第3章 先輩の持ち物
異適院では、生徒が校舎を掃除する。教育的理由らしい。共同体意識。生活環境への責任。自分たちの場所を自分たちで整える習慣。そして清掃業者に払う費用の削減。最後の一項だけ校内文書には書いていない。書いていないが、印南さんが予算表をプリントしたままコピー機に忘れていたので、私は知っている。木曜日、私と結と律は第二理科棟の廊下担当だった。
「雑巾二枚」
結が言った。
「持った」
「バケツ」
「律」
律は持っていた。
「ゴム手袋」
「支給品があります」
「支給品、先週噛んだよ」
「手袋が?」
「うん」
律は三秒考え、自分の鞄から市販のゴム手袋を三組出した。結が私を見た。律を見た。律は言った。
「予見可能でしたので」
「仲良くなれそう」結が言った。
「評価を保留します」律。
廊下の端に死体が落ちていた。ここでは珍しくない。ただし今回の死体は教材だった。
《死後行政手続実習用・人体模型七号》という札が胸に貼ってある。
模型なのに脈があった。異適院では、そのあたりを気にすると授業が進まない。問題は、模型七号が清掃区画のちょうど真ん中で大量の黒い液体を漏らしていたことだった。
「掃除する?」結。
「待って」律。
「黒いよ」
「見ればわかります」
律はしゃがみ、模型の胸元を確認した。
「実習中断タグがありません。これは現状保存対象かもしれません」
「でも清掃当番終了確認は十五時五十分」
結が時計を見る。十五時三十二分。
「汚れを残したら未完了」
「証拠を消したら実習妨害です」
「どっちの減点が大きい?」
「問題は点数ではありません」
「学校ではだいたい点数だよ」
二人が私を見る。やめてほしい。床を見た。黒い液体。模型七号。黄色い清掃ライン。壁に貼られた《清掃当番実施基準》。恋規を開く。
《彼の部屋を片づけることは愛情か、証拠隠滅か。答えは、警察が来る前か後かで変わる。》
「役に立つのが腹立つ」
「何て?」結。
「管轄を時間で分ける」
私は清掃基準を指した。
「清掃する義務はある。でも今すぐ全部を消せとは書いてない。律、現状を記録。結、清掃終了時刻までに汚れを『清掃待ち状態』へ移せる?」
「どうやって」
「囲う」
「何で」
結の目が廊下の端へ行った。赤い三角コーンが六本。立入禁止テープ。なぜある。
「用意してた?」
「第二理科棟だから」
説明になっていない。でも使った。律が写真を撮る。模型七号を《清掃対象》ではなく《清掃作業を停止させる安全障害物》として記録する申告を出した。十五時四十九分。清掃端末に《完了》がついた。十五時五十一分、理科担当が走ってきた。
「触ってないな?」
律が写真を見せた。
「現状保存しました」
「助かった。七号、さっきから勝手に死因変えててさ」
模型が咳をした。黒い液体が増えた。結が言った。
「今の分は清掃当番外?」
先生は迷った。律が時計を見せた。端末の《完了》を見せた。先生は模型を見た。
「……明日の当番に回す」
私たちは三人とも頷いた。翌日、清掃規程に《証拠性を有する汚染物の取扱い》が追加された。律が通知を保存した。結が予備のコーンを一本寮へ持ち帰った。理由を聞かなかった。聞いたら使う日が来そうだった。模型七号の事件は、それで終わらなかった。同じ日の放課後、理科棟の清掃担当全員に《証拠性汚染物講習》が追加された。二十五分。放課後。無給。
「私たちがうまくやったせい?」
「たぶん」律。
「成功の罰」結。
講習では、黒い液体、呪詛残留物、血液、記憶片、分離した影、所有者不明の歯などを分類した。講師が言う。
「迷った場合は触らない」
私は手を挙げた。
「触らないことで清掃未完了になった場合は?」
講師が止まる。律が私の腕を下げた。
「今は聞かないでください」
「でも」
「絶対、附則が増えます」
結が笑いをこらえる。黙った。これが初めてだった。穴を見つけたのに、使わなかった。理由は倫理ではない。面倒が増えるから。講習後、結が言った。
「成長」
「違う。コスト計算」
「同じこともある」
その日の清掃では、廊下に誰かの影が落ちていた。本人はいない。影だけ。三人とも立ち止まる。私は講習を思い出す。律は写真を撮らない。結はコーンを出さない。
「どうする」
順平先輩が通りかかった。影を見る。
「落とし物箱」
「影を?」
