第四話 血映えの月明かり
——朽ちた織物協会館。
赤色の月明かりが、広間で澱み、吹き溜まった暗闇を鋭く引き裂いていた。
その様は、不吉な赤光を嫌った暗闇が、身を捩りながら部屋の隅々へと逃げ込んでいるように見える。黒を丸呑みしようとする赤。それが奇怪な波紋を描き、黒を隅へと追いやっているようにも思えた。
だが、その不吉な波紋は、館の外から轟いた爆音と共に唐突に姿を消した。
「嘘でしょ……」
か細い声を零したのは、会館へと足を踏み入れたアンだった。
薄気味悪い波紋が消えると、途端に周囲から魔力の気配が消え失せた。先ほどの爆風はシュロスが放ったものだろう。つまり、会館を護っていた魔法の結界が外から破られたのだ。
アンは嫌な予感を覚え、すぐさま指を宙に滑らせ魔法音素を呼び出そうとした。
——だが、空中に描かれた緑の軌跡は、形を成す前にパチンと弾け散ってしまった。
会館を覆う結界は、自分たちの描くルーン「だけ」を顕現するもの。
結界が破られた直後、広間の奥で仄かに嫌らしい緑色が灯っているのに、アンは気が付いた。
その正体は、柱に深々と突き刺された一本の短剣。
シニルの胸に差されていたものの一つだろう。
そして、アンは自身の魔法が弾け散った理由を身をもって知った。
あの短剣は、特定の魔法の波長を受けることで魔法音素を呼び出し顕現する魔女の遺物だった。
「もうッ! あの目隠し男、性格悪い! 遺物の無駄遣いも甚だしいわね。教会の裏金って噂、本当なんじゃないの」
「その噂は知っているとも、アンドヴァリ。だが、それよりもだ——お前たちが計画した〈正義の教典〉の奪取。これは究極の大罪だ。何を企んでいる」
広間の暗がりから静かに響いたのは、シニルの声だった。
薄緑の輝きを腰のあたりに揺らし、暗がりへ姿をぼんやりと浮かべたシニルは、赤黒の月明かりと混じり合いながら、足音を立てず広間を滑っていた。それに合わせ、大広間の調度品、大階段、あらゆるものが不吉な輝きに照らされては暗闇に沈むのを繰り返した。
「うっさい、目隠し! 知っていても教えないでしょ、普通」
暗闇に浮き沈みをするシニルの姿を目で追いかけたアンは、ジリっと足場を確かめながら構えをとった。目を離してしまえば、瞬きをする間に自身の間合いを潰されてしまう。
「それもそうだな。聞いたとしても、お前では理解できないだろうしな。だからマリアは、仔細を話さないのではないか?」警戒するアンから、同じく目を離さないシニルは、柱に突き刺さった短剣を抜くと、アンへ投げつけた。続いて乾いた金属音が響いた。
それを軽々と叩き落としたアンは、足元に転がった短剣を一瞥すると訝しげな表情を浮かべた。「何、時間稼ぎがしたいの、目隠し? それとも馬鹿にしてるの?」
「馬鹿にはしていないさ、アンドヴァリ。そうだな、時間稼ぎというわけではないが、お前たちを捕縛するのにシュロスの遺物が必要なのは確かだ」苛立ちを隠そうともしないアンへ顔を向けたシニルは、とうとう暗がりから姿を現した。
「……」アンはシニルの手元へ目をやると、固唾を呑んだ。——右手には、薄緑に輝く刀身の折れた剣が握られている。
「教皇聖下はお前たち大罪人をもって、奈落探索執行を明言された。シュロスの遺物には、それに挑む資格を刻むものがある——」
そう云うとシニルは指を宙へ滑らせながら、奇怪な軌跡を描いた。
アンは、それに体を固くしたが、描かれた軌跡が〈蛇燭教会〉を示す印であることに気が付くと、頬に流れた汗を拭い去った。「ねえ、目隠し。ご高説はまだ続くの? 早くマリアたちの所へ行きたいのだけれど」
