第二十七話 夢のなか——蛮族と少女
水彩画の教皇庁から暗転したオライオンが、次に見た光景。
それはやはり、どこか朧げに記憶の片隅にあった、鬱蒼とした森の中であった。
恐らく教皇庁で過ごした水彩画の時間よりも、もっと前。オライオンが修道士であった頃の王都〈バルクータ〉東に広がるプオリ大森林の記憶の水彩画の世界だった。
※ ※ ※
その記憶が正しければ、オライオンが置かれた状況は、最悪だと云っていい。
東海岸にある漁港街エレギアで祀られた魔女の遺物である音素の竪琴が、漁港の北の山地へ棲みついた蛮族に奪われ、同時期にトレアシア神帝国国境付近の戦線で内乱が勃発していた。。
内乱の収拾に向かうこととなった教会騎士団ヴォーデは、隊へマリア・ヒューレイ、アンドヴァリ・チャーチ姉妹を同行させることとなった。蛮族からの遺物回収は最重要事項であったが、問題規模としては内乱の方が大きい。それを理由にオライオンは単身で漁港街エレギアへ赴くことになった。
当時のオライオンは、音素もろくに描けない落ちこぼれであったが、何故か単身で赴く任務については、十二分の成果を確実に挙げており周囲からは「司祭のなり損ないの昼行灯」と揶揄されていた。
そのようなこともあり、即効性のある問題解決力を有したオライオンは教皇勅命任務を半ば強制的に請け負うこととなった。
だから、オライオンにとっては、最悪の状況と云って良い。
だから、昼行灯は自身に課した最重要事項である、友人シュロスの行方を追うことも兼ね、オリ大森林を抜け、漁港街エレギアへ向かっていた。
オライオンの掴んだ情報が正しければ、遺物を奪った蛮族は何かしら教会の暗部との接触があるはず。そうでなければ、そもそも蛮族が遺物を狙うことはないだろう。もしくは、怪異に魅入られたのか。その何れかだ。多くの怪異は、理由は定かではないが遺物を愛でる傾向にある。
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「助けて……助けて……ください」
トリトン・イヴは、儚げな声を震わせ、そう懇願した。
衣服を剥ぎ取られ、わずかに膨れた双丘を顕にしたトリトンは、薄暗いゴツゴツとした岩肌へ投げ飛ばされたのだ。岩肌は、先ほどから降り出した大雨の影響もあってか随分と湿っていて、グチャリと気味の悪い音を立てた。
赤糸のような髪を鷲掴みにされ、全裸のまま打ち付けられたのだ。声を震わせ命乞いをしないのなら、それはもう命を落とした骸だろう。周囲を取り囲んだ、浅黒く異臭を放った男たちは、トリトンはまだ声を震わせることができる生きた少女であり、力で押さえつけ猿轡をすれば数刻の鮮度が約束されることを知っているのだ。だから、トリトンに馬乗りとなった蛮族の男は「おう。助けてやるから、黙ってろ。こうでもしなけりゃ、変な匂いがしない女にありつけねえんだ」と、小さく整った少女の顔へ汚らわしく涎を垂らし、胸を弄ろうと片手を伸ばした。
トリトンは、それに一瞬息を呑み、そして、ありったけの声で悲鳴を上げた。
だが、その悲鳴は挙がり切る前に、別の男たちが準備した布に阻まれた。
小さな口に猿轡がされたのだ。
「頼むから、お前らが釣った魚みたいにダンマリになってくれるなよ。喘ぐことくらいできるだろう?」またがった男は、そこらじゅうに赤黒いシミが落ちた股引を外し、下半身を顕にした。
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助けを呼べたとしても、外の雨音は幼くか細い少女の声を通すことはないだろう。いずれにしても、もう助かる見込みはない。命を断つにも、その術も絶たれた。あとは心を殺し気を狂わせる。そればかりを考えたトリトンは、真上の男が股引を外し汚らしい一物を、だらんとさせるのを見ると、両瞼をギュっと閉じた。次には想像だにしない、喉を掻き切るほどの悲鳴を猿轡の下で挙げるのは、トリトン自身だと覚悟をした。
だが、その機会は失われた。
断末魔を挙げる暇もなく真上の男が崩れ落ちたのだ。
見れば頭はそこになく、トリトンの顔は鮮血に塗れ、ただただ鉛の塊のような男の体重が、小さな体を押し付けるのを感じた。
そして次には、雨音に混じり惚けた声が響いた。聞き覚えのない声だった。
「あれ? 驚かせるつもりだったんだけど、首が飛んじゃったね。でもあれだ。その子がお前らの命を脅かしたってなら話は別だ。自業自得。ああ、それとも、その子は娼館に隠れて商売をしていたのか? だったら、その子は街の娼館に突き出して裁かれないとだから、お楽しみのあとは殺さないでくれよ。ああ、だけれど違うな。さっきその子は助けてくれと云ったよな? だったら、お前らはその子を襲っているに違いないと、俺は思うんだよね。——で、オイ。どっちなんだ。そろそろ云い訳の一つでもしてみろ蛮族。その口は、イク時だけ開くのか?」
