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怪物たちは校則を破らない  作者: 竜の牙


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第2章 恩田結は先に知っている

第三次通知が届いた翌朝、編入四日目の私は、角のせいで反省文を書かされることになった。正確には、反省文を書くよう命じられたわけではない。異類社会適応教育院の先生は、命令を嫌う。命令すると責任が発生するからだ。


「境野さん。頭部装飾品の校内着用について、制服規程第十二条をご確認いただけますか」


白石法子先生はそう言って、私の机に一枚の紙を置いた。紙の上部には《自主的改善確認票》とあった。自主的、という言葉の右肩に小さな星印がついている。欄外には、星印についての説明があった。


《自主的とは、本院が本人の選択として処理できる状態をいう。》


便利な日本語だと思う。


「確認しました」


「では?」


私は自分の額を指した。黒い角が二本。右が四・二センチ、左が三・九センチ。母は小さいころから「左右差も個性」と言ったが、学校は左右差を測定誤差と呼んだ。


「これは装飾品ではありません」


「そうですね」


白石先生はにこやかだった。


「でも規程には『頭髪その他頭部に付着する装飾物』とあります。私の角は付着していません。生えています」


「はい」


「外せません」


「はい」


「外したらたぶん死にます」


「死亡可能性については保健室の所管になります」


「今そこは争っていません」


「よく読めていますね」


褒められた。嫌な予感がした。鞄から恋規を出した。昨日、四C教室で未登録の式を浮かべたときも、鞄の中で勝手に熱を持っていた灰色の本だ。


『恋愛事例でわかる異類社会規程』


表紙の下には、誰かが赤ペンで書き足している。


《第七版・無許可増補版 返却先不明》


生徒は『恋規』と呼んでいた。条文の横に、意味不明な恋愛小説が載っている。


《彼は彼女の髪飾りを外せと言った。しかし、それが彼女の身体の一部であるなら、彼が要求しているのは服装指導ではなく身体変更である。身体変更を求める権限は担任にはない。二人の恋は保健室所管となった。》


恋はどこにも行っていない。管轄だけ移動した。


「第十二条は装飾物を対象にしています」私は言った。「身体組織なら第十九条、異類身体特性に移ります。第十九条には、授業遂行上の危険がない身体特性の除去義務はありません」


白石先生は私の角を見た。


「危険性は?」


「昨日、恩田さんが右の角に靴下を引っかけました」


「負傷は?」


「靴下が」


「靴下は負傷しません」


「穴が開きました」


「損耗ですね」


「はい」


先生は確認票に何かを書いた。


「では今回は服装違反に該当しないものとして処理します」


勝った。四日目にして初勝利だった。教室を出る前に、確認票の写しをスマホで撮った。証拠は残す。それくらいは、編入前から知っていた。寮に戻ると、ルームメイトの恩田結が玄関で待っていた。正確には待っていなかった。床に座って、自分の左足を靴に戻していた。足首から下だけが三十センチほど左にずれている。


