第二十九話 夢のなか——名もなき聖人
三十四——トリトンが、ざっと目算した蛮族の人数だ。物陰に隠れ潜む者を考慮すると、四十はくだらないだろう。
二十八——たったいまオライオンが斃した蛮族の数だ。これで二十八体目を葬った。
オライオンは丁寧に一体一体を屠っているわけではなかったが、それを数える余裕がトリトンにはあった。
オライオンの背中越しに見える光景は、緑色に朧げに輝くオライオンが飛び出すと血風を巻き上げ戻ってくるのだが、行くとき戻るとき双方でまとめて蛮族の首や腕を斬り飛ばすこともあれば、手刀でこめかみを叩き割る場合もあった。トリトンの傍を三度目に離れた際は、爆炎を拳に纏わせると蛮族を五名ほど焼き尽くし、すぐに戻ってきた。
そうこうして、数えれば二十八体を屠り、たった今、二十九、三十体目の頭を踵でかち割った。
「お、おい修道士! もう勘弁してくれ! 俺たちが何をしたって云うんだ?」オライオンの猛攻を唯一凌いだ、頭領らしき蛮族は派手に尻餅をつくと、そう叫んだ。
「勘弁?——」その声を聞き届けたオライオンは、片手で背後のトリトンを確かめると、袖を掴み一緒に歩き始めた。「だから、さっき勧告しただろ? 大人しく怪異の居場所を吐いて、遺物を返して、囚人を解放すれば良いんだよ。簡単な話だ。それにだ——教皇勅命任務でここに来ている限り、問答無用にお前らは皆殺しの予定だ。で、それがハッタリじゃないことは見ての通り。なあ、俺も好きでやってるわけじゃないんだ、勘弁してくれよ」
オライオンは、そこまで云うと、ぐるりと周囲を見渡した。
見れば、あちこちに血溜まりが出来上がり、鼻を曲げる異臭が漂っている。まともに吸い込めば、途端に嘔吐すること請け合いの光景だ。
「判った! 判った! 云う通りにする。だから助けてくれ。俺たちは、俺たちは——」蛮族の頭領らしき男の命乞いはそこまでだった。醜い赤黒の触手が幾つも、男の頭を、体を貫き引き裂いてしまったのだ。
かろうじて生き残った蛮族は情けなく悲鳴を挙げ、逃げ出そうとしたが、また別の赤黒い触手が宙を舞うと、瞬く間に体を引き裂かれた。
そして、その刹那。
ガサガサと掠れ甲高く耳障りな声が響いた。
「かのユータスから産まれ、原典の向こう側へ堕ちたアルス・テウルギア・ゴエティア。その名を叫ぶのはお前だな。星詠みのアストロマギアが繋ぐ星命線は何を描き出した? 矮小な使徒——妾は人の命運を喰い星詠みが描く世を待つのが役目。それまでは、竪琴を奏で、簒奪の神がそうしたように調べを愉しむ。これは、摂理。自然の摂理。お前は、それを覆すために此処へ赴いたのか?」
※ ※ ※
声音も、物云いも耳障りな話者は朽ちた体に無数の赤黒の触手を巻きつけた女の姿をしていた。
長く汚れた栗毛——元はブロンドだったのかも知れないが——は、あちこちで絡まり毛玉を作っている。細く鋭く痩せこけた頬には汚泥が固まり、その上では目尻をキュッとあげた双眸が浮かび、眼窩を窪ませている。
両腕、両脚は触手に縛られ、一見すると身動きが取れないように思えたが、それは、足を地につけず滑るように移動し欲するものが有れば触手で掴み持ち上げている。今も切り裂かれた、蛮族の脚と思しき部位を持ち上げると、それに齧り付いた。
「プオリ・ピルア。初めて見るけれど、教典に書かれている姿より、よっぽどキモいな」オライオンは、怪異の姿を舐め回すように見ると「オエっ」と舌を突き出した。「本当に人を喰べてるけれど——赤ん坊だけじゃないんだね」
「お、オライオンさん。それって、ど、どういう意味なんですか?」オライオンの背後で両目をキュッと閉じながらトリトンは、恐る恐る訊ねた。
「ああ、えっと——あ、うん。そうだ、トリトン。そこから、あの牢屋は見える? お母さん居る?」オライオンはトリトンに全てを話そうと喉元まで言葉を上げたが、それを呑み込んだ。その儀式じみた怪異の食事法は口にするだけで、呪いの言葉に等しい。幼い子の脳裏に焼き付けてしまうのは、きっと良くない事なのだ。
「答えは如何に? その娘は器にしては幼い。幼すぎる。それであれば、お前が穢した聖地の代償は、お前の命で贖ってもらうぞ」束の間放って置かれた怪異は、苛立ちを露わにそう云った。そして、音もなく動くとオライオンの眼前で、胸——と云えるものがあればだが——を張るような姿勢ではだかった。
おそらく、その姿勢は、とりわけ下腹部でも蠢く触手でオライオンを捕える予備動作なのだろう。数本の触手は、オライオンの顔へ届きそうなほど近づいている。