声の主人は、雨を凌ぐため洞窟へ身を寄せた、ずぶ濡れのオライオンだった。
※ ※ ※
突然、仲間の首が刎ね飛ばされ、あたり一面が血の海といった光景を目の当たりにした男たちは、オライオンの声を耳にすると狂ったように声を挙げ錆びた剣を振り翳した。
「なんだよ。ちゃんと声出せるじゃん。でも何云ってるか判らないんだけれど——」オライオンは、その様子に呆れたように声を挙げると、背負袋を落とし、灰色の外套を翻した。そして、腰裏に忍ばせた短剣へ手をかけた。「まあ、いっか」
そこから先は一方的な殺戮劇であった。
身体中に緑色の靄を纏ったオライオンは、向かってくる男たちを片手で捌きながら、丁寧に一つ一つ首を斬り落として回った。
オライオンの前後を挟もうとした二人は、一人は腹に強烈な蹴りを喰らい蹲り、一人が首を斬り飛ばされると、その次に首を落とした。
三方から襲いかかった男たちは、一人は突然に頭を膨らませ破裂、その間に二人の首が切り飛ばされた。
そのような具合に十数名は居たであろう蛮族の男たちは、瞬く間に血の海へ沈んでいくこととなった。
全てを捌き切ったオライオンは、今では壁際に身を寄せ小さな体を震わせた少女へ小さく手を差し伸べた。まるで、子犬に手を出し興味を引くようにだ。「大丈夫? 服は——と、酷い大人だったね。ちょっと待って。あ、そうだ。お腹は空いてる?」
そう云いながら、自分の背負袋まで足を運んだオライオンを目で追いかけたトリトンは「さ、寒いです」と一言だけ返した。
「そうだよね。ちょっと待って。あ、あったあった。俺の服でも捲れば着られるよね。それに……予備の……予備の外套っと。あった。っとそっか」オライオンは、未だ呑気に云うと背負袋から着るものを取り出し、赤毛の少女へ手渡そうとしたが、それを引っ込めた。
受け取ろうとした少女の手は、大きく震え物を掴むこともままならない状態だった。
それもそのはずだ。
自身に降りかかった災厄——それを助ける理由もなく蹴散らした男。そして、その男は一切の見返りを要求せず、あまつさえ着るものを与えようとしている。受け取ろうとした途端に目の前の男が豹変してもおかしくないのだ。それにだ。その男は魔法音素を描くことなく、魔法を使っていたように思えた。それであれば、目の前の男は童話に聞く悪魔か妖魔、怪異、何かそういった類のものだろう。そう疑わないわけがない。
トリトンのそんな心情を、どことなく察しはしていたがオライオンは構うことなく引っ込めた手の中の衣類を広げた。そして、素っ裸の少女へ大きめのチュニックを着せ、袖を捲ってやり、穿かせたズボンの裾を捲り上げた。
少女の小さな厚手の布の履き物は、すぐに見つかり、それを履かせた。そうしてオライオンは最後に、鬱蒼とした森林を行く際に羽織る丈の短い灰色の外套で、少女をすっかり包み込むと口を開いた。「取って食べたりしないからさ、安心してよ。ほら、目を開いていいよ。あ、でも気持ち悪いの見たくなければ——っと、気にならないか」
オライオンは話の途中で目を開いた少女を見ると、そう締めくくり、小さな肩を軽くポンと叩いた。「俺はオライオンだ。君は何処の誰だい?」
「エレギアの——ああ……ごめんなさい、バルクータのネイ……です」少女は震える声で、そう答えた。
「そっかそっか。こちらこそごめん。信用できないよね。見て、俺は王都の修道士のオライオン・ヒューレイ。ちょっとした仕事でエレギアに向かっている途中なんだ」オライオンは、そう云うと灰色の外套のフードを取り払い、首にかけた銀細工のネックレスを見せた。それは、誰が見ても教会のものであることを示している。
「ああ……修道士様。ごめんなさい。あたしはエレギアのトリトン。トリトン・イヴ。でも修道士様——修道士様は魔法を……えっと……」
「おっとトリトン。そのことは内緒にして欲しいんだ。修練をサボったのがバレると、おっかない目に遭っちゃうんだよ——」オライオンは片目を瞑ると、指を口に当てながらそう云った。そして、付け加えるように口を開いた。「それに、無用な——でもないけれど、殺生をしたのもバレたら危ないんだ——教会って厳しいよね、全く。正義の教典によればさ、修道士やら司祭は嫌な思いをしている人を助ける時も神に訊ねてからって決まっててさ。変な話だよ」
そう云うとオライオンは、転がった幾つもの骸や、その残骸に片手をかざすと、一つ一つ丁寧に燃やし尽くすと最後には周囲に広がった血の海さえも蒸発させてしまった。
一時、酷い臭いが洞窟内に漂ったが、トリトンはその臭いを気にすることも忘れ、信じがたい光景に思わず「なんですかそれ……」と驚愕の言葉を零していた。