「勝った?」


「勝った」


「おめでとう」


結は私に新しい靴下を投げた。


「昨日の弁償」


「請求してない」


「だから先に払った」


これが恩田結だった。頼むより先に返す。借りるより先に貸す。断るより先に、断る理由をなくす。靴下を受け取った。


「ありがとう」


「貸し一」


「弁償じゃなかったの?」


「弁償と貸しは別勘定」


「最悪」


「知ってる」


その夜、二十一時十二分。校内ポータルに規程改訂のお知らせが出た。


《制服規程第十二条の二 頭部から生育・突出・顕現する構造物について》


画面を見た。結が横から覗いた。


「早いね」


「三時間」


「仕事できる学校」


私は改訂理由を開いた。


《本日発生した解釈上の疑義を踏まえ、教育環境の公平性確保のため明確化した。》


私の勝ち方が、そのまま次の校則になっていた。恋規の余白に赤ペンで書いた。


《勝った抜け道は一回しか使えない。》


少し考えてから、その下にもう一行。


《たぶん、学校も勉強している。》


翌朝、改訂された規程はもう昇降口の掲示板にも貼られていた。紙で見ると、腹立たしさが増す。


《身体由来突出部は、本人の身体特性として尊重される。ただし安全確保上必要な範囲で、保護具その他の措置を求めることができる。》


「尊重されてる」結。


「保護具買うの私?」


「学校指定なら学校じゃない?」


欄外。


《保護具は原則自己負担。》


「尊重が有料」


結は笑った。教室へ行く途中、同じ鬼系の上級生に呼び止められた。彼女の角は私より大きく、先端に透明カバーがついている。


「昨日の一年?」


「何がですか」


「角」


もう噂になっている。上級生は掲示を指した。


「助かった。私、去年これで体育祭の写真外されたから」


「私のせいで保護具条項も増えましたけど」


「それは前から口頭で言われてた。紙になった方が争える」


彼女を見た。彼女の透明な角カバーには、擦った跡があった。


「ありがとう」


上級生はそう言って去った。少し気分が良くなった。自分の抜け道が塞がれたのに、別の誰かには道ができた。その二つが同時に成立するのが、学校らしかった。一限前、律が私の机へ来た。


「昨日の審査記録、公開部分を確認しました」


「早いね」


「あなたの主張が『身体組織』として記録されています」


「それで?」


「今後、類似案件の先例になります」


赤ペンを持ったまま止まった。


「先例」


「はい」


私の勝ちは、私だけのものではなくなっていた。良いことなのかもしれない。でも同時に、学校のものにもなっていた。律はその両方を当然のように受け入れている顔をしていた。恋規の最初のページに、新しく小さく書いた。


《抜け道は、使った瞬間から前例になる。前例は、誰かを助ける。前例は、誰かを縛る。》


まだ意味は半分しかわかっていなかった。その夜、黒い演算脈はまだ黒いままだった。学生ポータルの右上には、昨日から新しい表示が出ている。


出生証明試験まで、残り二十八日。


角については一日で先例を作れた。自分自身については、まだ分類欄すら作れない。恋規の余白に、知らない筆跡が一行増えていた。


《身体で勝てたなら、次は名前で勝て。》


私はその字を書いた覚えがなかった。


✦


結の左足が上履きを履いていない、と生活指導端末が判断したのは翌朝だった。足は上履きを履いていた。ただし、結から三十センチ離れた場所で。


「規定位置外です」


玄関の端末は同じ文を三回繰り返した。結は靴箱にもたれたまま言った。


「私もそう思う」


「直せないの」


「今日ちょっと同期が悪い」


彼女は再生死者だ。死んだ後に何をどう継ぎ足したのか本人も全部は知らない。学院の医療契約では、身体位置のずれは「継続利用可能な軽微な不整合」に分類される。軽微なので治療対象ではない。軽微なので授業は休めない。軽微なのに校則違反にはなる。制度は身体より健康だった。


「申請書ある?」と私。


「ある」


結は鞄から三枚出した。身体特性申告書。履物例外届。位置不整合時一時通行許可願。


「いつ用意したの」


「昨日」


「私の角の件を見て?」


「うん」


「私が頼むと思った?」


「頼まないと思った」


「だから?」


「先に用意した」


結は左足を見た。


「結果、自分に使うことになった」


私は三枚を見比べた。履物例外届は靴について書く書類だ。結の問題は靴ではない。靴は正しく足を包んでいる。位置不整合時一時通行許可願は、身体の位置ずれを前提にしている。ただし許可対象は廊下の通行で、玄関の服装確認を免除するとは書いていない。身体特性申告書は最も広い。広すぎて、処理に七営業日かかる。一限は十四分後だった。恋規を開いた。


