第22章 人のいない方法
二十九日目。午前三時十七分。残り一日。結は寝ていた。生物学的な意味では、かなり議論の余地がある。彼女の灰色の脈は夜間運転。礼は温かく静止。八センチ左にずれた足は、睡眠中だけ「ずれている」ことをやめ、ただそこにあった。寝ていなかったのは私だ。睡眠不足のまま、保持時間を延ばした負荷課題を開いた。練習パネル。時間固定、四変数。七十八。七十八。七十六。七十八。四回。一日。動かない。試験は明日。合格基準は百。何度も計算した。現在の改善率を外挿すると、本番は七十九から八十二。つまり、足りない。これは励ましではなく算数だった。
恋規があった時より遅い。点も低い。考えている時間だけ増えた。
自分で考えるとは、急に賢くなることではなかった。むしろ一度、下手になることだった。
私は第七・四節を十三回読んでいる。失敗時の資産回収。売却可能記憶。非必須感覚。人格部品。補助寮の学生が手放した「最初の夏」。親の笑い方。驚く能力。学校は、それらを全部、代替可能資産として表に載せる。午前三時十七分。私はもう一度やった。七十四。
「悪化までした」
結は起きない。礼も動かない。天井を見る。天井には「学習効率を損なわない中立的意匠」が採用されている。二十六日見たが、励まされたことはない。そこで、怖いものを正確に言葉にした。資産回収ではない。借金でもない。白石先生でもない。ここまで来て、自分の方法そのものが足りないこと。学校の基準に足りないのではなく、私がなろうとしていたものが、ここで終わること。七十八。ここが限界。それが怖かった。三分、何もしなかった。怖さに名前を付けても、請求書は来なかった。珍しい。
スタイラスを持った。パネルの余白に、自分の字で書いた。
五つを別々に決めようとしているから動かない。
一つの決定が、五つの場所から見えているのでは。
学校の記法ではない。本の文章でもない。律なら「仮説」と書く。結なら「最小コストの解釈」と書く。順平なら、書かずに試す。三つともやった。式を見る。時間上の五点。五つの「決めた」ではない。一つの確定が、五つの時点に影を落としている。和音。保持した。八十四。パネルを見た。もう一度。八十六。もう一度。八十三。落ちた。でも、戻る場所が七十八ではなくなった。スタイラスを置いた。勝っていない。百でもない。ただ、動いた。方向が出た。残りは作業だった。寝た。
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その朝、白石先生から呼び出し。理由。
非標準時間帯における非標準記法使用。
「また料金?」
「今回は指導」
「どっちが高い?」
「指導」
白石先生は午前三時十七分のログを出した。学校の監視システムが、私の手書きを読めず、三種類の申請を自動生成していた。
記号登録申請。
私的言語利用届。
未分類文字列安全確認票。
「全部、私のメモ」
「知っている」
「じゃあ、取り下げて」
「なぜ」
「学校向けに書いてないから」
白石先生が私を見る。
「それを申請理由に書きなさい」
「『私のための字なので』?」
「ええ」
私は書いた。
当該文字列は申請者本人の理解補助のために作成し、第三者による解読・登録・標準化を目的としない。
白石先生は受理印を押した。
「これで学校は読まない?」
「規則上は」
「実際は?」
「監視はする」
「最低」
「教育機関ですから」
書類を返す。
「八十四」
「見た?」
「監視はする、と言ったでしょう」
紙を受け取った。白石先生は何も褒めなかった。それで十分だった。私の字は、学校に読めないまま残った。初めて、学校の中に私だけの余白ができた。
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その夜の別の時刻には、三人も起きていた。私は知らない。後で、断片だけ知る。結は下層市場の帳簿を閉じ、礼の腕輪を外す練習をしていた。十秒。二十秒。三十秒。左足がずれる。壁へ手をつく。礼が鳴る。
「まだ」
もう一度。律は血液パックを一本飲み、第三巻の四十二頁を破るか迷っていた。そこには、私が「嫌」と言った会話の存在だけが残っている。破らない。代わりに保存期間を三十日へ変更する。順平先輩はジャケットの中身を床へ全部出していた。六年分。何を返せるか。何を誰かへ渡せるか。何を持っていないと自分が自分でなくなるか。最後の問いだけ、紙に書かなかった。朝になって、三人とも普通の顔で食堂へ来る。私は知らないまま、サンドイッチを食べる。それでよかった。
