第七話 おまじない
三の環の高台を駆け降りた男は、朽ちた街並みへ慎重に足を踏み入れた。
虹の幕に照らされた建物の影が、不気味に通りで踊っている。暗がりという暗がりが趣味の悪い、呪い師の天蓋の中のようで、毒々しい色が蠢いていた。赤色と紫色、緑色といった分厚い色。そんな色がだ。
それ以外の気配といえば、遠くから轟く巨人が棍棒を振るう音、ちらほらと見かける暗闇に蹲った灰色の亡者の独り言だった。
鼻を利かせ、匂いを確認したが、鼻腔に流れ込むのは無臭の空気と鋭く鼻の奥を突く冷たさだけ。
凍てつく死の都。
そんな言葉が、男の頭に浮かんでは消えた。
物陰から物陰へと慎重に素早く移動した男は順調に通りを進んだ。
そして凄惨な光景を目の当たりにしたのは、八度目の移動のときだった。
朽ちた街並みに、ぽっかりと開いた穴のように佇んだ、凍てついた庭園へ足を踏み入れた男は、墓石が立ち並ぶ寂しい場所を見つけた。
奈落に墓地とは、どんな皮肉なのかと零した男は、くねくねと曲がる道の先に気配を感じ、足を止め――墓石の裏へ身を潜めた。
その墓石から、二区画ほど先で蹲る何かを目にした。
急いで背負袋から双眼鏡を取り出すと、それが何かを確かめた。
映ったのは、燻んだ緑のコートを羽織った貴族服の男だった。ウエストコートは金糸で縁取られ、ブリーチズは深い黒。首から巻いた白のスカーフは綺麗に波打った布を何枚も重ねた上質なものだと判る。
それは蹲り、灰色で血色の悪い顔を地面へ擦り付けているように見える。
男は双眼鏡の輪っかを、一捻りすると視界をさらに寄せてみた。
「……」男は絶句した。さらに映ったのは、貴族服の男が地面から顔を出した別の男の頭に齧りつく様子だった。
男は、サッと墓石に身を隠し直すと「なんだあれ、なんだあれ、なんだあれ」と、慄きながら背負袋の手稿を取り出した。
急いで頁を捲ったが、あれが何かを示すものは見当たらなかった。正確には、読めない文字が殆どで、どこかの頁には書かれているのだろうが、そこへ行きつかない。
「くそッ。それじゃ、魔法、魔法、魔法……」更に頁を捲った。
だが、ここで有効な魔法の記述も、どれなのかが判らない。
途方に暮れ、頁を捲る指をとめると、フと腰の皮のポーチへ手を当てた。
ドグマから貰った品々の中にあった紙切れのことを思い出したのだ。
ドグマはそれを、事もなげに〈伝令者の護符〉だと云っていた。伝令者を生業とする者であれば、身を隠すことも、強靭な脚力を得ることも、気に食わない輩の寝首を掻くことも可能だと云っていた。最後の一つは、随分と物騒な恩恵だが、短剣を扱うために身を軽くするものだろうと、男は理解していた。
もっとも、男自身が伝令者である、というのはドグマの言だった。故に、それを信じるのであれば、男の理解はこの場で正しく作用するだろうと希望が持てる。そのはずだ。
果たして、男はポーチから〈身隠しの護符〉をスッと取り出し、両手で挟み一度擦った。その作法を一見で理解するあたり、ドグマの言葉は正しいのだと判った。
※ ※ ※
護符を擦り付け、男は両掌へ視線を落とすと「なるほど」と、ひとりごちた。
ᚱ・ᛁ・ᚷ
三つの言葉が、ひっそりと浮かぶと両掌が薄らとし、石畳が透けて見えたのだ。
墓石に背を預け、両脚を確認すると、やはり同じく透けていた。透けた足先の向こうに、凍てついた木々の姿が薄らと見えた。
男はそれに頷くと、静かに背負袋を背負い直し、それも透けていることを確かめた。
しっかりと透けている。男は「ヨシ」と小さく口にし、静かに墓石の陰から出ると、頭に齧りついた貴族男の方へと慎重に歩いた。
男が目指すのは、貴族男の先に見える庭園の教会だ。そこを抜ければ二の環へ抜けられる。ドグマと手稿の言葉が正しければ、それが最短だそうだ。
男は貴族男の脇を、抜き足で通り過ぎようとした。
齧られている男は、もう生気を感じない。腐れた血に塗れ、脳漿を啜られている。
貴族男は、呪いの言葉を口にしていた。
聞き耳を立てると、貴族男は齧りついた男——弟に戦場で裏切られたのだと判った。酷い話である。それだけを聞けばだ。
