第18章 十六時三十分
律が研究室へ通い始めてから、桐生先生は時々、公開前の資料を持ち出しかけた。
ある日。桐生先生。
「少し見てほしいものが」
封筒。教員評価委員会の内部資料。
「正式には学生へ見せられない」
律の手が止まる。
「では」
「匿名化する」
「目的」
「私の研究室に不自然な評価差がある」
「先生自身?」
「後天術師の教員全体」
梓を見る。いない。
「御影さんなら、記録の偏りが見えると思う」
誉め言葉。能力。信頼。秘密。律に一番効く組み合わせ。
「正式に依頼してください」
桐生先生が止まる。
「正式だと、委員会へ照会が必要になる」
「ではできません」
一度。律は断る。先生。
「そうだね」
笑う。
「偉い」
次の面談で。また別の資料。今度は公開済み。
「これは?」
「公開情報」
「見ます」
線。少しずつ。境界。先生は越えようとする。律は戻す。でも、戻すたび先生は嬉しそう。
「私が昔、これできたらよかった」
その言葉で律は残る。師弟関係は、正しいことだけで作られない。相手の傷を理解した瞬間、帰りにくくなる。
律はその場で公開請求の窓口を調べた。先生は手続きを自分で始めると言った。次の面談は、いつもの時刻だった。
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桐生先生が死んだ日の朝、律は研究室でお茶を飲んでいた。先に申し立てた公開請求。進捗通知。
《受理》。
「遅いですね」律。
「正式ってそういうもの」先生。
「先生が言うと説得力がない」
「反省してる」
「記録します」
「それはもういい」
二人で笑った、と律は後から言った。茶葉は安い。先生だけ砂糖二つ。律はゼロ。いつもの差。次の面談も予定表へ入れた。十六時三十分。それから授業へ行った。桐生先生が死んだのは、その日の午後、研究室の結界が破れた時だった。
律は三限の途中にいた。楕円積分。黒板の右側に式が伸び、窓の外は晴れていた。教室の空気が一度だけ押され、何人かが振り返った。律は次の行を写した。
廊下へ出た時、研究棟の方角から低い振動が来た。非常階段を折れたところで、外壁の色が内側から黒く変わった。
「桐生先生」
梓が立ち上がるより先に、律は走った。私たちも追った。研究棟の扉は自動閉鎖され、《術式汚染区域》の警報が出ていた。
中には学生が三人と桐生先生。非常口が一度だけ開き、学生三人が押し出された。先生は来なかった。汚染式を内側から閉じなければ、結界全体へ広がる。
扉越しに式の光が走った。次の瞬間、結界が閉じた。先生の胸を貫き、継続核も内側の汚染式ごと裂いた。廊下の読み取り器には、照合できる相手が残らなかった。
律は扉の前で泣かなかった。梓が壁を殴り、手から血が出た。私はその手を掴んだ。
「離して」
「怪我」
「後付けだから治るの遅いって言う?」
「言ってない」
「今、思った?」
思ってない。たぶん。答えられない。校内端末。
《教員死亡・資産滅失事案 26-077》
前と同じ画面。律が見る。見ないと思った。見る。
「暫定額」
私。
「まだ」
「出たら教えて」
「律」
「教えて」
声。平ら。夜。研究室は封鎖。机の上にお茶が二つ。一つは先生。一つは律。その日の予定表。
《16:30 御影さん 公開請求の進捗》
境界を越えた先生。断った学生。次に話す予定があった。予定は資産評価に入るのか。私は聞かなかった。律は、その紙だけ写真に撮った。許可を取る相手はいなかった。
翌朝、研究室には角砂糖が二つ、皿に出たままだった。先生は二つ。律はゼロ。
律はいつもの席に十分だけ座った。何も記録しなかった。予定表の十六時三十分だけが、誰にも使われないまま残った。
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桐生征司。暫定損失額。
46,700,000円。
律が三秒見た。
「間違いです」
榊原先生。
「暫定です」
「間違い」
「どこが」
内訳。残存給与。担当授業。研究課題。設備復旧。共同研究。
「技術支援」
小さい。
「これ」
律。
「申告業務のみです」
「未申告が」
「評価できません」
「ある」
「証明してください」
先生が律に教えた言葉。律は笑わない。研究室。ファイル。床結界修理。他研究室の翻訳。データ整形。事故対応。名前。ない。メール。
《桐生さん、これお願い》
《助かります》
《いつもすみません》
謝辞。技術協力。著者ではない。
「名前のない仕事は」
梓。
「死んでも名前ないんだ」
律。
「名前を付けます」
「先生嫌がる」
「死んでいます」
言った。自分で止まる。梓。
「うん」
怒らない。律はその夜から、授業のない時間を全部使った。元学生。共同研究者。設備部。他大学。後天術師の教員。
「桐生先生に何頼みましたか」
一件。二件。百件。誰も悪意で隠したわけではない。
「研究じゃないから」
「ちょっとした技術だから」
「いつもやってくれたから」
便利。判田さんと同じ。でも判田さんは様式へ自分の名前を残した。桐生先生の仕事は、他人の研究を動かす形で消えていた。律。
「先生、記録しろって言ったくせに」
誰も答えない。机。先生の私的ノート。一行。
《今日も著者にならない仕事。》
日付。百七十六回。律は初めて泣いた。泣きながらコピーした。
翌朝、途中まで集めた証拠を仮提出した。追加資料は試験日まで受け付けると、榊原先生が欄外に書いた。