《彼女は約束の場所に来なかったのではない。彼女の左足だけが先に来ていた。待ち合わせ違反を問うには、まず「彼女」の範囲を決めなければならない。》


「これ書いた人、絶対に恋愛したことない」


結が言った。


「役には立つ」


「否定はしない」


私は端末の表示を見た。


《上履き未着用》


「未着用って、誰が?」


結が一度だけ瞬いた。


「私?」


「主語がない」


端末の側面に問い合わせボタンがあった。押す。


『教務事務、印南です。おはようございます。ご用件を簡潔に、ただし必要事項を漏れなくお願いします』


無理な要求だった。


「上履き未着用判定についてです。履物は身体に装着されていますが、身体の一部が本人の基準位置から左に三十センチずれています」


沈黙。紙をめくる音。


『本人とはどの範囲を指しますか』


「それを聞こうと思って電話しました」


さらに沈黙。


『少々お待ちください。本人性の所管を確認します』


保留音が流れた。校歌だった。歌詞は「社会へ、明日へ、適応へ」。三番まで聞かされた。印南さんが戻った。


『本人性は教務ではなく存在登録室です。ただし存在登録室は身体位置を扱いませんので、身体位置については保健管理課になります。保健管理課は履物規程の適用権限を有しません。したがいまして』


「したがいまして?」


『本件を一時的に未処理とします』


玄関端末の赤表示が黄色になった。


《判定保留》


「通っていいですか」


『禁止されていません』


結が私の腕を引いた。走った。一限には間に合った。昼休み、机の中に小さな紙袋が入っていた。新品の赤ペンが二本。付箋。クリップ。恋規に挟める薄い定規。結が前の席で弁当を食べていた。


「何これ」


「朝のお礼」


「私、何も払ってない」


「払ったよ」


「電話」


「二分」


「二分は二分」


「返礼過剰」


「評価が違う」


紙袋を机に置いた。返そうとした。でも定規がちょうど欲しかった。恋規は余白への書き込みが増えて、ページの端を真っ直ぐ引けなくなっていた。結は私がそれを見るところまで見ていた。何も言わない。定規を鞄に入れた。


「貸し?」


「別に」


「別に、が一番高いんだよ」


結は笑った。その笑いが、私にはまだ何の契約なのかわからなかった。正式な身体位置申告は、まだ審査中だった。玄関では印南さんの一時コードを使った。


その日の夜、私は結の机に大量の封筒があることに気づいた。色ごとに分けられている。赤、青、灰色。


「何」


「返済」


結は隠さなかった。再生治療の費用。身体部品の維持契約。寮費の一部。過去に借りた学生支援基金。額は大きい。でも結は慌てていない。


「全部、返せるの?」


「全部同時には返さない」


「延滞?」


「期限ずらす。条件変える。相手が欲しいもの違うから」


赤封筒は金。青は手伝い。灰色は情報。


「情報で払うの?」


「合法な範囲」


「その言い方が怖い」


結は封筒を一枚閉じた。


「借りって、お金だけじゃないよ」


「知ってる。結見てると」


「綴ももう作ってる」


「何を」


「昨日、印南さんに電話した」


「それが?」


「次に電話したとき、印南さんは綴を覚えてる。前より説明が一分短くなる」


私は言い返せなかった。


「それも資産?」


「関係」


「同じ?」


結は少し考えた。


「違う。でも使える」


その答えが、結の全部だった。人と資源は違う。違うのに、どちらも使える。その封筒の一番下に、宛名のない灰色が一枚あった。


今月掛け。


「これも返済?」


「違う。講」


「何の」


「灰区の互助。五百円。払えない月は手伝いでもいい」


結は封筒から硬貨を出した。


「何に使うの」


「今月は三年の人の面接靴。先月は一年の歯。再来月は知らない」


「順番?」


「必要な人」


「誰が決める」


「集まった人」


ずいぶん曖昧だった。でも結は、銀行の引落しより先にその五百円を封筒へ入れた。


「自分、借金あるのに」


「あるから払うんだよ」


意味が分からなかった。


「困った時、ここから借りる?」


「借りるかも。借りなくても、誰かが借りる」


「返ってくる保証」


「人が残れば」


契約としては弱い。関係としては、たぶん強かった。この頃の私は、それをまだ区別できなかった。この頃の私は、その考えを危険だと思っていた。後で、自分も似たことをする。結の左手首には、細い銀色の腕輪があった。装飾品ではない。中に、礼という古い幽霊がいる。結の再生処置より古い債務記録に紐づいた存在で、身体の位相がずれ過ぎると金属音で知らせる。必要なら、止める。結はだいたい無視して、あとで再計算する。