「二階の生徒課に影用ある」
「あるんだ」
「ある」
私たちは影を触らず、係を呼んだ。学校には、私たちがまだ知らない解決法が大量にある。全部を自分で発明する必要はない。それも少し悔しく、少し安心だった。
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清掃講習の最後に、講師が中庭の梨の木を指した。去年、実習事故で一本枯れたらしい。
「施設損失の算定例です」
黒板。樹齢十二年。予想残存結実年数。年間収穫量。平均単価。剪定費。肥料費。将来収益を現在価値へ戻す係数。
「木って、死んだらこんな計算するんだ」結。
「損失額が必要なので」律。
「古い木の方が高い?」私。
講師。
「必ずしも。若すぎればまだ収穫が少なく、古すぎれば残存年数が短い。最も価値が高い時期があります」
順平先輩が梨を見る。
「人生みたい」
「縁起悪い」結。
講師は真顔だった。
「人の話ではありません」
その時は、そうだった。私は計算式の余白に書いた。
生き物を値段にする時、年齢は感情じゃなく残り時間になる。
恋規が勝手に一行足した。
《恋愛でもだいたい同じ。》
「違う」
私はその頁を閉じた。
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出生証明試験まで、残り二十六日。黒い脈は一度も青へ戻っていない。倉橋順平先輩は、高等部に六年いる。留年ではない、と本人は主張する。
「認定延期」
「六回?」
「細かい」
「高等部って普通三年ですよね」律。
「普通の生徒ならね」
順平先輩は狼男だった。満月で変身するタイプではない。疲れると耳が出るタイプだ。この日は左右とも出ていた。つまりかなり疲れていた。それでも両手には紙袋が四つあった。
「境野、これ」
私に一つ。中には角用の制服カバー試作品。
「頼んでない」
「被服室が余った布で作った。角そのままでも式典写真の反射だけ抑えられる」
「どうして必要だと」
「来週、学生証撮り直し」
知らなかった。
「恩田」
結には靴底固定用のバンド。
「御影」
律には携帯用の遮光フィルム。
「頼んでません」
「血液管理室、午後休診になる日あるから。窓際で待つとき使う」
「いつですか」
「第二火曜」
律は黙って受け取った。順平先輩は最後の袋から自分の昼食を出した。焼きそばパン二つ。
「先輩、何で全部知ってるんですか」
「六年いるから」
「それだけ?」
「それが多いんだよ」
彼は校内の地図を持たない。必要ないからだ。保健室の先生が何曜日に機嫌が悪いか。図書室のコピー機は雨の日にどの紙を噛むか。学生課の窓口は十六時三十分に閉まるが、印南さん本人は十六時四十五分まで席にいること。体育館裏の自動販売機は百円玉を一枚だけ余計に返すことがあり、学校は三年前から「調査中」にしていること。文化祭の申請は正式締切より二日前に一度出して差し戻しを受ける方が通りやすいこと。全部知っていた。
「校則じゃないですね」私。
「校則だけ守って生きられるなら、校則読むだけでいいだろ」
「じゃあ何ですか」
順平先輩は焼きそばパンを一口食べた。
「運用」
律のペンが動いた。先輩が指さす。
「それ、俺の名前書くなよ」
「発言者の特定は必要です」
「必要になったとき思い出せ」
「記憶は証拠能力が」
「御影」
律が止まった。命令口調ではなかった。声も低くない。ただ名前を呼んだだけ。律はノートを閉じた。その方が気になった。
「今、先輩権限使いました?」
順平先輩が私を見る。
「使ってない」
「でも律、止めました」
「止めたね」
「律?」
「今回は記録の必要性が低いと再評価しました」
「嘘」
「推測です」
順平先輩は笑った。狼の耳が少し立った。その日の放課後、私たちは学生課へ行った。結の足位置不整合の正式申請を出すためだ。十六時三十二分。窓口には《本日の受付は終了しました》の札。結が言った。
「明日でいい」
順平先輩は札を見た。奥の印南さんを見た。ノックした。
「印南さん、これ今日の受付じゃなくて、今日中に出したって記録だけ欲しいんですけど」
印南さんは眼鏡の上から先輩を見た。
「受付終了後の提出は受付ではありません」
「はい」
「ただし提出時刻の記録は可能です」
「お願いします」
