第25章 血算杯――十二分
「結を動かす」
私が言うと、律はもう自分の袖を裂いていた。肩の傷は閉じていない。
「核の周りを押さえないで。病院で聞いた通りに」
順平先輩が結を抱え上げた。腕がない分だけ軽い、とは思いたくなかった。思った。先輩は保守通路を見た。
「地下の保全台まで六分。扉を開ければ」
「開けて」
「競技中に使うと、協力者権限が消える」
先輩は鍵を出した。
「六分で行く」
回収の腕が床から出た。私は結の学生証を読み取り器へ押しつける。
《競技脱落資産。移管手続中。》
「脱落と所有者変更は別。本人継続中。処分同意なし」
《身体停止中につき意思確認不能。》
「意思確認不能は、同意ではない」
三秒。
《移管判定照会。猶予九十秒。》
「短い」と律。
「走る分」
保守扉の前に、別の参加者がいた。私たちの荷物を見た。結を見た。
「その子を置けば通す。回収報酬、半分でいい」
順平先輩は歩幅を変えなかった。
「どいて」
学生が腕を振った。爪が結の喉へ向く。先輩の片手が学生の頭を掴み、扉へ押しつけた。
一度。
学生の膝が折れた。先輩は倒れた身体を蹴らず、跨いだ。
「核は?」
律が聞く。
「見てない」
先輩は鍵を回した。端末が腰で鳴る。
《施設協力者権限・停止》
「後で」
何に返事をしたのか分からなかった。
通路の途中で結の足が引っかかった。八センチのずれが、角では三十センチになっていた。私は靴を外そうとして、やめた。靴を脱がせても足は残る。
「基準位置を変える」
自分の上履きを結の左足の下へ置いた。ここを床とする。結が何度もやっていた計算を、声に出した。うまくいかなかった。二度目、足がこちらへ寄った。
律が後ろで何かを切った。棚が倒れる音。小さな呻き声。振り返る余裕がなかった。
保全台は一台しかなかった。順平先輩が結を寝かせ、電源を入れる。
《登録者照合》
私は原簿番号を読んだ。数字を間違えた。律が訂正した。怒らなかった。それが怖かった。
十八時十四分。
保全線が胸の縫い目へ吸い込まれる。赤い表示が一つ消える。残る。もう一つ消える。
《核保全成立。身体復帰を開始。右上肢、欠損。補完不可。》
結の喉が動いた。
「……襟」
私は自分の襟を触った。曲がっていた。右肩の残った部分が、小さく持ち上がる。腕はない。結はそこを見た。長く見た。
「高そう」
誰も笑わなかった。結も笑わなかった。
台の横に退出ボタンがあった。単独通過。結を保健管理課へ送れる。私たちは残る。
「押して」
私が言うと、結は左手をボタンへ置いた。押さない。
「綴も一人で出られる。上の扉。分類審査へ行けば、競技は終わる」
「調べたの」
「最初に」
「何で言わなかった」
結は息を吸いかけた。息を吸わなくても喋れることを忘れたようだった。
「一緒に残る方を、選んでほしかった」
私は右肩を見た。見てしまったことを、結が知った。
「腕の分まで、残らなくていい」
その一言には計算表がついていなかった。
律がノートを机へ置いた。
「再配置の根拠を崩せます。ただし、四人の確認が要る」
結が見る。
「私、書けない」
「口頭記録。あなたが許可すれば」
「許可する」
律は端末を開いた。
「助けてくれたんだね」
結が言った。
律は録音の印を見たまま答えた。
「あなたに死んでほしいと言ったことはありません」
結は頷いた。その先を求めなかった。
私は上の扉へ行かなかった。端末に、四人分の同意を入れた。結が費用を読み、律が根拠を示し、先輩が失った権限の移転不能を説明した。私は分類できないまま再配置への理解を要求する矛盾を書いた。
送信。
返事を待つ間、結の左手を握った。礼の腕輪が、握った指の上で一度鳴った。右側は空いている。
「戻ったから、許したわけじゃない」
「知ってる」
「でも、ここにいて」
結が私の指を握り返した。左手の力は、思っていたより弱かった。
《再配置判定保留。現編成群暫定維持。救護行為を含む相互運用能力を追加評価。》
上の窓でフランチェスコが拍手した。
「そういうものが見たかった」
私は画面を閉じた。結の右手が持っていた端末は、まだ壁の中だった。