正義の旗を掲げ、神を冒涜する隣国トレアシア神帝国と勇敢に闘った兄は、国境付近の村で〈徴収〉を隊に命じたが、それを善しとしない弟に寝込みを襲われ命を落とした。天蓋には、謂れのない死を呪った兄の骸と、夜伽を命じられた数名の村女が身を寄せ合い、泣き崩れた姿があったそうだ。
貴族男は終始、それの何が悪いと口汚く罵り、齧ることを止めなかった。
男は、口汚い呪いの言葉を耳にすると小さく言葉を零し、その場を立ち去った。「正義を破るのは別の正義。でも、あんたのそれは、誰かの悪だったってことだよね。もっともさ、無理矢理はダメだよ——無理矢理は」
※ ※ ※
男が庭園の教会へ到着する頃には、護符の効果も切れていた。
それを確認すると、双眼鏡を背負袋へ戻し周囲を見回してみた。
教会はこぢんまりとしていたが、三角屋根を乗せた建物が三つ並び、真ん中の建物には一際大きな扉があった。そのどれにも、凝った意匠が彫られている。
翼を持った人の意匠。
百合と薔薇の意匠。
それらを眺める、体を捩り自らの尻尾を噛む蛇。
それからは、どのような神を信仰しているのか、男には皆目見当がつかなかったが、ここが近道だと云われたからには扉をくぐらなければならない。
男は、捩れた蛇が自らの尻尾を噛む刻印の扉へ、そっと手をかけると教会の中へ滑り込んだ。
軋んだ音を立てた扉の先は、蒼白い光が差し込む玄関間だった。
さらに先には朽ちた身廊が長く伸び、内陣、後陣へと続いている。
そこかしこに幾筋の蒼白い光が落ち、後陣へ導いているように思えた。
男は、冷たい埃に咳き込みながら、慎重に足を進めた。身廊の半ばまで来ると、天井は大きな半円の殻のような形で膨れ、虹色の硝子で埋め尽くされているのが判った。左右の側廊は、そこから差す様々な光が作った影に落ち窪んでいる。それにどこか、気味悪さを覚えたが、構わず足を進めた。
とうとう後陣と祭壇を前にした男は顔を顰めた。
赤子が無邪気に笑う声が聞こえたのだ。最初は幻聴かと、頭を振ったが、どうもそうではない。男は、笑い声を辿り祭壇の裏側に回ってみた。
「うわッ!」
男は思わず声を挙げると、一歩退いた。
祭壇の裏にあった窪みへ、水草で編まれた籠が置かれ、そこには清潔な白い布で包まれた赤子が寝ていたのだ。無邪気な笑い声の正体は、この子のものだった。
男が挙げた驚きの声に、その子は目を丸くすると一拍の後に大きな泣き声を挙げてしまった。
「ちょ、ちょ、ごめんよ、ごめんよ」
男は慌てて水草の籠を大切に祭壇へ乗せると、赤子をあやそうと必死になった。
背負袋を降ろしガサゴソと中を掻き回すと、やがて勢いよく何かを取り出した。
それは、篝火でドグマが投げてよこした蛙の人形だった。
腹を押せば「ぴッぴッ」と惚けた音で鳴く人形を何度かそうしてみせると、赤子はそれに気を取られ幾分か泣き声を潜めた。
男は、しめしめと蛙の人形を赤子の顔へ近づけた。反応は上々だった。「ぴッぴッ」と鳴らせば、「あーあー」と赤子が答える。
次第に「あーあー」は、鈴のような笑い声に変わった。
男はそれに微笑むと「ドグ爺から貰ったんだ。ドグ爺。判る?」と、語りかけた。
代わりに返ってくる赤子の笑い声は、ここまでの道程で擦り減った何かを埋めてくれるようだった。だからなのか、男は暫くの間、赤子をあやすことをやめなかった。
「えっと。ねえ、君は蛇に挑む蟲って判る?」
判るはずもない。それは判っていた。どうやっても相手は赤子だ。しかし、これだけ奇想天外な道程。何があっても不思議ではないだろうと一縷の望みを抱いてみたのだし、いずれにせよ、この子を此処に置いていくわけにもいかない。
男はそう思うと、あれやこれやと話しかけてみたのだ。
すると赤子は、男が握った蛙の人形を催促するよう、小さな手を掲げ、ギュッと握ったり開いたりを繰り返した。
「これが欲しいのか? でも、ドグ爺は俺が誰かを知っている誰かに、この人形を渡せって云ってたんだよ」男は、顔を曇らせた。しかし、言葉を解するわけでもない赤子は、一層笑うと、手を閉じたり開いたりを続けた。「仕方ない——じゃあ、これを渡したら、少し声を小さくしてくれるか?」