「明日改めて受付処理になります」
「知ってます」
印南さんは書類に時刻印を押した。十六時三十三分。私たちは何も破っていない。窓口は閉まっている。受付もしていない。でも提出は今日だった。帰り道、私は恋規に書いた。
《規則には文章がある。運用には人がいる。》
考えて、その下。
《倉橋順平はたぶん、人の形をした附則。》
「見せて」結。
「嫌」
「じゃあ貸し一」
「何の」
「見せない貸し」
「新しい債権作らないで」
順平先輩は前を歩きながら言った。
「それ、もう恩田の勝ちだぞ」
結が満足そうに頷いた。私は六年目の先輩を尊敬して、かなり警戒した。順平先輩の鞄は有名だった。外から見ると普通の黒いリュック。中から出るものが普通ではない。絆創膏。充電器。学生課の旧様式。新品の靴下。犬用ジャーキー。吸血種用遮光フィルム。裁縫セット。折り畳みコップ。誰かの忘れた卒業証書。
「何で卒業証書」
「三年前の」
「返してないんですか」
「本人が取りに来ない」
「連絡は」
「海外」
律が眉をひそめる。
「保管権限は?」
「ない」
「なぜ持っているんですか」
「学生課の天井から落ちてきた」
誰もそれ以上聞かなかった。先輩は、人と学校の隙間に落ちた物を拾い続けている。物だけではない。新入生が窓口を間違えると連れて行く。先生が忘れた申請をさりげなく机へ戻す。昼食を抜く生徒へ余ったパンを渡す。
「全部やってたら卒業できないですよ」
私が言うと、先輩は笑った。
「だから六年」
冗談だと思った。半分は。その日、三年生の女子が先輩へ言った。
「倉橋先輩、卒業しないでくださいね」
笑顔だった。先輩も笑う。
「するよ」
「困ります」
「困れ」
女子は冗談だと思って笑った。先輩はしばらく笑ってから、耳を伏せた。私は見なかったことにした。見なかったことにできた、という意味で。
✦
順平先輩の「知っている」は、無料ではなかった。その週だけで、私は三回見た。昼休み。二年生が学生課の旧様式を探しに来る。放課後。体育教師が鍵の所在を聞く。夕方。保健室から「倉橋なら知ってると思うんだけど」と電話。全部、正式な担当ではない。全部、先輩が答えた。
「便利ですね」律が言った。
「褒めてる?」
「状態を述べています」
結は違うところを見ていた。
「これ、先輩に何か入る?」
「何が」
「単位。手当。認定加点」
「入らない」
「じゃあ、何でやるの」
先輩は一瞬だけ答えなかった。
「知ってるから」
結は納得しなかった顔をした。その日の終礼後、白石先生が廊下で先輩を止めた。
「倉橋。学生支援補助員の臨時登録を出しておけ」
「また?」
「無登録で手伝う方が処理が面倒です」
「登録すると卒業認定の実地時間が増えるんですよね」
「増えます」
「それ、卒業が遠くなるやつじゃないですか」
「必要とされている証拠です」
先輩の耳が伏せた。白石先生は見た。見ただけだった。私はその会話をずっと覚えた。この学校では、役に立つことが罰になる場合がある。もっと正確に言えば、役に立つ人間を手放さない理由になる。
✦
順平先輩には、先生が一人いた。真壁宗一。実習部顧問。先輩を名前で呼ばない時がある。
「右腕」
倉庫でそう呼ぶと、先輩は嫌そうな顔をして、全部やる。搬入口変更。一年生の変身事故。文化祭の工具申請。外部講師の入構証。
「倉橋」
「もうやった」
「助かる」
先生は笑う。先輩も少し笑う。私はそのやり取りを、仲が良いと思った。実際、仲は良かった。だから問題になるまで時間がかかった。
真壁先生は次の書類を出す前に、先輩が必要な添付資料を三つ机へ置いた。
「さすが右腕」
先輩の耳が立った。仕事が増えたのに、嬉しそうだった。
✦
最初の正式審査は、私たち四人が友達になる前に来た。後から思えば、順番が逆だった。一緒に異議申立てをしたから、友達になったのかもしれない。審査対象は《無許可相互扶助行為》だった。意味は、結が私に赤ペンを渡し、順平先輩が律に遮光フィルムを渡し、私が結の申請を手伝い、律が全件を記録したこと。学校はこれを「未登録の継続的支援関係」と見なした。支援関係が継続する場合、学生福祉課への届出が必要らしい。
「友達届?」
私が言うと、白石先生は否定しなかった。
「名称は相互支援関係届です」
「友達と何が違うんですか」
「友人関係には学院の補助金が発生しません」
