第三十話 夢のなか——傍目八目
オライオンの言葉を待たず、トリトンは駆け出していた。
「お母さん!」小さな足が、水溜まりと血溜まり、その合間で飛沫をあげた。
集落の奥深くに黒々と佇んだ牢獄からは「トリー!」と、別の声がした。
刹那に集落を襲った殺戮の嵐。それは蛮族の気味の悪い声も、趣味の悪い様式の臭いも全てを洗い流していた。だから、トリトンの愛称を呼んだ声は、か細かったが、凛と響き渡ったように思う。
オライオンは、走りゆく赤毛の背中と、その向こう側を眺め、小さく笑みを浮かべた。
※ ※ ※
「オライオン! 駄目です!」トリトンは牢獄の前から、弾かれるよう戻ってくると両腕を大きく振り、オライオンを制止した。
オライオンはそれに「いや、なんで? 行かないと鍵開けられないし」と、どうも何かを隠すよう慌てるトリトンの頭を撫で、それには応じなかった。
「それだったら、鍵の開けかた! そう、開け方を教え——」と、トリトン。オライオンは、それに少しばかり訝しげな顔をしたが——どちらにしても檻の前に立たなければならない。
オライオンは強情にも外套から手を離さないトリトンを引きずりながら、柵の前に立った——そして「な、そっか、そうだった!」とオライオンは絶叫すると、慌てふためき後ろのトリトンへ体を向けた。
トリトンが、制止したわけが判ったのだ。
そうだった。集落へ足を踏み入れ直ぐに目にしていたはずだったのに、それをすっかり忘れていたのだ。
柵の向こうの囚人——女たちは、蛮族の儀式のために服を剥がされていることを。
※ ※ ※
柵の向こうから浴びせられた奇異の視線。
オライオンはそれを背に受けると、息せき切って口を開いた。
「ごめん、ごめんなさい! 鍵を開けたいので——ああ、えっと。トリトン! そうだトリトン、俺は目を閉じているから、か、鍵の、ああいや違う。じょうまえ、そう錠前まで引っ張っていってくれないかな? くれませんか?」
「——だから、云ったじゃないですか、駄目だって。お母さんたちへ先に事情を説明しておかないと——変な目で見られますよ。それに、いまさら裸を見られたところで……って引っ張って行った方が良いですか?」トリトンは、最後に大きな溜め息を吐いた。
トリトンが話し終える前にオライオンは両瞼をギュッと固く閉じ、迷子のように両手を突き出していたのだ。「ああ、ああ。そうだね。頼むよトリトン。なんせ俺は、修道士だからさ」
「ああ、はい……」トリトンは、肩を竦めると乱暴にオライオンの両手をとった。
※ ※ ※
「ねえ、トリー。あの修道士様は……えっと、修道士様でいいのよね? 探索者でも、盗賊でもなく、教会の魔導師様?」 トリトンの母——トリーテは、娘がかけてくれた外套の首元をキュッとあげながら云った。
目を固く閉じ、トリトンに手を引かれてきた白灰色の男は、何を口にするわけでもなく魔法のように解錠すると「ふぅ……服と、そうだ! 竪琴! 竪琴を捜してくる!」とその場から逃げ出したのだ。
「ああ、うん——教会の首飾り、してたよ」トリトンは、一際大きな天蓋へ駆け込むオライオンの背を冷ややかに眺めながら答えた。「魔法のことだよね? あたしも訊ねたけれど、結局答えてくれなかったよ」
オライオンの魔法の真偽。それは、生きて母と抱き合える温もりに比べれば些末なことだった。トリトンは言葉を尻すぼみにすると、トリーテの胸にすがり付いた。
小さな瞳から、堪えていた涙が取り留めもなく溢れ落ちた。
※ ※ ※
「おーい! トリトン!」遠くからオライオンの声が聞こえた。
母の抱擁に心地良さを覚えたトリトンだったが、どこか気の抜けた声に呼ばれると、目を拭い「どうしましたか!?」と、声を張り上げた。
返ってきたのは「手伝って」という、ごく短い答えだった。
涙を拭って目を凝らすと、天蓋からオライオンがずた袋を幾つか放り投げるのが見えた。袋の口からは、かき集めた布切れがはみ出ているのが判った。
