第二十五話 夢のなか——星々の海
体力に限界を迎えたオライオンは、奈落の一行にとって重要な場面であったにも関わらず、断りもそこそこに寝入ってしまった。
第九層でもそうであったが、極限の疲れのなか微睡むと、例のあの水彩画の夢が立ち所にやってくる。オライオンはそれを知ってか知らずかやってきた水彩画の中を器用に泳ぎ、とある都市——らしき場所へ辿り着いた。
広大な都市群は緊密に寄り集まった多数の建物と静謐な街道で構成されている。建物のほとんどは背を均一に揃えているようであったが、場所によってはその平均が異なっている。だが、それでも均衡の取れた街並みであると云って良い。そして、最も特徴的だったのは、オライオンが降り立った場所からの光景であった。
均衡の街並みのあちこちに、突出した塔の姿が見えた。それらは、それぞれの意匠が異なっているが、大まかに分類はできるようであった。だが、それでも、塔の一つ一つは個性的であった。捻れているものもあれば、鋭く直線的なもの、揺らいで見えるもの、様々だ。その姿、光景は、さながら均衡の中の打ち立てられた混沌。均衡の影のようにも見えた。
オライオンが降り立ったのは、その塔の一つだった。一際高いその塔は、ぐるぐると螺旋模様を描きながら上に行くほど、頭を細くしている。その姿は、まるで空に吸い込まれていく渦のように見える。
オライオンは、ぐるりと周囲を見渡し感嘆の声を挙げていると、すぐに陽が落ち、あっという間に夜の帳がおりた。
随分と時間の進みが早いようだ。夜空には、ぐんぐんと赤月が登り、それを追いかけるように星々が散りばめられた。さながら、濃藍色の布に宝石をぶちまけたような様子だった。
その中でも、一際異彩を放った赤月の輝きが一番強くなる頃、オライオンのすぐ傍に一人の男の姿が現れた。
男はオライオンと同じ、白灰色の髪と瞳を持っていた。
姿を現した男は、傍のオライオンに気がつくこともなく、塔の外壁から突き出た軒下に設らえられた石造りの長椅子へ腰をかけ、夜空を眺め始めた。
※ ※ ※
暫くすると、塔のずっと向こう側で丸く突き出した丘に、緑の輝きや、赤い輝きがバチバチと輝いたのが見えた。
オライオンは、傍の男に興味があったが、それでも輝きが気になりそちらへ目を向けた。目を凝らせば闇夜の中でも、その輝きが踊る場所が広大な城の中のことであることが判った。どうやら、丸く突き出ていたのは、大聖堂か何かの頭なのだろう。そこの、あちこちで輝きが激しく踊っている。
それが判った頃。オライオンの背後から、艶のある声が聞こえた。「お前は行かないのか、アストロマギア。ここで何をしている?」
声の主人は、金糸と蒼糸に縁取られた黒のローブに身を包んだ女だった。ローブとはいえ、女が身に纏うそれは、胸元が随分と大胆に開かれ、そこは金糸で飾られている。飾り模様はうねうねと大きく身を捩りながら、首元から胸元へ進むと双丘のてっぺんで艶やかな華を模して咲き誇ると、今度は臍の方へ細やかな畝りを描き目的地近くでは、一本の模様となっていた。
「ああ、ユータスか。ほら、星が綺麗だろ。赤月の夜は絶好の観測日和だからね。これを逃す手はないよ。だから、俺は行かないよ。星の動きの方がよっぽど重要事項だからさ」アストロマギアと呼ばれた男は、艶やかな女が垂らした、やはり艶のある長い黒髪と、耳脇から覗いて見える真紅の髪飾りを一瞥した。そして、そのように答えると、またぞろ夜空へ顔を戻した。
「そうか。お前はそういう奴だったな。それで、アルスノトリアの兄弟は、大聖堂へ向かったそうだ」と、ユータスと呼ばれた女。
それは、嘘だ。アストロマギアは、それは判っていたのだろう。向こうで激しく踊り狂う輝きは、その大聖堂で何かが起きている証拠なのだ。故に、ユータスの言葉は嘘だ。だから興味もなさそうにアストロマギアは、夜空へ向かって吐き捨てるように答えた。「そうみたいだね」
「興味はないか」ユータスは軒下へ足を運ぶと、アストロマギアの横へ腰をかけた。
「ないね。うん。ない。だってまた根負けして帰ってくるでしょ? それよりも、ほら。あの三つ星。あれはさ——傲慢で自分は無敵だって云い張ったけれど、蠍に刺されて死んでしまった狩人の魂なんだって。蠍は君で、あの三つ星は俺たち三人みたいじゃない? でさ、その近くに沢山集まっている星々には、どんどん別の星が産まれている。三つ星が登って死んで、また登って死んで。その横で色々な星が産まれているんだ。なんて云ったかな。ああ、そうだ。星のゆりかご。どう? なんかロマンチックじゃない」アストロマギアは、努めてそうだったのかは判らないが、無邪気にそう云うとユータスの冷たい顎を持って夜空へ目を向けさせた。
「何が云いたいのだ? 私がお前たち、最初の魔法使いを嗾け魔法を奪わせることが、そんなに気に喰わないか? そもそも音素は世界の——プロクティカのものなのだろ? 私たちも等しく扱えて然るべきだ。それの何がいけない? 独占は悪ではないのか」気安く顎を触られたことに、気分を害したのかユータスは乱暴に男の手を叩くと、そう答えた。だが、顔をアストロマギアに戻すことはなかった。
「そんなことは云っていないよ。ただ、あるべくしてある。それが自然でしょ。何がよくて何が悪いなんてことは、移ろいやすいものだよ。良し悪しの均衡という意味でね。だから、俺らはただただ、その時々の正しいと思うこと成す。誰のためでもなくね。違うかい?」アストロマギアは灰色の外套の裾を払うと石造りの長椅子から腰を挙げた。