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二十九日目。残り一日。恋規がないと、ものはだいたい、もののまま見えた。これは澄んだ感覚ではない。疲れる。食堂は恋愛舞台ではなく、四十九人が補助食品を食べる部屋だった。照明は「生産的周辺照度」。壁には「今日のあなたは昨日の資産価値を超えられる」と書いてある。遠くの赤い脈の学生が、一口ずつ、やけに丁寧に朝食を食べていた。明日の朝食枠があるか分からない人の食べ方だった。卵を食べた。卵は、企業が卵について決めた味がした。温かいので食べた。それでいいものもある。
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二十八日目の朝食。結は私の練習予約と清掃当番を同じ表にしていた。私が見ているのに気づいて、手を止めた。
「本がないと、私違って見える?」
「同じ」
「よかった」
「それが正解?」
「ずっとこれで生きた。今さらインフラを謝る気はない」
礼が鳴る。
「礼は?」
「謝った方がいいと言ってる」
「礼も間違ってない」
「知ってる」
結は私のペンで何か書いた。卵を食べた。それ以上は必要なかった。
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二十七日目。図書館。律は第三巻を「偶然」開いた。律は偶然のページを開かない。そこには、
個人変数分析:非運用文脈
とあった。六秒見せて閉じる。
「わざと見せた」
「索引がずれてた」
「あなたの索引はずれない」
「この区分は分類が難しい」
律は薬瓶に触れなかった。
「試験に間接的に関係するデータ。共有するか検討した」
「結果」
「共有する。共有時の不快は許容コスト」
「結みたいになってる」
「不本意」
「内容は?」
律は第三巻の背を見た。
「まだ整理中です」
それ以上は聞かなかった。律は次のページを開いた。
「五変数、続ける」
「うん」
これが私たちの会話だった。
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順平は窓際に座る。講義で教授の導出ミスを訂正する。言う必要のない一言を言う。図書館で律と私の机に四十分座る。空瓶を置く。
「もう使ってない」
律。
「知ってる」
「持つ運用上の理由は?」
「ない」
「なら、なぜ」
順平は瓶を見る。
「俺のだから」
律は第三巻に何か書いた。順平がサンドイッチを出した。図書館では飲食禁止。当番の司書が遠くから見た。棚の横の箱から小さなコースターを一枚取り、サンドイッチの下に置いた。
「間宮先生の引継ぎメモに、止めても食べる学生が一人いると」
規則違反は消えない。担当が替わっても、被害を減らす手順は残る。順平は食べ続けた。こういうものが、誰にも決定されず普通になっていった。
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二十九日目、七時半。六時五分に一度届いた解を、短時間の標準課題で測り直した。私の数値。結合九十七。空間九十八。熱九十九。四変数時間九十七。五変数、九十一。九十一から動かない。式を見る。五つの時間。五つの決定。律が向かいにいる。結は隣で、私の練習予約と清掃当番を同じ表にしている。順平は窓際で、空になった香水瓶をジャケットから出した。透はいつの間にか後ろに座って、採点補正式を書いている。机の端にコーヒーが二つ置かれていた。今日は誰が置いたのか分からない。誰も同じ方法でここにいない。でも、同じ机の周りにいる。
一つのものが、五つの位置から存在している。私は式へ戻った。五変数。五つの別々の決定ではない。一つの決定が、五つの時間から記述されている。和音。保持。百。四十秒。私はスタイラスを置いた。
「これ」
律が顔を上げる。
「うん」
「一つが複数の場所から見えてる」
「調和原理」
「知ってた?」
「あなたが夜中から近いことは」
「答えは?」
「言わなかった」
「白石先生に似てきた」
律は嫌そうな顔をした。白石先生が後ろから言った。
「褒め言葉として受領します」
いつからいた。誰も聞かなかった。あと一日。今の百を、本番の保持時間まで延ばさなければならない。その時、壁の補修申請ランプが点いた。私は見る。壁紙の継ぎ目。そこに、今まで見えなかった細い黒線がある。律は測定器を見る。
「構造欠陥ではない」
順平は壁を触る。
「保守記録にはない」
透は目を細めた。
「採点対象外」
結は費用表示を見る。
「報告すると二百」
私は線を見る。線の向こうに、部屋とは違う何かが一瞬見えた。四Cと同じ種類の「縫い目」。
「報告しない」
律。
「根拠」
「まだ、何の欠陥か分からない」
結。
「費用も高い」
順平。
「昔からあるかもしれない」
透。
「今、見えたことだけは記録する」
別々の理由で、同じ結論に着いた。私は笑った。誰にも説明しなかった。