「おーい!」天蓋からひょっこり顔を出したオライオンが、もう一度トリトンを呼び、必死に手招きをしている。
トリトンは仕方なさそうな顔をすると「ちょっと待っててね」と、トリーテに告げると小走りに天蓋へ向かった。
「どうしました?」
天蓋の陰へ駆け込んだトリトンが首を傾げるより早く、オライオンは膨れ上がったずた袋を次々と押し付けた。
「これ、着るもの! 探したんだけど服がなくて、とりあえずそこら辺から毛布とかタペストリーを引っぺがしてきたから、お母さんたちに配って! あ、そうだ。まだ教会の竪琴が見つかっていないから、 俺はもう少し奥を探してくるよ。みんなにはゆっくり着替えててって伝えて!」そう早口でまくし立てると、オライオンはトリトンの返事も待たず別の天蓋へ駆け出した。
「え……その、背中のは?」トリトンはずた袋をまとめながら、オライオンの背負袋から少しだけ覗いている、美しい湾曲を描く白木の何かを指差した。
※ ※ ※
重いずた袋を幾つも引きずりながら檻へ戻ってきたトリトンから、事の次第と布を受け取った女たちは、口々に思い思いの言葉を零した。
「まあ……わざわざ、天蓋の布を剥がしてきて……」
「ところで、修道士様は?」
「麻紐もあるよ。これで腰をくくったら?」
「あの方は、教会の方なの?」
「このまま街に戻ったら、献金を? どうしよう」
どこまでだったかトリトンは、女たちの言葉に何かしらか応えてはいた。だが、その声のどれもが、極度の緊張、絶望、失意、そんなものから解放された安堵の声であることに気が付くと「修道士様は、そのうち戻ってくると思います」と、目をぐるりと回し肩を竦め、その場を離れた。
「ねえ、あの修道士様の名前は?」女たちの輪から離れたトリトンを迎えたトリーテは、オライオンが姿を消した方を眺めポツリと訊ねた。
「オライオン・ヒューレイ。それが、どうしたの?」トリトンは、ことさら訊ねられたことを不思議に思うと訝しげに答えた。
「ええ。あの白灰色の髪に瞳。ほら、よくトリーにも話したでしょ、名もなき聖人様のお話。困った人たちを救っては名乗らないで、いつの間にか姿を消しちゃう魔導師さん」トリーテは、パッと顔を明るくすると、手振り身振りでトリトンへ返した。とくにオライオンの名を耳にして思い出したようではなく、向こうから何やら、またぞろ大荷物を持って帰ってくるオライオンの姿にピンと来たようだった。
そうこうするうちに——女たちがすっかりと肌を隠した頃合いに、オライオンは、とぼとぼと牢獄へ戻ってきた。手には、まだまだ口にできそうな乾燥肉や何かの果実、綺麗な水が入った壺を抱えていた。「ねえ、トリトン。みんなお腹すいているよね。これを渡してあげて」
※ ※ ※
「ああ、大丈夫だよトリトン。ありがとう」
オライオンは、小さなトリトンの肩へすがりつくようにして、どうにかその場に踏み止まった。
トボトボと帰ってきたのには理由があった。
オライオンの視界はひどく歪み、足元は泥濘に沈み込むように覚束なかったのだ。
酷い船酔いにも似た悪心。水彩画の世界に描かれた〈オライオン〉という器を借りた状態は、離れた場所にいたはずのトリトンとトリーテの会話すらも脳裏へ直接響かせオライオンの存在という感覚を歪めた。
トリトンから食料を受け取った女たちはオライオンの元へ押し寄せ矢継ぎ早に感謝の言葉や不安を投げかけた。
フラフラとしたのは、押し寄せる喧騒にも一因があった。オライオンはそのすべてを否応なしに耳にしたのだ。
「修道士様、何から何まで本当にありがとうございます!」
「教会にはいかほど……」
「私たち、無事に街へ帰れるのでしょうか」
「どうやって帰れば……また捕まっちゃうんじゃ……」
「知らない男の、子供なんか産むのは嫌だよ」
極限の恐怖から解放された安堵と、救い手への興奮、そして拭いきれない不安。それらの感情が束になり、波のようにオライオンを打ち据えた。
