第23章 返すもの
二十九日目、午前八時十二分。残り一日。結の予備案が、その時刻に無効になった。死者は死ぬことに慣れている。予備案は違うらしい。結は通知を三回読んだ。顔は変わらない。ノートだけが速くなった。
出生証明試験実施要領・改訂第七版。
昨夜二十三時五十九分公布。今日零時施行。変更点は一行。
安定化のために第三者との継続的霊的・心理的・法的関係を利用する場合、当該関係自体を補助機構とみなす。
礼。結の腕輪。三年間の生存方法。一行で「補助」にされた。
「いつ改訂されたの」
私が聞く。
「公布、二十三時五十九分」
「異議申立て期限」
「施行前日まで」
「公布前」
「そう」
「素敵」
「制度上は可能」
そこまで言って、結のペン先が紙を破った。礼が鳴る。
「礼は?」
「うるさい」
礼がもう一度鳴る。
「結」
「時間がない」
「今、何してる」
「代替」
「何個」
「十二」
八時十五分。三分で十二案。結が危ない時の速度だった。
「案一。礼を試験室外に置き、関係だけ維持」
律が言う。
「条文は継続的関係そのもの。場所では回避できない」
結が横線。
「案二。関係停止届」
礼が冷たく鳴った。
「本人不同意」
「死人に拒否権ある?」
私。
「学校が補助機構として別主体認定するなら、同意能力も認めるべき」
律。
「それは争える。ただし審査は七営業日」
横線。
「案三」
私は結のノートを閉じた。彼女の手が止まった。
「返して」
「嫌」
「境野」
「恩田」
この呼び方をすると、結は少し怒る。今は、その怒りが必要だった。
「あなた、私の本を勝手に預けたよね」
「同じにしないで」
「環境変数の訂正」
「返して」
「今、あなたが自分にしてること、私にしたのと同じ」
「何が」
「外部を外すと何も残らない前提で、最短で別の外部を探してる」
結は黙った。礼も黙った。律は第三巻を閉じた。順平は窓際から何も言わない。私はノートを結へ返す。
「あなたが礼を使ってたんじゃない」
結が私を見る。
「礼との関係で、あなたが何をしてたか考えて」
「安定化」
「違う。答えは自分で」
「白石先生みたい」
「律にも言われた」
「最悪」
「教育が成功してる」
結はノートを見る。三分。五分。九分。予定表を開いた。礼との過去三年分の記録。失敗。回収。睡眠。交渉。借金。危険時に礼が止めたこと。結が礼を無視したこと。結があとで方法を直したこと。
「……礼は、私を固定してない」
誰も答えない。
「反対してた」
礼が一度鳴る。
「私が何か決める。礼が違うって言う。私はコストを計算する。変えるか、変えないか決める」
また一度。
「安定だったのは礼じゃない」
結は自分のノートを見た。
「修正できること」
私は言わない。結が続けた。
「間違えても、次の案を作れること」
礼が温かくなる。結は新しいページを開いた。
独自解法――改訂第二版。
その下。
基準:固定ではなく、再計算可能性。
「試す」
一回目、六十八。二回目、七十三。三回目、七十九。結が舌打ち。
「低い」
「昨日まで礼込みで九十四」
「比較しないで」
「比較好きでしょ」
「都合悪い比較は嫌い」
「正常」
四回目、八十四。結は息を吐いた。礼が腕輪で鳴る。
「礼は何て」
「『やっと』」
「口悪い」
「三年一緒にいる」
それで、二人とも笑った。翌日が試験だった。結の最高の予備案は消えた。その代わり、予備案を作る本人が残った。
✦
礼を外す練習は、試験要領改訂の前から結がしていた。知らなかった。改訂通知の後、彼女が腕輪を机へ置く。
「何秒」
「昨日、四十七」
「今」
「測る?」
「聞いただけ」
結が腕輪を外す。礼の気配が薄れる。二十秒。結の左肩が少しずれる。三十五秒。声が二重になる。四十八秒。左足がさらに十センチ。五十二秒で戻す。結は呼吸を止めていた。発声と身体整備のための呼吸はしても、常時の酸素供給を生命維持条件にはしていない。それでも、疲れた顔はする。
「今、何を使った」
「壁」
「壁?」
「床の線。机。綴の声」
「私、何も言ってない」
「いる」
結が言う。その一言だけ、計算ではなかった。礼が腕輪の中で鳴る。結は触る。
「試験では私も外」
「知ってる」
「じゃあ今、いるのは練習違反?」
「試験じゃない」
「便利」
「規則読むの得意だから」
結が笑う。改訂前の練習では、礼なしで六十秒、九十秒まで伸ばせた日もあった。予備案が死んだ時、全部がゼロになったわけではない。結はこっそり、自分を残す練習をしていた。
✦
少し前、同じ二十九日目。六時五分。律が十一頁の文書を机に置いた。ホチキス止め。表紙。
五変数時間固定における同時理解補助資料
右上。
作成者:御影律
印刷:04:17
その下、小さく。
備考:個別指導ではない。再現可能な観察結果の共有。
「四時十七分」
「眠れなかった」
「私のため?」
「資料作成のため」
「同じでは」
「分類が違う」