「それのどこに正義があると云うのだ」相変わらず、夜空に顔を向けたままのユータスは苦々しくそう零した。
「正義?」
「そうだ。プロクティカは己が均衡を保つため、魔法を我々に与えた。だが、大聖堂のアレはどうだ。全てを開示せず人々に与え、神座へ座し、のうのうと調べを愉しんでいるのだぞ。そうやって、ほくそ笑んでいる」
「そっか。じゃあユータスだったら、全部を得てどうするの?」
「我々の血族が全てを管理する。正義の名の下に愚民を排除し、世界へプロクティカの望む均衡を与える」
ユータスの言葉が終わると、大聖堂の方から耳をつんざく轟音が挙がった。次には、夜空を呑み込むほどの白大蛇の姿が立ち昇ったかと思うと、それは瞬く間に、頭で大聖堂を打ち砕いていた。
その様子を軒先の無骨な石の柵へ手をかけ、眺めたアストロマギアは空いた片手を軽く上げて見せた。「それは均衡でも、調和でもないでしょ。ただの押し付け。そうじゃない? 悪だとされた人が、本当はある側面では誰かの命を救うのだとしたら、それは本当に悪なの? ね。だから勧善懲悪は成立しないんだよ。そんなことよりも俺は、ほら、さっきのあの三つ星がさ、周りの星も巻き込んでオライオンと呼ばれることの方が興味深いんだよ。人って凄い想像力を持っているよね」
「そのオライオンとはなんだ?」目前で今まさに巻き起こった、調和の破壊、均衡の街並みの崩壊、それを全く意に介さない様子のアストロマギアにユータスは半ば調子を呑み込まれたように訊ねた。
「さっき云ったじゃないか。傲慢な狩人だよ。でもさ、別の人々の間では、畏敬の念を持って死者の国の王オシリスと呼ばれるし、また別の人々からは悲恋の主人公だと云われるんだ。また、どこか別の国では、特別な太鼓って云われるらしいよ。何れにしても人々にとって特別な星ってことなんだ。面白いよ」
男がそう答える間にも、何度も白大蛇は顔を挙げては頭を地へ打ち付けている様子だったが、アストロマギアはやはり意に介する様子を見せることはなかった。まるで、こうなることを知っていのではないかと、勘繰ってしまうほどに冷静だ。
「我々の正義では、その一側面しか見えない。その裏では正義も悪になり得ると。そう云いたいのか?」アストロマギアの冷静さは、これを示したいが故なのか。そう思ったユータスは、それを口にした。
「違うの? まあね。ユータスが云っていることも判るよ。だから、俺は兄弟に手を貸したし、もしそれが悪いことなのだったとしたら、プロクティカの意に反することなら俺も一緒に罰を受けるさ。悪友ではあるけれど、アルスノトリアの兄弟は俺の良き友人だからさ」
アストロマギアの答えは、まるで親に叱られることを覚悟で、兄弟の悪巧みに手を貸したような云いっぷりだった。
ユータスは、それを感じると「ふむ」と短く漏らし続けた。「そうか、ならば——いや、判った。私は兄弟の行く末を見届けに行くとするよ」
ユータスはそう告げると、緩やかに腰をあげ塔の中へ足を進めた。
「ん? 何か特別なことでも?」
「アストロマギア。お前がいつも羊皮紙へ星の線を落とすように、兄弟もその業を得たそうだ」遠ざかるユータスだったが、その声は凛と響き聞こえた。外から轟く崩壊の音を貫きアストロマギアの耳を捕らえている。
おそらく、それがユータスの最期の言葉となるだろう。アストロマギアはそう感じていた。
「なるほど、だから俺の葦筆を持っていったのか。馴れないのが写本すると、内容が歪むぞ。って伝えておいてよ。君も気をつけてユータス。名もなきあの人の影なのだから。あまりにも強い光は影を弱めてしまうし、幾つもの凝縮された光に晒されれば消えてしまうよ。本来、光は等しく物事を照らさなければならないものだからね」
最期の言葉へアストロマギアは、真摯に答えようと振り返り、ユータスへそう告げた。これもまた、最期の言葉。アストロマギアは、その覚悟をしていたのだろう。
今やアストロマギアを凝視したユータスは、赤色の瞳を爛々とさせていた。「忠告痛みいるよ、星のアストロマギア。あの夜空の向こうから全てを遍く見渡すような、お前の口振りには辟易としていたんだ。私の魅力に靡かないのなら消えてしまえば良いさ。さよならだ星の君。名もなきあの人が、お前の残滓に気付く幸運が在らんことを」
そう云うとユータスは、どこからともなく身の丈ほどの奇妙な大剣を手にし、それをアストロマギアへ突き出した。よく見れば、その大剣は本来の役割を放棄したのか、刀身には奇怪な紋様が描かれた紙が、所狭しと貼り付けられていた。
※ ※ ※
ユータスと呼ばれた女の言葉を最後に、オライオンの足元がグラグラと揺れ始めたかと思うと、爪先から次第に塔が溶け始めた。オライオンは、不確かな足元の感覚に「オエっ」とえずくと「うわうわ、何これ」とその場で、ジタバタとし始めた。
すると、次第に水彩画の世界は渦を巻き、足元の方へと吸い込まれていった。
夢の中で見る夢。水の中に揺蕩う別の水の中。同じ光景だが、それが同じだと意識する不確かさ。何かそんなものを感じたオライオンは、これまでの夢の中の旅では味わうことのなかった、気味の悪い感覚に襲われた。
そして、視界がパッと暗転した。