「——お前たちは赤光に癒され、縛られ、刻印が示す威光を体現しなければならない。そうだな、ご高説はここまでだ。外も決着がつく頃だ」シニルは冷たく口を歪め、折れた剣を掲げた。
※ ※ ※
——どのような形であれ、魔法を封殺されることは想像していた。
それを確実に決めるには、極めて限られた空間へ誘い込み特定の個人を封じること。それも判っていた。シニルはそれを目論むはずだ。だからこそ、あの〈豊穣の短剣〉はヴォーデに託した。迎え撃つと決めた時から丸腰の状況は覚悟のうえだ。
そうなれば、アンの勝機はただ一つ。
シニルの懐へ飛び込み、殴る、蹴る——その一択である。シニルが胸の短剣を抜く隙、魔法音素を描く間。剣を振るう間。その一切を封じてしまえば良い。何よりも、アンは魔法の素養でこそマリアに劣るが、体術においては、剣を構えたヴォーデと対等に渡り合えるのだから。
「あっそ。じゃあ、こっちも決着をつけないと——ねッ!」
言葉尻に力を込めたアンは、地を這うように体を前のめりに駆け出すと、圧倒的な速さでシニルの懐へと肉薄した。
シニルはそれに素早く半歩退り、極めて短い魔法音素を描き始めた。
ᚺ・ᛒ
……しかし、魔法が閉じられ、結ばれることはなかった。
「目隠し、遅いッ!」
懐へ飛び込んだアンは、右の掌底でシニルの左手を鋭く払い、がら空きの胸元へ肩を強烈に叩き込んだ。そして、そのまま流れるように脇を締め、短く両拳を繰り出して、シニルの制圧にかかる。しかし、何度かシニルの持つ折れた剣を狙ったものの、それを叩き落とすにまでは至らなかった。シニルのしなやかな左手の動きは、アンの猛攻を最小の被害で凌ぎ切った。
アンの息が続く間、猛攻は止まなかった。
次第に距離が詰まり過ぎてしまったアンは、鋭く息を吸うとシニルを半歩押し出して、次の連撃を放つ間合いを作り出した——その時だった。
「魔法使い、それも研究者のお前では、息が続かないだろ」
ほくそ笑んだシニルは、そう云うと折れた剣の柄頭を軽く叩いた。
それを合図に薄緑の輝きを濃くした折れた剣は、刀身から次々と魔法音素を浮かべ、くるくると螺旋を描いた。
ᚺ・ᚦ・ᛒ・ᚨ・ᚢ・ᛏ
「まずった!」アンは浮き出た魔法音素を目にし、ハッとすると顔を曇らせた。
全身に汗が吹き出したのを感じた。
背中に流れる一筋の感触。
両掌に滲み出た粘りのある汗。
額に浮かんだ汗が両頬を流れ落ちた——シニルの最初の魔法音素は、誘いの手。
折れた剣——魔女の遺物にこれだけの魔法音素が刻まれていたとは、予想外だった。
だが、そう気付いた時には、すでに遅かった。
折れた刀身から白い冷気をあげる氷の茨が伸び、這い寄る蛇のようにアンの全身へ巻きついたのだ。
睨みつけるアンの目前で、シニルは剣の握りをグイっと引き上げ、茨は無慈悲にアンの体を締め上げた。
氷の棘が容赦なく肉に食い込み、絶望的な冷気を体へ送り込んでくる。
アンは酷い悪寒に襲われた。
流れ落ちる全ての汗が凍りついたのではないか。
そんな思いに襲われたアンは拳を上げ、視線をそこへ落とした。拳が段々と、薄青い土塊のような色へと変わっていくのがわかった。
そしてアンは、もう一度視線をあげシニルを睨め付けた。「……この、変態目隠し……どうするつもり……」
※ ※ ※
——朽ちた織物協会館・三階の小部屋。
「お願い、目を覚まして。お願い」
瞼を閉じた白灰色の髪の男へ片手を添えたマリアの言葉は焦燥に滲んでいた。内臓を覗かせた傷は概ね塞がっている。しかし、男は一向に瞼を開こうともしない。男が目を覚さないのには、別の理由があるのか。マリアは判断しかねていた——思いつく限りの魔法を使ったというのに。
そう思うと、更に焦燥感に煽られたマリアは男の服を剥ぎ胸を剥き出しにした。