悍ましい動きを見せる触手にトリトンは小さく悲鳴をあげ、さらにオライオンの背中をギュッと掴んだ。そして「み、見えました。お母さん、居ました」と、悲鳴と悲鳴の間を縫うよう口早に告げ、二度と目は開くまいと両瞼へ更に力を込めた。
オライオンはその言葉を聞き届けると、眉間に大渓谷を作った背後のトリトンを一瞥し、頭を撫で回すと「よっし、良かった!」と力強く云った。そして「あとは、任せて!」と手短に零した。
※ ※ ※
「さてさて、なんだっけ?——」プオリ・ピルアへ顔を戻したオライオンは、そこで不敵な笑みを浮かべ「自然の摂理だったっけ?」と続けた。
それは、あからさまな挑発に見えたが、オライオンは自分が今から口にすることへ嫌悪しているようにも見えた。不敵な笑みは、その思いを殺す——誤魔化すためのものだったのかも知れない。
目の前で蠢く怪異は、生きながらえるために人を飼い、産まれくる子供の全てを喰らう。それは、人にとっては悪だろう。魂ごと焼き払うべき悪だと、教会はプオリ・ピルアを絶滅対象としている。だがしかしだ。人は家畜を飼い、同じようにする。いみじくも怪異が口にした自然の摂理とは、言い得て妙。その通りなのだ。
違いがあるとすれば、命の連鎖を断ち切った人間は、命を護ることも知っているということだ。
それであれば、プオリ・ピルアを無慈悲に屠ることの意義とは、人間——同族の保護であり、それは家畜が必死に生きることを選ぶのならば同じことをするだろう。
怪異はオライオンの問いに答えることはなかった。
もう腹は決まっているのだろう。
「そうか——では、お前の知らない自然の摂理があるんだと諦めることをお勧めするよ。家畜が家畜であると認める限りは家畜のままだ。だけれど、生きる理由を少しでも持ち合わせたなら、それはもう家畜じゃない。お前は、それを知らないだろ——狩られる側、飼われる側のことを」眼前では、プオリ・ピルアの触手が蠢いている。そんな状況であったが、オライオンは慄く様子も見せることなく、そう云いきった。
※ ※ ※
静かであったが、力強いオライオンの言葉にトリトンは、ゆっくりと瞼を開けた。
不気味な赤黒で、ヌメヌメした何かを纏わせた触手は、変わらずオライオンの背中の向こう側で蠢いている。動きだけを見れば、それは漁港に捨てられた磯巾着の口から飛び出した触手と同じだ。吸盤が緑色のものは桃色の触手をワラワラと吐き出すという。その桃色が腐って赤黒になったのならば、まさにプオリ・ピルアの触手そのものだろう。
そんな場違いなことを想像したトリトンの耳へ、あのガサガサと掠れ甲高く耳障りな声が届いた。「それは星詠みが残した詭弁。それを模倣するがゆえに捻じ曲げられた真理。どうやら口が腐ったな修道——」
トリトンの耳にも届いた、プオリ・ピルアの言葉は最後までは聞こえなかった。途絶えた言葉に訝しげな表情を浮かべたトリトンは、何度か瞼を上下させ、次には目を丸く見開いた。
右拳を緑色に輝かせたオライオンが、プオリ・ピルアの土手っ腹を殴りつけ吹き飛ばしたのだ。怪異は言葉を絶たれ、体三つ分は後ろに吹き飛び、ゴロゴロと転がった。
オライオンはゆっくりとした足取りで怪異を追いかけた。
その間、プオリ・ピルアは必死に触手を無数に伸ばし、オライオンを阻もうとするが、その全ては短剣で斬り落とされた。それではと、数本の触手を背後をついて歩くトリトンに向けたが、それは途中で威力を削がれ、トリトンの短剣に斬り飛ばされてしまった。
そして、プオリ・ピルアは絶体絶命の危機を迎えた。「修道士。その魔法は、その魔法は——貴様、妾を謀ったな」
「云っただろ。諦めろって」オライオンは手短に無情な答えを突き付けた。
※ ※ ※
トリトンはヘナヘナと、その場に座り込んだ。
一体何が起こったのか判らなかった。たった一つ判るのは、オライオンの向こう側で火だるまになったプオリ・ピルアの残骸が、パチパチと音をたて燃えているということだ。
オライオンの無情な言葉の後。目眩を覚えるほどの光が集落上空に集まったかと思うと怪異へ降り注ぎ、瞬く間に燃やしたのだ。
その光がオライオンの魔法だったのか、それとも神が与えた罰の光だったのか。トリトンは判らないなりにも考えを巡らせたが、目前の火だるまは、災厄が取り払われた証拠であると思うと、力が抜けてしまった。
オライオンの声が聞こえた。「よし! いっちょ上がり! トリトン、行こう」