「大事?」
「今は」
律は座った。薬瓶は机にない。鞄の中。十一頁には、私の失敗パターンが全部あった。順番に固定する癖。感情語に依存し過ぎる時。決定を個別化し過ぎる時。五つを一つとして扱えた瞬間の測定値。ただし、答えは書いてない。そこが律だった。
「これ、助け?」
「共有」
「私だけに」
「現在、同条件で困っている観察対象があなたしかいない」
「都合いい文章」
「正確な文章」
私は十一頁をめくった。最後に改訂履歴。
v1.0:感情変数を外乱として除外。
v1.4:外乱仮説を保留。
v2.1:感情変数と精度上昇の相関を確認。
v2.7:抑制時より非抑制時の方が再現性上昇。
v3.0:感情変数を入力信号として正式採用。
その下、一行。
非運用変数:境野綴の合格を望む。扱い:除外しない。
私はそこを指した。
「これは?」
律が見た。
「改訂」
「方法論の?」
「そう」
「それだけ?」
沈黙。
「質問形式が不適切」
「私と?」
律は鞄を開けた。薬瓶を出した。机に置く。以前なら、ここで使う。蓋には触れなかった。
「編入直後から、あなたを観察してきた」
「知ってる」
「最初は分類できないから。次は比較対象として。その次は、研究対象だから」
「うん」
「その説明で足りなくなった時、説明を増やした」
第三巻を開く。ページの端に、色の違う付箋。十一枚。
「説明を増やしても、結果が同じだった」
私は待った。律は、薬瓶を鞄に戻した。ポケットではない。鞄の底。
「除外しない」
それだけ。四日目の自分のノートを出した。一行。
『壊れた制度でも、証人は必要』――御影。
律が止まった。
「持ってたの」
「四日目から」
「言わなかった」
「あなたが記録終わるまで待ってた」
「二十五日」
「丁寧だから」
律は目を閉じた。一秒。第三巻に戻る。新しい欄。
二十九日目。相互観察の存在を確認。
その下。
十一頁。試験後に提出予定。
ペンが止まる。
「提出していい?」
言葉が変わっていた。律はデータを「共有」する。申請書を「提出」する。今、十一頁の何かを私に提出すると言った。
「受理する」
律の銀の脈が一度、明るくなった。彼女は書いた。
提出可。受理予定。保留解除。
それから、いつもの顔へ戻る。
「五変数。最後」
「九十九だけど」
「知ってる」
「慎重だから?」
「それも」
「見たいから?」
律はペンを持った。
「それも」
私は式を解いた。百。律は記録した。その記録だけは、保存期間を書かなかった。
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律の方法論改訂は十一頁とは別にあった。第三巻、最終ページ。
旧:完全記録により再現性を確保する。
線。
新:再現に必要な範囲を特定し、それ以外を保持しない。
その下。
理由:記録対象も環境である。観察は無害ではない。
「九条?」
「一部」
「千景?」
「一部」
「私?」
律が私を見る。
「かなり」
珍しく、逃げなかった。
「消した記録ある?」
「あります」
「何」
「消したので答えません」
「強い」
「適切です」
試験前、血液管理室からまた一件、返却確認が来た。律は証拠を提出する。ただし必要な三枚だけ。同行者の私信は出さない。以前なら全部出した。窓口職員が言う。
「他にも記録あります?」
律。
「争点に必要ですか」
「念のため」
「念は根拠ではありません」
私は横で笑った。律も少し笑った。盾は、先が尖ったままだった。ただ、どこへ向けるかを選ぶようになった。
✦
二十九日目。九時。順平は一人で式を解いた。証人なし。香水なし。窓際の戦略席なし。ジャケットだけ。結合式。正当な請求権。彼が選んだ基準は、そのジャケットだった。七つのポケット。空間折り畳み。六年分の領収書。一年目の日誌。空の香水瓶。下層市場の鍵にならない鍵。設備課が「倉橋なら持ってる」と勝手に登録した工具。使えない学生証三枚。彼が学校で生きるために作ったもの。同時に、それを使い続けたことで、学校が彼に作った形。請求権は両方向だった。九十七。順平は空瓶を机に置く。
十二歳の時、最初の変身で体育館の壁が一枚なくなった。相談員に聞かれた。
「何が起きたの」
「分からない。自分が何かも分からない」
相談員は言った。
「じゃあ、そこから始めればいい」
四年後、順平は香水を十一本持って異適院へ来た。全部なくなる前に、自分が何か知るために。瓶は空になった。本人は残った。順平は式を保持した。百。六十三秒。解放。彼は三番ポケットから領収書を出した。裏に書く。
二十九日目。最終練習。結合100。香水0。現在地:ここ。準備:可。
四番ポケットへ入れた。試験後の予定表は空欄。六年間で初めて。順平は空欄を埋めなかった。
✦
その日のうちに、卒業・退寮手続の予備確認が来た。
返却対象物一覧
学生証。施設鍵。貸与端末。図書館資料。制服徽章。