それでも、オライオンは不意に膝を折りそうになる身体を気力で支え、女たちへ向けて片手をスッと上げた。
「街に……。街に帰るまでの安全は、俺が保証します」
静かな、だが絶対的な響きを持つその声に、女たちの喧騒がピタリと止む。オライオンは脂汗の滲む顔を伏せがちに淡々と続けた。
「献金の必要はないです。だからその代わり……俺の名前は絶対に出さないでください。この白灰色の髪も、瞳も、俺に関する特徴を口にしなければ、俺がこの場をどうにかした事実は判らないので教会も献金を求めることはないでしょう」
女たちが、ハッと息を呑む気配がした。
それは安堵の気配、不安の払拭、その合図のように思えた。オライオンはそれに「そうしないと、俺も怒られちゃうんで」と苦笑いをした。
そして、何度か息継ぎをすると続けた。
「街へ帰り着いたら、こう伝えてください。蛮族たちが怪異に襲われている隙を突いて逃げ出した、と。……で、逃げる間、決して神様への祈りを忘れなかったことも、ちゃんと付け加えてくださいね。そうすれば、司祭連中も、それ以上の追求はしないです。神様の奇跡を否定することになりますからね」
※ ※ ※
オライオンの言葉に、女たちは堰を切ったように泣き崩れ、またぞろ思い思いに感謝の言葉を口にした。押し寄せる言葉に、オライオンはやはり苦笑いすると「勘弁してください、こういうの馴れてないんで」と零し、そのまま脱力したように首を揺らした。「あ、トリトンと、お母さん。俺もう駄目かも」
傍に立った二人への言葉。ポツリとこぼれ落ちた、気の抜けた呟き。
それを最後に、オライオンの意識は唐突に器から弾き出された。
酷い眩暈と共に視界が反転する。
次に目を向けた時、オライオンの意識は遥か上空から、先ほどまで自分が立っていた場所を俯瞰していた。
見下ろした先では、意識が抜け落ちたはずの白灰色の男——水彩画のオライオンが、トリトンや女たちに囲まれながら、大掛かりな魔法をかけたようだった。それは、街までの無事を約束する魔法だろう。
—— 一体、これは俺に何を見せたいんだ?
疑問を抱いた瞬間、眼下の光景が、まるで大量の水を含んだ刷毛で撫でられたように、ドロドロと流れ去り、崩壊し始めた。
滲み、混ざり合い、崩れていく色彩の中で、オライオンの思考だけが恐ろしいほどにハッキリとした。
これまでの連続した、不気味なほど鮮明な夢。
散らばっていた記憶の欠片が、一つの線となって繋がり始めた。
オライオンという存在は、すなわち神代の魔導師〈アストロマギア〉の生まれ変わり、若しくはその人だろうということ。だが——その存在は、どの教典、写本、あらゆる文献にも見出すことはない。少なくともオライオンが目にしたものの中には存在していない。
そして驚くことに、アストロマギアは魔法音素を描かずとも、息をするように魔法を使う。そこへ辿り着くとオライオンの頭の中で一つの言葉が浮かんだ。それは人喰いが口にした〈星命線〉。
すると、オライオンの意識の周囲へ、どこまでも広がる闇夜が訪れ、数々の光が線を結んだ。
真理の輪郭を、指先でなぞるような感覚。
だが、そのすべてを掴み取る前に、オライオンの意識は深い泥の底へと引きずり込まれた。そうして、水彩の色彩は完全に洗い流され、ぼんやりとした思考の靄だけを残し世界は深い闇夜へと溶け落ちていった。
※ ※ ※
「うおわッ!」
夢の中。そこから振り落とされるような気がしたオライオンは、盛大に体をビクッとさせると大声を挙げ——そして目を覚ました。「ああ、お、おはよう」
〈奈落〉の第九層と第八層、その合間。
決してそこは、教会宿舎の談話室でもなく、ましてや街の酒場でもない。
それだと云うのにオライオンが思わず零した寝起きの言葉は一切の緊張感を持っていなかった。
それだからか、その姿を冷ややかに眺めたノルンは「おはよう。じゃ、ないわよ!」と起き抜けのオライオンの肩を強く突っついた。