男は蛙の人形を小さな手へ、優しく渡した。
蛙の人形を嬉々と抱え込んだ赤子は、何度か蛙を小さく噛んだり、手足を引っ張ったりした。その最中、小さな指が腹に刻まれた、〈ᛉ〉の文字に触れると、信じられない光景が広がった。
水草の籠が、眩い輝きを放つとスルスルと宙に織をほどいていった。
ほどけた水草の布は幾重にも重なり、宙で揺らぎ赤子を包み込むと更に輝きを強めた。
男は堪らず一歩退がると、腰裏の短剣を抜き放った。「なんだよー! 罠なの?」
——男は更に警戒を強めた。
輝く水草の布は赤子を包み込むと次第にぐんぐんと大きさを増し、そのうちに人の形へと変わると、遂に輝きがパンッと消え去った。そして、そこには腰へ両手を添え、大股開きに立った少女の姿が現れたのだ。
男と同じ白色の外套。
男と同じ皮の胸当てにズボンと長靴。
厚手の黒色のチュニック。
厚手の革手袋にポーチと背負い袋。
そして、腰まである白灰色の髪。
同じ白灰色の瞳。「ちょっと、オジサン。ジロジロ見てないで、物騒な物しまってよ。お爺ちゃんの友達なんでしょ?」
「ちょ、え? 怖っ! キミは誰? お爺ちゃん? どこの?」短剣をしまうどころか強く握りしめ、ジリッと後ろへ退がると背負袋を乱暴に掴まえた。そして、更に距離を取りながら袋を背負い、祭壇で大股開きに立つ少女を訝しげに見た。「——ん? オジサンだって? 俺が?」
「そうそう。失礼なオジサンね。ヨッと——」そう云って祭壇を飛び降りた少女は、床に転げた蛙の人形を拾い上げると、髪を払った。
「私のお爺ちゃんは、この人形の持ち主。ええ、ドグマ・エイワズよ。私はノルン」名乗った少女は、そう云うと蛙の人形を男へ投げて渡した。
「ノルンだって? ドグ爺が云ってたノルン?」蛙を受け取った男は、警戒をとくと短剣を収めた。ドグマの名を耳にすると、爺が云っていた男の素性を知る者のことを思い出したのだ。
「ドグ爺?—— ああ、そう、そのノルンであってる」
「じゃあ、蛇に挑む蟲って判るのかな?」
「ええ。蛇に挑む蟲が産まれたから、私は私の役目を果たすのに、ここで待っていた。そして、オジサンがやって来た」
「キミの役目?」
「そう、私が選んだ蛇に挑む蟲たちと地上へ旅するの」
「ちょっと云ってる意味が判らないのだけど。そもそも最初から判らないのだけどね」
「なら道中で、色々と説明するよ。それでいい?」
「いや、キミはドグ爺のところへ帰りなよ」
「は?」
「え?」
「え、本気?」
「いや、地上までって、俺一人でも大変なのに……。赤ん坊——だったとしても、どうしようか、だいぶ悩んだんだけれど」
「いやいやいや。ちょっと待って。それでも、か弱い少女を此処に置いていくと云ってるの?」
「いや、か弱くないでしょ、もう歩けるんだし。装備もしっかりしてる」
「呆っれた」予想を大きく外れた男の返答に、ノルンはやれやれと大きく溜息を吐き、「あのね、それにさ——」と言葉を続けた。「もう遅いかな。ねえ、〈沈黙の護符〉を出して。私は〈研究者の護符〉しか持っていないから」ノルンは、男へそう頼むと一歩前へ踏み出した。
「え? 何が起こるっての? 普通に嫌なんだけど——この先、何があるかわか——」
「はい?」
「いや、だから、普通に——」
「この、分からず屋! さっさと出して! 気持ち悪いのが来るから」苛立ちを隠そうともしないノルンは、半ばそう叫ぶと、ノシノシと詰め寄り、男の皮のポーチから護符を一枚ひったくった。すると、護符を強く胸にあてがい魔法音素を呼び出した。
ᛁ・ᛒ・ᚷ
緑色の文字が宙に浮かび、螺旋を描くと、ノルンの顔の前へ身を寄せ合った。
ノルンは、それに「良い子」と囁くと、息を吹きかけた。
「え? 今のは?」その神秘的な様子に男は、目を丸くし思わず訊ねていた。ひったくられた護符のことはすっかり忘れているようだ。
「ちょっとした、おまじない。皆んなの使っている魔法は不完全だからね」
ノルンが得意げにそう云うと、教会の外扉がけたたましい轟音を立てながら破られたのが判った。ノルンが警戒した〈気持ち悪いの〉がやって来たのだろう。




