスポンサー紹介欄から学生制作支援の小口枠を一つ共有した。
「これなら半年いける」
青とは金持ちの色ではなく、遠回りできる色なのかもしれない。好きな仕事が金になるまで待てる。失敗しても次を選べる。灰は未来が少ないのではない。待てる未来が少ない。
✦
補助寮前の広場で、三枝灯里が壇上の照明を見上げていた。翼の縁が灯りを跳ね返す。司会の学生が、投資者紹介の順番を間違えた。観客席の一列が立ちかける。
灯里は台本を閉じた。
「今の順番、協賛金額じゃなくて拍手の大きさです」
一列が座った。別の列が拍手した。司会が助かった顔をする。
「嘘です。どちらも審査中です」
今度は全員が笑った。私はうまいと思った。嫌いになる前に、うまいと思ってしまった。
終わった灯里は、北村環に水を投げた。環は落としかけて受け取る。
「次、あそこ、私に振って」
「次は自分で入ってきて」
「入る場所がない」
「作るの」
意地悪な返事だった。灯里は自分の水を開けてから、環の蓋も緩めた。固かったらしい。
律が時間表を見ていた。灯里が覗く。
「間違ってる?」
「あなた、予定より四十六秒延ばしました」
「怒られる?」
「後ろの人が困ります」
「困らせた。枠、譲らないから」
律は彼女を見た。
「私は二十一時の練習が欲しいの。誰も観客数を買わない時間」
灯里は空欄へ自分の名前を書いた。環が口を開きかける。
「そこはあげない」
言ってから、灯里は律のノートを指した。
「来る?
遅刻した秒数、返す」
「何をするんですか」
「来てから決める。練習くらい、まだ上手くないままでいたいし」
✦
残り二十四日。四Cの未登録式は、まだ消えていない。直接演算の練習値は四十一パーセント。
《第七共同課題班》という名前の通知が届いた。
構成員。境野綴。恩田結。御影律。倉橋順平。通知を三回見た。
「申請した?」
結が首を振る。律はもう規程を開いていた。順平先輩はパンを食べている。
「先輩」
「してない」
「でも驚いてない」
「学校が人間関係を勝手に決めるの、二年目で飽きた」
通知の末尾。
《過去一週間の相互行動記録に基づき、教育上最も高い相互補完性が認められる組合せを自動編成した。》
律の顔が変わった。
「相互行動記録?」
「そこ?」
「どのデータを使ったのかが重要です」
「友達扱いされた方じゃなくて?」
「それは結果です」
結は私の画面を覗いた。
「共同課題、何するの」
《校内危険区域における避難経路設計》。
三日後に提出。ため息をついた。
「班の取消申請しよう」
三人が黙った。
「何」
結が言った。
「三日」
律が言った。
「編成異議は処理に五営業日」
順平先輩が言った。
「図面、今日なら旧校舎の鍵借りられる」
私は三人を見た。
「つまり?」
「やった方が早い」結。
最悪だった。さらに最悪なのは、四人でやると早かった。律が規程と過去事故を洗う。順平先輩が実際に開く扉と開かない扉を知っている。結が必要な申請・鍵・非常食を用意する。私は避難経路の「通行可能」の定義を変える。幽霊には壁が通路。小型妖精には換気口が避難路。狼男の変身体には狭い階段が使えない。吸血鬼は日中の屋外集合地点へ出せない。一つの避難図では全員を救えない。だから図を一枚にしなかった。
《身体特性別可変避難経路》。
提出すると白石先生は長く見た。
「班として役割分担が明確ですね」
「班じゃないです」私。
「通知上は班です」
「私たち、班になる合意してません」
「共同課題の履行には合意は不要です」
結が小声で言った。
「友達より成立要件ゆるい」
「聞こえています」白石先生。
「聞かせました」結。
律が私たちを見た。
「評価前なので挑発は控えてください」
順平先輩が笑う。結果は学年一位だった。その日の昼、私たちはいつもの四人で食堂に座った。
「班じゃない」
私が言う。
「うん」結。
「行政上は班です」律。
「昼は行政じゃない」順平先輩。
誰も席を立たなかった。共同課題の採点表には、奇妙な項目があった。
《班内調整コスト》
私たちは最高評価。
「調整してないから?」
「事前に役割が成立していたと評価されています」律。
「勝手に成立させたの学校でしょ」
「でも実際成立しました」結。
私は嫌な顔をした。順平先輩は何も追及しなかった。
放課後、自販機の前には四人いた。
順平先輩が「今日は奢らない」と宣言する。誰も頼んでいない。結が四人分の飲み物を買う。
「何で」
「昨日の図面、私の作業少なかったから」
「誰も労働時間で割ってない」
「私は割った」
律が言った。
「結さんの申請作業時間は少なくありません」
「測ったの?」
「おおよそ」
「怖い」
「皆さん同じ反応をしますね」
私は無糖紅茶を受け取る。また好みが知られている。
「ねえ」
三人を見る。
「班じゃないなら、何」
順平先輩はすぐ答えない。結は缶を開ける。律はラベルを読む。誰も名前を付けなかった。そのまま飲んだ。明日の席と飲み物だけは、だいたい決まっていた。