学校活動により取得した非標準収容具。
順平は最後の項目を見た。
「ジャケット」
窓口担当が言った。
「学校活動で取得したなら返却」
「自作」
「学校内で?」
「一部」
「材料は?」
「七割私物。三割、学校が廃棄したもの」
「廃棄物は学校資産」
順平は六年前の廃棄台帳を出した。
「廃棄完了時点で所有権放棄」
窓口担当が読む。
「でも、加工場所が校内」
順平は三年前の設備慣行通知。
学生の自主修繕・自主製作物について、材料所有権が学生にある場合、完成物は学生私物として扱う。
「これ、どこにあったの」
「旧設備課。今は壁」
「有効?」
「廃止通知がない」
担当者が黙った。順平が続ける。
「あと、返却対象って書いてあるけど、学校の所有権とは書いてない。返却先もない」
担当者は書類を見た。ジャケットを見た。
「……返却不要」
「ありがとう」
順平はジャケットを着たまま窓口を離れた。後ろで担当者が規則改訂案を書き始めた。順平は振り返らなかった。改訂される前に卒業すればいい。それも、六年間で学んだことだった。
✦
昼、順平は下層市場の名緒へ一冊の薄いノートを渡した。
「何これ」
「設備の死角。受付の本当の締切。誰に何を出すと早いか。古い様式でまだ通るもの」
「全部?」
「全部は危ない」
「じゃあ?」
「使う人が覚える分だけ」
名緒は最初のページを開く。
規則は保存するな。運用を保存しろ。運用は人に分散しろ。
「学校に見つかったら?」
「もう見つけても遅い」
順平はサンドイッチを食べた。
「俺がいなくても、誰かが知ってる」
下層市場の奥で、二年生が別の一年生に、監視カメラの死角を教えていた。順平は見た。何も言わなかった。悪育が教えたことは、もう悪育だけのものではなかった。
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順平先輩が返した物は、ジャケットの中身だけではなかった。設備課の予備鍵も、学生課の旧様式も、一つずつ正式な場所へ戻していった。誰かに全部を引き継がせるのではなく、次に困った人が自分で聞ける程度だけ残した。
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返却物の最後に、順平先輩はジャケットの内ポケットから細い紙を出した。ゲームセンターのプリクラ。あの土曜日に撮った四人。五枚のうち、全員ひどかった一枚。私の角。結のずれた足。律の白い顔。順平先輩の耳。
「持ってたんだ」
「持つって言った」
「返す?」
「返却物じゃない」
「じゃあ何で出した」
先輩は写真を見た。
「ジャケット洗うから」
「今?」
「卒業前に一回くらい」
六年分のジャケットを、今さら洗うらしい。律が写真を受け取る。
「紙が退色しています」
「記録する?」私。
律は考える。
「複製しません」
「なんで」
「一枚しかない状態も、情報です」
結。
「誰が持つ?」
また始まる。私。
「共同管理」
「寮室は卒業したら別」結。
律。
「順番に保管する?」
順平先輩。
「面倒」
九条が通りかかる。写真を見る。
「四人でじゃんけんすれば」
全員止まる。普通の答え。
「そういう制度、ある?」結。
「じゃんけんに?」九条。
「勝敗処理」律。
「やめろ」順平先輩。
じゃんけんした。私が負けた。
「負けた人?」
「普通、勝った人」九条。
やり直した。律が勝った。彼女は写真を見て、私へ渡した。
「何で」
「私は勝ったので、処分権があります」
「使い方」
「保管先としてあなたを選びます」
「記録は」
「不要」
私は写真を恋規に挟まなかった。財布へ入れた。曲がる場所。レシートの隣。規則でも教材でもない場所。順平先輩は、洗って乾いたジャケットをその日の夕方にはまた着ていた。見た目は何も変わらなかった。
✦
順平先輩は、間宮先生から預かったままの図書室裏口鍵も返した。正式な貸与記録はない。間宮さんは鍵を見て言った。
「まだ持ってたの」
「六年」
「長いな」
「返せって言わなかった」
「便利だったから」
それだけ。先輩は受領書を作ろうとする。間宮さんが止める。
「貸与記録がないのに返却だけ記録すると、君が六年不正所持したことになる」
私が言う。
「《管理移管》」
律。
「過去の所有を確定せず、現在の管理者だけ変更できます」
間宮さんは三秒考え、用紙をそう直した。棚の場所、特殊蔵書の癖、恋規が勝手に戻ることまで、先輩は三ページに書いた。
「俺いなくても平気?」
間宮さん。
「困る」
先輩の顔が少し曇る。
「でも、その方がいいんでしょ」
「うん」
鍵が先生の手へ戻る。先輩はジャケットのポケットを一つ空にした。その空きが、卒業に見えた。
手続が終わったあと、真壁先生からメッセージ。
《明日、空いてるか》
先輩。《仕事?》
《飯》
返事まで少し時間がかかった。
《行く》