結が顔を上げた。
「補助金あるの?」
白石先生は一瞬、しまったという顔をしなかった。この人はたぶん、しまった顔を履修していない。
「要件を満たした場合です」
律がすぐに手を挙げた。
「要件一覧を開示してください」
「申請者にのみ開示されます」
「では申請します」
「申請には関係者全員の同意が必要です」
三人が私を見る。
「何で私」
「一番嫌そうだから」結。
「正確な観察です」律。
順平先輩は黙って焼きそばパンを食べていた。審査室は古い講堂の一室だった。木の机。真鍮の番号札。壁の時計だけが異様に正確。旧制校めいた趣、と言えば格好はつくのかもしれない。実際には古くて寒い。印南さんが書記だった。
「本件につきましては、学生四名による反復継続的な便益供与が、学院規程上の相互支援関係に該当するかを確認します」
「便益供与」
結が小声で復唱する。嬉しそうだった。最初に律が立った。
「反復継続性の立証が不足しています」
記録を出す。赤ペン一回。遮光フィルム一回。申請補助二回。
「反復はあるものの、各行為の目的、対象、対価性が異なります。同一の支援関係として束ねる根拠がありません」
白石先生が訊く。
「では別個の支援関係が複数ある可能性は?」
「あります」
「あるんだ」私。
「嘘はつきません」
次に結。
「赤ペンは返礼です」
「何への?」
「電話」
「遮光フィルムは?」
「私は関係ない」
「境野さんへの定規は?」
「返礼」
「何への?」
結は私を見た。
「角の件で靴下を破ったこと」
「それ、私が被害者だよね?」
「だから返した」
「その後貸し一って言った」
「冗談」
「今初めて聞いた」
印南さんのペンが止まった。
「冗談である旨は当時双方に共有されていましたか」
「されてません」私。
「今された」結。
「遡及しないで」
順平先輩の番。彼は何も持っていなかった。
「遮光フィルムは被服室の余剰品です。俺の所有物じゃない」
「ではなぜ御影さんへ?」
「必要そうだったから」
「継続して支援する意思は?」
「ないです」
「今後、必要な物を見つけても渡さない?」
「渡すかもしれない」
「継続意思があるのでは」
「その時に考えます」
白石先生の目が少し楽しそうになった。最後が私。恋規を開かなかった。もう読んでいたから。
「相互支援関係の定義を確認します」
印南さんが規程を読む。
《複数の学生が、共同の目的のため、継続的に便益を提供し、役割分担または相互依存を形成する関係。》
「共同の目的って何ですか」
「本件では、相互の学校生活の安定と推定されています」
「推定?」
「はい」
「私たち、安定を共同目的にすると合意してません」
「明示的合意は要件ではありません」
「じゃあ目的は誰が決めるんですか」
沈黙。印南さんが条文を読み直す。白石先生は答えない。私が続けた。
「私たちはそれぞれ、自分の都合でやっています。律は記録したい。結は返したい。先輩は必要な物が余ってると気になる。私は規則の穴が気になる。同じ結果になっているだけです」
「つまり共同体ではないと?」
結が私を見る。律も。順平先輩は焼きそばパンを食べ終えた。私は一秒だけ迷った。
「今は、申請上は」
白石先生が微笑んだ。審査結果。
《相互支援関係には該当しない。》
勝った。部屋を出ると、結が言った。
「申請上は、って何」
「余計な争点を増やさない言い方」
「ふうん」
律が私を見る。
「適切でした」
「褒めてる?」
「評価です」
順平先輩が自販機で四本飲み物を買った。私には無糖の紅茶。結には炭酸。律には水。自分にはコーヒー。
「何で好み知ってるんですか」
「見てればわかる」
「記録しました?」律。
「してない」
「証拠は?」
「今飲めばできる」
私は紅茶を受け取った。夜、ポータルに新しい講評が届いた。白石法子。
《本日の異議申立てについて、各自、観察・関係把握・定義・運用の理解が適切でした。今後の学習に活用してください。》
その下に、規程改訂通知。
《相互支援関係の「共同の目的」には、明示的合意のみならず、行動結果から合理的に推認される共同利益を含む。》
私たちの勝ち方が閉じられた。結からメッセージが来た。
《次はどうする?》
《改訂文の「合理的に」の基準が未定義です。》
順平先輩。
《明日昼、図書室。間宮先生いる。》