「友達?」と私が訊いたことがある。


結は少し考えた。


「長期契約」


腕輪が二回鳴った。


「今のは?」


「異議」


礼の方は、たぶん別の分類を使っていた。


その日の一時コードが出た時、結は一秒だけ肩の力を抜いた。


問題が片づいた安堵というより、私がまだ結を必要としていると確認した顔に見えた。その時は見間違いということにした。


✦


放課後、結の整備についていった。私が教室で待っていると言うと、結は『待合室、椅子に課金されない』と答えた。


保健管理課のベッドには、首の角度が間違っている女子が寝ていた。指先が青白い。呼吸もない。看護師は首を直す前に、鎖骨の下へ二枚の札を置いた。


《身体停止から四分。継続核、残存。原簿照合、一致。》


細い管が胸へ入る。女子は突然、咳をした。


「次、体育なんですけど」


「今日は見学」


「出席点は?」


「戻って最初に聞くこと?」


「死んだ分、引かれたら困るので」


看護師は端末に何か入力した。女子は右手を開こうとして、薬指だけ開けなかった。


「感覚は来週まで遅れる。強く握らないで」


女子が出ていってから、私は空いたベッドを見た。


「原簿があれば戻せるんだ」


「照合できるだけ」看護師が言った。「写真が残っていても、撮られた人を写真から引っ張り出せないでしょう」


結が制服の襟を少し下げた。胸骨の上に、薄い縫合線。


「私の場合はここ。身体が止まっても、連続してる本人が残れば戻せる」


「壊れたら?」


「戻る私がなくなる」


看護師がその線へ読み取り器を当てる。


《停止後・無処置回収限界十二分。保全処置下では延長可。核破断時は再生対象外。》


「十二分って短くない?」


「料金表だと長い方」


結は右手でペンを持ち、整備票に署名した。左の腕輪が鳴る。


「礼もそこにいる?」


「別人。別契約。礼を助けても私は戻らないし、私を助けても礼の借金は消えない」


「残念だね」


「本当に」


廊下を順平先輩が通り、看護師に工具箱を渡した。補助扉の鍵が腰で鳴る。


「地下の保全台、使える?」


「動く。搬送用で、部品再生はできない」


「十分。来週の公開実習、人手が足りないから」


先輩は返事をする前に、私たちを見た。


「何か買って帰る?」


仕事が増える話を聞いた時より、少しだけ声が軽かった。


診察室を出た結は、私の曲がった襟を右手で直した。頼んでいない。止めようとして、やめた。


「十二分、覚えた?」


「忘れたい」


「私も。でも、綴が覚えてるなら一人分楽」


右の親指が、襟から離れる時に顎へ触れた。結は気づかない顔をした。私には、それが気づかない顔だと分かった。


✦


御影律は、私のことを嫌っているわけではない。これは本人から言われた。


「嫌悪は観察精度を下げますので」


つまり好いているわけでもない。たぶん。律は吸血鬼だった。古典的な意味で。日光は苦手。鏡には映る。ニンニクは好き。血液は必要だが、校内では栄養管理室が提供する認定パック以外を飲むと食品衛生違反になる。吸血行為より食品衛生法の方が強い。本人はその事実を気に入っていた。


「法律は再現性があります」


「吸血鬼は?」


「家によります」


実習室で、私たちは《異類存在の公共空間利用に関するケース演習》をやっていた。課題は簡単。人間の商業施設で、変身中の狼男が自動ドアを壊した。誰が何を負担するか。簡単ではなかった。