男の胸へ耳をあて鼓動を確認すると両手を滑らせ、必死に要因を探った。
外から腹の底を揺らす爆音が轟いた。
それから少し後には、会館のどこかでアンの声が響いた。
そして、胸に耳を当てた頃には、階下から明瞭な怒声が轟いていた。そこには、もうアンの声はなかった。
マリアの心臓が早鐘を打った——二階から断末魔の声が挙がったように思う。
だが、男の体をくまなく調べることに集中したマリアには、それを正確に判断する余裕すら残されていなかった。とにかく調べ、男を目覚めさせなければならない——焦燥が心臓の早鐘に拍車をかけ、胃の奥から何もかもを押し上げようとしていた。
「お願い、目を——」
その願いを遮ったのは、小部屋の木扉を破った音だった。
マリアは目を疑った——たった今、木扉を破ったのは頸をなくした女魔導師の骸。それが床に転がり、みるみるうちに血溜まりを作った。
「久しぶりだね、マリア。血映えのする月明かりの夜だ、気分は上々かい?」
破られた木扉の向こうに立っていたのは、大剣を担いだシュロスだった。言葉を終えると、大股に小部屋へ踏みこんだシュロスは、血溜まりをことさらに踏みつけると、月明かりを落とす小窓へ目を向けた。
「あ、アンとヴォーデは——どうしたの?」マリアは、転がった骸とシュロスを交互に見ると、声を震わせた。
「安心しなよマリア。あんたらは生け捕りにしろってさ。二階の奴らは皆殺しだけどね」その様子に満足したのか、シュロスは大剣を降ろすと、マリアへ目を戻した。
「そんな、なんて酷い……」
「酷い?」
「ええ。なんとも思わないの?」シュロスの言葉に、幾らか目を鋭くしたマリアは、シュロスを真っ直ぐに睨め付けてそう云い放った。
「あたしを見捨てた——あんたがそれを云うの? これを見ても?」そう云うと、シュロスは護符の大剣を投げ出し首鎧に手をかけた。何度かそれを左右に動かし、鈍い音と共に外して見せると、露わになったのはシュロスの鍵束と、素肌の首元だった。
マリアは目を丸くし両手で口を覆った——シュロスの首にあったのは、大きく刻まれた生々しい傷跡だった。それは首をぐるりと一周している。
「この忌々しい首飾りを使いこなすために、あたしは殺されかけたんだ。いいや、何度か頸が刎ねられたのかも知れないね。じゃなきゃ、こんな不自然な傷跡は残らないだろ? まあ、死に際の記憶なんてものは、無いから知らないけれどね。っと、あたしを見捨てたあんたらには関係のないことか」
「シュロス——何度も、あなたを助けようとした。だから教会にも……」
「ああ、知ってるさ。それは、事情通のシニルから聞いている。でもね、あんたの旦那はもっと別のことが気になったみたいだ——」そう云ったシュロスは、マリアの目から鋭さが失われたことに気が付くと幾分か和らげに言葉を続けた。「——さあ、もう良いでしょ。観念しなマリア。命を奪おうってんじゃないんだ——諦めな」
「お願いシュロス。お願い。お願い」
言葉を終え、護符の大剣を拾いあげようとするシュロスを見守ったマリアは、消え入るような声でそう懇願した。
シュロスは、その痛々しい言葉に耳を疑った。
シュロスが覚えているマリアは気丈だったし奔放を絵に描いたような女だった。師を同じく魔法を学んだ頃のシュロスは内気で内省的だった。常に自信を持てず諦める。そんな毎日を過ごした。だからシュロスは、自分を引っ張るように接したマリアに憧れていた。
そう、憧れていたのだ。
そして、シュロスは再びマリアへ視線を戻すと、顔を歪めた。
そこにあったのは、涙を零し腹を庇うようにしたマリアの姿だった。
「マリア——まさか、あんた……。そうか、そう云うことか」