私は画面を見た。誰も友達になると言っていない。でも明日の昼に集まることは、もう決まっていた。恋規を開き、余白に書いた。
《異議申立て。四人。勝ち。規則改訂。》
その下に、少し迷ってから。
《次も四人。》
翌日の昼休み、四人で図書室へ行った。間宮先生は改訂条文を一読して言った。
「おめでとう。君たちの勝利は制度になった」
「負けた気分」私。
「制度と争うなら、勝敗を一回で考えない方がいい」
「どう考えるんですか」律。
「次に何ができるようになったか」
先生はそれ以上説明しない。私は嫌いだった。説明しない先生は、こちらが考えたことを自分の教育成果にできる。
「先生、それずるくない?」
「教育」
「便利な言葉」
「学校だからね」
結は改訂条文を見ていた。
「『合理的に推認』って、誰が合理的って決めるの」
律。
「審査者でしょう」
「審査者ごとに違う」
私。
「じゃあ次はそこ」
順平先輩がため息をつく。
「もう次やる気?」
三人とも先輩を見る。
「何」
「先輩が昨日『次から俺に聞かなくていい』って言った」
「それとこれは」
「次、ある前提だった」
先輩は黙った。間宮先生が本を閉じる。
「いい班だね」
四人同時。
「班じゃないです」
先生は笑った。この時点で、否定の声まで揃っていた。私たちはまだ、その揃い方を能力だと思っていなかった。
✦
別紙二
自己解決率
判田巡の端末に、新しい統計項目が自動生成された。
《学生間未登録相互作用による問題自己解決率》
「何これ」
隣の職員が覗く。
「四人組の異議申立て、教員介入前に論点整理が終わってたので。分析課が面白がって」
「消して」
「理由は?」
判田は画面を見た。境野。恩田。御影。倉橋。違う方法で同じ結論へ着いた四人。教員が答えを教えた記録はない。むしろ白石は、三回、答えを言わないために話題を変えている。
「理由」
若い職員が待つ。
「……母数が四件では統計として弱い」
「じゃあ、保留?」
「保留」
削除はしなかった。判田は自分でも気づかないうちに、フォルダ名を変えた。
《00-0174関連》から、
《第七共同候補群》へ。
共同候補群という名称は、まだ校内に存在しなかった。数日後、存在することになった。
✦
図書室を出る前、間宮先生は一冊の古い校内地図を出した。新しい地図には載っていない地下区画が赤鉛筆で囲まれている。
《非正規学生生活支援区域・旧第三書庫》
「条文の意味がわからないときは、条文が誰を食べてるか見に行くといい」
結が地図を取った。
「比喩?」
「この学校では半分くらい」
地下へ降りる階段は、途中から学校の予算外になった。壁の照明が一個ずつ消え、床材が新建材から古い石へ変わる。最後の踊り場には自販機があった。
《学生支援基金協賛》と書いてあるのに全部売り切れだった。
「支援されてる」順平先輩。
「空気だけ」私。
地下市場は静かだった。屋台というより、廊下に机を並べた即席の窓口。売っているのは教科書ではない。名前。睡眠。記憶。一時的な声。授業中だけ人間に見える権利。午後三時から四時まで影を持つ権利。
《五十音「ぬ」使用権 二週間》
「ぬ、そんなに使う?」
「失ってから困るんじゃない」結。
一つの机で、二年生らしい男子が学生証を差し出していた。
「一文字だけなら、今月乗り切れます」
向こうの女が計算する。
「姓から?」
「名から」
「名は高いよ。本人性に近いから」
「じゃあ姓」
「家族照会が増える」
男子は迷った。立ち止まった。律が私の袖を引く。
「観察だけにしてください」
「助けないの?」
「何を?」
その言い方が冷たく聞こえた。でも正しい。彼の事情を知らない。何の支払いなのか。何を得るのか。代替案があるのか。結が机の料金表を見た。
「利率高い」
「知ってる?」
「再生契約で来たことある」
結を見る。彼女は左足を少しずらした。
「これ、ここのじゃないけど似た市場」
「体、買ったの?」
「借りた」
「返すの?」
「契約上は」
それ以上言わなかった。市場の奥に《学生互助解釈所》があった。机の上には、私の恋規と同じ灰色の本が山積みになっている。表紙の色も厚さも違う。書き込みだらけ。
「これ、どこから?」
店番の老婆が私の本を見た。
「その版、古いね」
「誰が作ったんですか」
「学生」
