第二十八話 夢のなか——ミドルマーチ
「ああ、これは魔法音素で云うとᚲ・ᛒ・ᛖ・ᛇ・ᛟかな? 多分そう」
驚愕の顔をしたトリトンへ、オライオンはそう軽く返すと「うん、これで綺麗になったかな。陽が登るまで少し休もうか」と続けた。
外へ顔を向ければ、すっかり夜の帳が降り、鬱蒼とした森は、湿り気のある黒布に覆われてしまったのではないかと感じた。
これにトリトンは、ブルブルと体を震わせた。
背丈に合っているとはいえ、オライオンの予備の外套はトリトンにはまだ大きい。体を震わせると、布のお化けが震えているように見えるのではないかと想像した。すると、なぜかこれまでの束の間の出来事が、まるで嘘のように思えた。目の前のオライオンは、白灰色の髪と瞳といった少々特異な風貌だが、いたって温厚で先ほどまでの残酷さは微塵も感じない。
そう考えを繋げていくと、トリトンは、どこか遠い記憶にオライオンの姿を見たような錯覚を覚えた。煌びやかな夢のなかなのか、それとも両親が読み聞かせてくれた暖かな童話の中なのか。いずれにしても、その美しい物語の登場人物も、オライオンと同じく何を口にするわけでも、何を描くこともなく魔法を使っていたように思う。
それは特別なことだと、トリトンの両親が教えてくれたことを覚えている。「音素五個分、何も描かないで魔法が使えるなんて、凄いですね……。それは普通なのですか?」
トリトンは口をまごつかせながら、そう訊ねた。そして、眠たそうな目を擦りつけた。まごついたのは、小さなあくびを殺していたのだ。
「トリトン、難しいことを考えるのはよそう。エレギアには俺も用事があるから、連れていくよ。だから、今は寝て体力を回復しておいて。流石に、君をおんぶしてってのは辛いからね」
オライオンは、そう答え背負袋をゴソゴソと弄ると、最後にパンパンと叩きトリトンに「ほら、早く」と声をかけた。背負袋を枕がわりに使えと云っているのだ。
トリトンはそれに幾許か躊躇した。見かねたオライオンは、静かにその場から腰を上げると「俺は入口を見張ってるから、ゆっくりね」と、洞窟の入口の方へ移動した。
あくびをするほどには、気持ちが落ち着いた。しかし、それは命を維持するための現象の一つだ。だから、気を許した訳ではない。
トリトンは、そう無意識に頭の中を駆け巡る考えに、眉を顰めたがオライオンの背負袋へ頭を沈めた。
※ ※ ※
翌朝。
トリトンは何かが焼ける匂いで目を覚ました。
その匂いは空腹を刺激する芳しい肉が焼ける匂いだった。目を擦り、入口の方へ目を向けるとオライオンが篝火のそばで、何かの肉を炙っていた。ときおり滴る肉汁が火に落ちると、ジュッと音を立てている。
トリトンの視線に気が付いたオライオンは「お、起きた? 寝起きに肉はアレかもしれないけれど、食べられるかな?」と、焼けた肉の刺さった短剣を手渡してきた。
炙られた肉には香辛料が振られ、食欲をそそる香を白い煙に乗せトリトンの鼻腔へ届けた。トリトンは誘われるようにグゥと腹の虫を鳴かせた。そして、短剣を受け取ると、「いただきます」と消え入るよう口にし、勢いよく肉に齧り付いた。
すると不思議と涙が溢れ落ちた。
※ ※ ※
食事を済ませたトリトンは、油まみれの口をオライオンに拭いてもらうと顔を赤らめたことを除けば、概ね大人のように振る舞った。
オライオンへ礼を述べ、事情を話した。
トリトンの家族は、疫病の噂が絶えない漁港街エレギアから近隣の街へ行商に赴いた。そして、その帰路で蛮族に襲われたのだそうだ。父親が首を刎ねられたのは見届けたが、母親がどうなったかはトリトンは判らないと云う。それを確認する前に陰気なこの穴倉へ放り込まれ、蛮族の餌食になりかけた。
オライオンは、それであれば母親もここに居たのではないかと訊ねたが、トリトン曰く、蛮族の会話から察するに、母親は集落へ連れていかれたのだろうとのことだった。母親は子を宿すことができる。それが幼いトリトンと母親との決定的な違いだ。
「なるほど——」オライオンは鋭くそう口にし、一拍置くと言葉を続けた。「それとは別にさ、怪異がどうのとか、遺物がどうのとか聞かなかった?」
「えっと、ぷ、プリ……プオ……えっと……」トリトンは訊ねられると、小さく頷き懸命に何かの名前を思い出そうと躍起になった。
「ああ、プオリ・ピルアだね。人喰いのプオリ・ピルア」とオライオンは、それに膝を叩き「じゃあ、まだ間に合うかも」と、突然に立ち上がった。「急ごう、トリトン。俺の目的地もそこだ」
※ ※ ※
結局。
オライオンは背負袋を前にかけ、トリトンを背負うと矢が飛び出すように、駆け出した。全身からは緑色の煙が立ち上り尾を引いている。トリトンはその様に目を丸くしたが、どことなく心地の良いオライオンの背中に顔を埋め、それ以上、森の光景を目にすることをやめた。
