第二十三話 オピマクス
〈奈落〉の階層間にできた、休息におあつらえ向きな窪みで身を寄せ合ったアン、ヴォーデ、ノルン、オライオン——は、限界を迎え寝てしまっているが——の四人は状況の整理を済ませると、ことの核心に触れるべく会話を重ねた。
ノルンはヴォーデの言葉に誘われ、一度は口を開きかけたが、はたと目を見開きオライオンを一瞥した。オライオンの寝息が一度途絶えたように思えたのだ。
第九層からは、呪いの言葉にも聞こえる寒々しい風の音。第八層からは、轟々と腹の底を揺らす重々しい音。それに混じったオライオンの寝息は、悪夢の中で唯一現実を手繰り寄せておく一本の手綱のようでもあったから、驚きに一瞥したのは当然だった。
だが、心配をよそに再びオライオンは寝息を立て始めた。
どうやら現実はまだ、ノルンたちの手元に残されているようだ。
ノルンは表情を改め、小さく咳払いをすると口を開いた。「じゃあ、まずはアンが一番気になっていることからね。さっきも云ったけれど、結論から云うとマリアは無事。どんな魔法も刃も、マリアを傷つけることはできない状態で教会に軟禁されているはず」
「本当!? じゃあ、なんで肝心のお姉ちゃんは一緒に此処へ来なかったの? それに軟禁? やけに具体的な話じゃない」アンは、目を見開き声を小さく震わせた。
「来なかった。じゃなくて、来ることができなかった。が正確なところ。信じる信じないはお任せだけれど——今のマリアは、私の身代わりとして地上に残ってくれている。待って。此処まで来て冗談は云わないよ。もちろん、私はマリアを見たことも無いよ。でも、そうなの。私の身代わりとして、地上に残っている。その恩恵と云ってはアレだけれど、一切の危害から護られているの。そこは安心して」またぞろ、腰を浮かせたアンを制しながらノルンは、そこまで一気に口を走らせた。
「あんたの身代わりってどう云う意味?」ここまできて、冗談は云わない。その言葉で我に返ったアンは冷静さを取り戻したが、降って湧いてきた身代わりという言葉には喰らいついた。
「うん。複雑な話なのだけれど、教皇ドミナスが魔女狩りを行なっているのは、私の体を利用して〈正義の蛇〉を呼び出す儀式の一端。でもね、その儀式の本当の意味はもっと別にあるの。オジサンが持っている〈手稿〉がそのうちに本当の意味を映し出すから——」
「は? 正義の蛇? 教皇ドミナス? 随分と知ったふうに云うのね。身代わりって、マリアがヘンテコな儀式の供物か何かになっちゃうってこと? そもそも——あんたは、なんなの?」
耳の下でボウっと瀝青の焔が小さく舌を伸ばすと、黒く煤けた壁に映った人影を不安げに揺らした。アンとヴォーデの不安をなぞったのか、はたまた小さな体へ途方もない謎を抱えたノルンのそれをなぞったのか。影は小刻みに今でも震えている。
「アン、だから落ち着け。ノルンの言葉が正しければマリアは無事なんだ。それで——ノルン。なんの儀式かは俺たちには関係ない話だ。悪いがな。だが、マリアを救出できるのなら俺たちは、全面的に協力する。それで、どうなんだ?」
「大丈夫。何れにしてもマリアを助けられる。それは保証するよ」
「判った。続けてくれ——俺も蛇に挑む蟲という役目とやらが気になっている」
「あんたの保証に一体全体、なんの安心ができるってのよ」
「アン。いい加減にしろ」
※ ※ ※
再び顔を怒りか不安で紅潮させたアンの声を合図に、オライオンが寝息を止め寝返りを打った。ノルンは膝横に転げてきた、白灰色の頭を軽く撫で付けると言葉を続けた。「アン、こんな云い方しかできなくて、ごめんね。私も理屈を理解していない部分があって、言葉を濁しているのは判っているの——」
「い、良いわよ。判ったわよ」アンは、しおらしくなったノルンに困った顔をすると、そう言葉を詰まらせた。
「——それじゃ、まず蛇に挑む蟲のことね」ノルンが口火を切った。
だが、どうも先ほどから考えを巡らせては苦い顔をするヴォーデが堪らず、それを遮った。「違っていたら、すまないが、それは〈正義の教典〉に記されている、白の邪な蛇と何か関係があるのか? 二十五のうち二十四の神々を簒奪、残された一柱を捜して地上を虎視眈々と狙っている。しかし、その神々は旧都探索で無事に奪還され、今の魔法がある。それで、俺たちが崇めているのは、地上に残された一柱。正義の蛇の姿——」
「正義? その一柱の名前を云える?」ヴォーデの抱いた疑問は、隠すことを隠すべく整理するのに丁度よかったのだろう。ノルンは、そこから紐解いていくことにした。
「ん? 〈一文字の神〉では?」それは〈蛇燭教会〉における信仰の絶対的な大前提。ヴォーデは食い気味に答えた。
「それは、えっと——ああ、渾名でしょ。本来の名前は? 二十四の神々はみんな、魔法音素の名前で示されているけれど、残りの一柱は?」ノルンはヴォーデの目の前を遮った幕をひょいと持ち上げるよう声音優しく、そう重ね訊ねた。
「いや——そう訊ねられると確かに判らないな。それと何か関係があるのか?」目前には確かな信仰心があったはずなのだ。だが、たった今捲られた幕の先には何もなかった。ヴォーデは、そんな感覚を得ると、目を丸くしながら答えた。
「えっと。その一柱の名前は、誰でも知っているけれど誰も知らない、空白の音。名前はウィルド。聞いたことないでしょ? それはね、二十四の音素の源流。そして、〈一文字の神〉、えっと……なんだっけ。あ、そうそう。〈名もなき神〉が隠してしまったの。魔法の全てをよこせって迫ってきた三人の魔法使いからね。残りの音は〈名もなき神〉が、ここを掘って連れてきたから地上に残された魔法は、もの凄く限定的なものになっちゃったの。例えば、みんなが遺物と呼んでいる魔法具からとか、やけに長い言葉で唄って使うとかね」
ノルンの言葉は随分と軽かったが、それが包み込んだ真実と思しきものは、そんなことはなかった。重々しいと云っていい。重すぎる真実だからこそ、軽々しい言葉で包み隠すのだ。波風さえ立たなければ、それは真実然としていられる。だが、ひとたび決定的な事実が突きつけられれば、容易く吹き飛んでしまうほどに脆い。これはノルンが準備した仕掛けと云っても良いだろう。
ヴォーデは、さらに目を丸くした。「なるほど。教典に記されている内容と、全く違うな。オライオンも、そのことを云っていたのだな——もっともシュロス救出が優先されたから、全く取り合わなかった——すまない、ノルン。続けてくれ」
「うん。でも〈名もなき神〉は、いつの日か欲深な三人の魔法使いが、悔い改める刻が来ることを望んで、一つの儀式を準備したの。儀式で出した答えによっては、魔法を世界へ還せるようにね。もともと魔法自体が、この世界から預かった言葉だったから」ノルンはヴォーデが何かに辿り着いたことを予感すると、声音の調子を少し落とし告げた。
「ふむ。訊きたいことは山のようにあるが——」
「三人の魔法使いってのは、なんでそんなことを?」何かに辿り着いたのは、アンも同じようだった。慎重に言葉を選ぶヴォーデを焦ったく思ったのか、アンはヴォーデの言葉を遮ると、そう訊ねた。これもまた、女の勘だったのかもしれない。