「誰」
「いっぱい」
「著者名は」
「学校に見つからないための本に著者名を書く馬鹿がいるかい」
合理的だった。老婆は一冊を開いた。条文の横に、恋愛小説の例。さらに余白に、何世代もの筆跡。
《この解釈は二年前に塞がれた》
《こっちはまだ通る》
《保健室では使うな。先生が知ってる》
《印南さんは原本を見る。写しだけ持っていくな》
息を止めた。恋規は参考書ではなかった。生徒が学校に食われながら書いた、生存記録だった。
「買う?」老婆。
「いくら」
「金じゃない」
嫌な言葉だった。
「じゃあ何」
「新しい抜け道一個」
私たち四人は顔を見合わせた。昨日塞がれたばかりの抜け道がある。共同利益の定義。律が言った。
「まだ有効性を確認していません」
老婆が笑う。
「だから値段になる」
結が私を見る。
「売る?」
考えた。勝ち方を売れば、誰かが使う。誰かが使えば、学校が気づく。気づけば塞ぐ。でも使わなければ、抜け道は私たちだけのものだ。それも気持ちが悪い。
「半分」
「何を?」
「条文だけ教える。使い方は売らない」
老婆はにやっとした。
「商売を覚えたね」
「編入四日目で校則に項目増やしたので」
「将来有望」
褒められた。また嫌な予感がした。市場を出る前に、私は一つだけ買った。
《提出期限の延長理由として認められやすい表現集》。
価格は、角の件の先例番号。
「番号だけ?」
老婆が言う。
「番号がわかれば全文は探せる。探す手間が値段だよ」
先例番号を紙に書いた。渡す直前、律が手首を掴んだ。
「公開情報ですか」
「審査結果の公開部分」
「本人識別は?」
「ない」
律は離した。老婆が律を見て笑う。
「いい番犬だ」
「吸血鬼です」
「仕事の話だよ」
律は答えなかった。帰り道、結が突然言った。
「私の名前、一回売ったことある」
足ではなく名前。私たちは止まった。
「どこ」
「昔。『結』の糸へん」
「糸へんだけ売れるの?」
「ここの市場なら何でも値段つく」
一か月、結の名前は《吉》に近い何かになったらしい。人との縁を示す字が欠け、その間だけ支援契約の信用評価が落ちた。
「名前が変わったから?」
「システムがそう読んだ」
「本人は同じなのに」
「制度は文字から人を見ることあるから」
私は自分の名前を考えた。綴。もし糸へんを売ったら、何が残る。
「だから結、名前とか契約にうるさい?」
「うるさいつもりない」
「うるさい」
「綴ほどじゃない」
順平先輩が前を歩きながら言った。
「二人とも名前で殴るタイプだよ」
律がその言葉を記録しようとして、やめた。見た。
「何で書かないの」
「比喩なので」
「比喩も記録するでしょ」
「今日は不要です」
市場の後だったからかもしれない。何でも売れる場所を見た後、記録しないことが少し贅沢に見えた。数日後、延長理由表現集を使う機会が来た。課題提出が一時間遅れそうになった結が、私の机に来る。
「貸して」
「何を」
「表現集」
「対価」
「今度お弁当」
「それ、いつもくれる」
「じゃあ二回」
私は渡した。市場で買った技が、もう友達の間の取引に入っていた。自然すぎて、その時は何も思わなかった。
✦
恋規の第百十二頁には、印刷ではない文字が三種類あった。最初は鉛筆。
《名前を売る時は、読みを残せ。漢字を失っても呼ばれ方が残る。》
次が青インク。
《読みを残すと呼び出し通知が来る。状況による。》
最後が赤。
《上二名とも卒業済。私は両方売った。特に困っていない。》
署名は全部、消されていた。意図的に。
「これ、誰が書いたの」
間宮先生は本棚へ戻す本を一冊ずつ叩いていた。
「昔の学生」
「何人」
「本が覚えてる範囲で、十一期分」
「学校、公認?」
「公認してない」
「禁止?」
「分類できてない」
私は少し嬉しくなった。分類できないものが、私以外にも長く生きている。
「じゃあ恋規って、誰かが書いた本じゃない?」
「最初は誰かが書いた」
「今は?」
間宮先生が本を見る。
「生き残った人が、次に噛まれる人へ歯型を描いてる」
言い方が図書室担当ではなかった。赤ペンを持った。
《名前を一文字売った場合、残りの名前への愛着が増えることがある。価格算定外。》
書いてから、消そうか迷った。消さなかった。次に読む人が誰かは知らない。知らない方が書けることもある。