「所有者責任」と誰かが言った。


「占有者責任」と別の誰か。


「本人が犬扱いなら飼い主責任では」と三列目。


狼男の生徒が怒った。白石先生は嬉しそうだった。


「では境野さん」


私を指した。


「どう整理しますか」


私は恋規を開いた。横から律の視線が来た。軽蔑ではない。資料価値を測っている目だった。


「最初に、狼男を何として扱った自動ドアなのか確認します」


教室が静かになった。


「ドア?」


「人として認識して開こうとしたのか、動物としてセンサー対象外だったのか、異常物体として閉じたのかで、事故の原因が違います」


白石先生が頷く。


「続けて」


「狼男の変身を本人の身体状態とするのか、能力使用とするのかも必要です。能力使用なら施設利用者側の注意義務が重くなる。でも身体状態なら、施設側の合理的配慮の話が出る」


「合理的配慮を主張しますか」


「まだ。分類を決めてから」


律のペンが動いた。速い。ノートの上部に《境野綴・分類前提の置換》と書かれているのが見えた。


「勝手に名前書かないで」


律のペンが止まった。一秒。それから一行、横線を引いた。名前の上に。消さない。ただ線を引いて、その下に何かを書こうとして、書かなかった。何を書くつもりだったのか聞かなかった。律はペンを置いて授業の続きを見た。


「発言者の特定は必要です」


「匿名にして」


「理由は?」


「なんとなく嫌」


律はペンを止めた。


「『なんとなく』は理由として処理できません」


「処理しなくていい」


「では記録します」


「話聞いてた?」


「聞いたので、記録しない根拠が不足していると判断しました」


結が後ろから小声で言った。


「律に嫌って言うなら、証拠をつけた方がいいよ」


「嫌に証拠いる?」


「律には」


実習後、律が私の机まで来た。


「先ほどの記録について」


「消す?」


「いいえ」


「じゃあ何」


「あなたが不快であると述べた事実を追記しました」


「悪化してる」


「改善です」


「どこが」


「後から第三者が読んだ場合、私があなたの意向を認識していたことが残ります」


私は律を見た。


「それ、将来の自分を守ってる?」


律は少し口元を動かした。


「将来の全員です」


その日の放課後、私は恋規の余白に書いた。


《御影律。記録は盾。たぶん槍でもある。》


ページを閉じたところで声がした。


「後半は推測ですね」


振り向くと律がいた。


「見ないで」


「開いていましたので」


「私の本」


「公共の机」


「最悪」


「嫌悪は観察精度を下げますよ」


「今ちょっと上がった」


律は本当に、ほんの少し笑った。その笑いを記録しなかった。まだ。律のノートは、午後にはもう噂になっていた。


「御影のデスノート」


誰かがそう呼んだ。書かれると生活指導に提出される、と一年生が本気で信じている。律は訂正しなかった。


「違うなら言えば」


「訂正する必要がありますか」


「怖がられてる」


「規程違反を抑止するなら副次効果があります」


「使うんだ」


「私が流した噂ではありません」


それは事実だった。だから余計に律らしい。放課後、血液管理室へ付き合った。理由は、私が律を観察し返したかったから。窓口では本人確認、栄養使用量、持帰り本数、保冷剤返却履歴まで確認する。律は全部、完璧に提出した。職員が言った。


「御影さん、先月の一本、返却記録だけ未反映ですね」


律の顔が変わる。


「返却しました」


「こちらには」


律は鞄から写真を出した。返却箱。日付。時刻。さらに一緒にいた生徒の確認メッセージ。


「そこまで残す?」


私が小声で言う。


「以前、一度なくなりました」


「血液が?」


「返却記録が」


その一度のために、今は全部残している。記録は趣味ではなく傷跡だった。職員は写真を見て処理を直した。律は礼を言う。外へ出てから私が言った。


「一回失敗したから全部記録するの?」


「一回で十分です」


「疲れない?」


「失う方が疲れます」


それ以上は聞かなかった。恋規の《証拠》の章に、私は一行だけ加えた。


《記録する人には、記録しなかったせいで失ったものがあるかもしれない。》


次の日、余白の横に細い字が増えていた。


《推測。ただし方向性は否定しません。 御影》


勝手に私の本へ書いた。私は怒った。ページは消さなかった。


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