周囲からは鬱蒼とした木々の枝が擦れる音、鳥の囀り、獣の遠吠えが聞こえてくる。そのどれもが、母親が生きているかも知れないという希望を掻き消してしまうのではないかと思ったのだ。目を開けば、どんな音もトリトンの死神として眼前に立ちはだかり、首を斬り飛ばしてしまうのではないか。そんな風に思うと、オライオンの背中は唯一の避難場所だった。酷く残酷な現実を遠ざける障壁。この障壁の前では、どんな絶望であろうとも希望の光を奪うことはできない。
トリトンはそう感じたのだ。
そして、どれくらいの時間が経ったのだろうか。頬を撫でる風が止み、オライオンが静かに声を挙げた。「よし、トリトンはどうする? ここで待ってる?」
あっという間に——蛮族の集落へ到着したのだ。
目を開いたトリトンに映った光景は、嘔吐を誘う実に醜悪な集落だった。粗末な荒屋が密集し、奥には一際大きな荒屋と黒々とした塊が見える。
臭いも酷い。
それは、集落の門らしき場所に吊るされた女の骸から臭ってくるのが直ぐに判った。その奥でも磔にされた女の遺骸を幾つも目にすることができた。
そして、その最深部には黒々とした大きな檻の姿があり、中には沢山の人が囚われているようだった。よく見れば、囚人はみな衣服を剥がれ、髪はベッタリと濡れているように見えた。昨晩の雨の中も、この檻の中で過ごしたのだろう。
トリトンはオライオンの背中から降りると、直ぐに嘔吐してしまったが、意を決したのか「いいえ。あたしも行きます。ここで捕まったら迷惑をかけてしまうので」と、汚れた口を甲で拭った。
「そっか。なら俺から離れないでよ」そう云うとオライオンは、トリトンの手でも充分に握れる短剣を手渡した。気が付けば、集落の奥から無数の蛮族が、わらわらと姿を現したのだ。
※ ※ ※
「えっと……よく聞いてくださいよ皆さん」オライオンが皆さんと呼びかけたのは、もちろん無数に姿を現した蛮族に対してだ。
正確には、周辺に広がる山地へ根付いた狩猟民族の末裔である。ただし、根付く際、いくつかあった鉱夫の村との小競り合いを経て、これを焼き払ってしまう。以来、岩塩の採掘や精製が立ち行かなくなると、漁港街との交易を半ば威圧的に開き、塩不足を解消したという経緯があった。そのやり口は、至って粗野で簒奪者まがいであったと云っていい。故に蛮族——バルバロイと呼ばれている。
しかし、ここ数年で蛮族の集落はなりを潜めた。これに漁港街は戦々恐々となり、嫌な予感は的中したのだ。蛮族が商隊を襲撃するようになると、同行した若い女を攫い、積荷を強奪するといった蛮行を繰り返した。その中で、命からがら逃げ出した女は、例外なく未知の病に罹患し病原菌を街に振り撒き二次災害を引き起こした。
そして先月のことだ。
とうとう蛮族が街を襲撃すると、教会に祀られた〈音素の竪琴〉を強奪。それ以来、沖合に立ち込めた不穏な霧が障壁をなすと、漁業が立ち行かなくなった。王都がこの事態を知ったのは、二週間ほど前となる。
「えーっと、あったあった」トリトンを背にオライオンは呆けた声を挙げ、呑気に背負袋をガサゴソとすると一冊の装丁された本を取り出した。そうしている間にも蛮族は、思い思いに奇声を挙げ、錆びた手斧や小剣を振り回し迫ってきている。
これにトリトンは慌て「だ、大丈夫ですか?」とオライオンの外套をギュッと握りしめた。
「傾聴! 人は耳が二つで口が一つ。話すよりも多くを聞くためにある。さあ、これぞ、正義の教典、その写本が一つなり。偉大なるレメゲトンよりアルス・テウルギア・ゴエティアはかく語れり。守護天使、その翼は七十二の影を落とす。彼の影は悪を裁くと地平よりかく低き大地へ悪を導かん。その審判は正義の後光を得ると、連綿と公正であり、悪を炙り出すゆえに、これは正義の審判である。アルス・テウルギア・ゴエティアの写本。審判の刻から引用。っと」迫り来る蛮族を気にすることなくオライオンは、突然短く叫んだかと思うと、単調に、そして面倒臭そうに語った。
冒頭の叫びに、蛮族は揃いも揃ってビクっとすると足を止め、ぽかんとオライオンの言葉に耳を傾け、互いに顔を見合わせた。
「さて。いつもながら神様とか天使様からの返答はないのだけれど、待ってる時間もないからね」拍子抜けとなった蛮族の顔を眺めたオライオンは、そう云うと随分と乱暴に本を閉じ、そしてやはり乱暴に背負袋へしまい込んだ。
次に顔を挙げたオライオンは「よし! 皆さーん! いいですか? 人喰いのプオリ・ピルアを素直に連れて来て、遺物を返却、囚人を解放するなら救済します。が、あくまでも抵抗するなら刑を執行します!」と、親指を立て首元を滑らせた。
もちろんだが、これに蛮族は怒号を挙げ一斉に駆け出したのだ。
「オライオンさん!?」悲鳴を挙げたのは——こちらも——もちろんトリトンだった。この白灰色の男は、何をしでかしたのか。
だが、目の前にそびえる背中は、迫り来る蛮族の嵐をいとも簡単に払うだろう。そうトリトンは確信したが、それでも怖いものは怖い。
今一度、オライオンの外套をギュッと握りしめオライオンの言葉を思い出した——離れないようにね——なるほど、離れたら一巻の終わりなのだろう。




