第二十一話 巨人の渡し手
〈奈落〉——第九層一の環。
最果ての氷壁。
もう長い年月を。
年月という単位すら忘れてしまうほどの刻を、膝を抱え、眼下の氷蟻を眺めてきた。
氷蟻の群れは、いつまでも巣に帰ることはなく、あわよくば脛に取り付き登ってくる。一匹程度であれば気にならない。だが、群がって登るその姿には怖気を感じる。歪な氷の塊がそこかしこの穴へ入り込み、内臓を凍らせるのではないかと思うのだ。
だから、その度に手で追い払う。
あまりにも騒がしく堪らなくなれば、叩き潰してしまう。そうしてしまえば、氷蟻はほんの少しの間、怯えて近寄らなくなるからだ。
だが、それも考えものだった。悍ましさは、静けさの中にも潜んでいた。砕かれた氷蟻の体躯は、別の蟻が口へ運びグチャグチャと音を立て喰ってしまう。
その無慈悲な喰らい方は、控えめに見ても命の円環を彷彿とさせるものではなかった。ただただ己の為に喰らい次を求める。尽きれば他の命を奪い喰らう。そこに憐れみと感謝の念は全く感じられない。遠い昔——この光景を繰り返し眺めた時期があったようにも思う。
氷の絶壁に背を預けた巨人は、そんなことをぼんやりと考えながら、奈落の底で過ごすことが多かった。
本来は、底から這い上がる凍てついた亡者を他の環へ還すのが役割だ。奈落を登る資格を持った者が現れるまで、そうしなければならない。
〈名もなき神〉は取り返しのつかない破壊を目前に、穴を掘り、一切の虚無を引き受けた。そして、かつて生と死を眺め再生を司る音であった巨人へ、逆さまの言葉を彫り、役割を与えた。こうすれば虚無を払う音が聞こえるだろうと〈名もなき神〉は云った。
※ ※ ※
最初に聞こえたその音は、亡者の海の只中で使命を叫び、それを果たすため刹那の命を与えてくれと懇願する男の絶叫だった。よくよくその使命に耳を傾ければ、男は友の生死を確かめ、死しているのであれば正しく弔いたいのだと云う。
そして、更によくよく見れば、男には巨人と同じく逆さまの言葉が刻まれていた。
巨人はいよいよ、その刻が来たかと喜び男を掬い上げたが、どうやら、それだけでは足りなかったようだ。足元に群がる亡者は、増えるばかりだった。
※ ※ ※
それから暫く後。
再び、聞き慣れない音が飛び込んできた。
オジサン、オライオン、チビ、オバサン。その他には、嘗ての仲間が奏でた音にも似た爆発音が耳に飛び込んできた。亡者どもが使う呪いの詩が奏でる魔法の音とは全く違った。
巨人は、今度こそはと音の方へ顔を向けたがどうだろう。音を鳴らした一団は今にも亡者に呑み込まれ、息絶えようとしていた。
期待外れか。巨人がそう落胆したそのときだった。一本の河のように見える亡者の群れの中ほどが緑色に輝いたかと思うと、赤黒の飛沫をあげ破裂したのだ。
驚くことに、そこから飛び出したのは緑と赤と黒に塗れた人間だった。悍ましくも美しく、産まれながらに死を目指す不条理。それに抗う無垢。飛び出した人間を目にした巨人は、何やらそんな言葉を思い浮かべた。期待外れどころか、これこそ巨人たちが求めた、命の袋小路を照らすものだろう。
袋小路に淀む一切の虚無へ均衡をもたらすか、消え行くままにするのか。それは灯りを掲げた者の手に委ねられる。世界の行末を決めるのは、神でも、王でも、英雄でもない。いつでも一握りの無垢を包む何かなのだ。
巨人は正直なところ、その何かを〈名もなき神〉から聞いたことはない。
だが、胸の奥を暖める何かはきっと間違いではないのだ。
少なくとも不気味さに体を震わすことはない。
※ ※ ※
「オライオン! オライオン! オライオン!」
血塗れのオライオンが、ようやく亡者の群れを抜けてくるとアンは必死に名前を叫んだ。
男が無事に戻って来たことに感極まったわけではなさそうだ。亡者の群れを指差し乱暴に振るっている。要するに、それをどうにかしてくれ。そう云っているのだ。
オライオンはそれに「えええ」と、自分でなんとかしてくれと云わんばかりに返したが、仕方なさそうに立ち止まると、不器用に魔法音素を描き始めた。
「ちょっと! さっきはどうやったのよ? 音素なんか描いていなかったでしょ!」今度は、悲鳴を挙げたアンは辿々しく音素を描き始めたオライオンの背負袋を乱暴に引っ張った。「そんな悠長なこと、してらんないの! 走って、馬鹿!」
オライオンは、驚きながら、転げるように前を向くと、四つん這いから素早く体勢を整えた。 「えええ、酷くない?」と、苦情を口にする頃には顰めっ面を浮かべ必死に駆け出し、今ではノルンの横を走っている。
その時だった。
いよいよ絶壁から張り出した崖の影へ入ったかと三人は足元の暗がりの濃さに思ったが、どうやらそれは違ったようだ。影はどんどんと濃くなり、頭上からはボボボボと重々しい音が迫って来ていた。次第に気持ち悪さも感じ始めた。嵐の到来を告げる頭痛にも似たそれが何を報せていたのかを知ったのは、とうとう耳をつんざく地響きを耳にしてからだった。
※ ※ ※
地響きを耳にし足元が酷く揺れたのを感じると、一行は揃いも揃って両瞼をギュッと閉じ、頭を抱え転がったのが最後の記憶だった。
先と同じように、ボボボボと耳に詰まる音が鳴ったかと思うと体がフワッと持ち上がったような気がした。下っ腹がキュッとなり、地べたに押さえつけられるようだったのを三人とも覚えているが、その後のことは、あまり記憶が定かではない。
最初に瞼を開いたノルンは音が鳴り止むのを確認し体を起こすと、頭上から落ちてくる声に出迎えられた。『こんな地の底で、生者が何をしている? 見ての通り此処はのどかな牧場じゃないぞ、チビ助』
「チビ、チビってなんなの?」ノルンは膝を払い腰に手を当て、声が落ちてくる方へ顔を向け「私はノルン。ドグマ・エイワズの血筋。あなたは聖魔の監視者?」と、毅然と訊ね返した。
オライオンとアンも、ノルンに続き体を起こすと、頭上を見上げ二人とも唖然と口を開いた。
凍った髭が氷柱のように顎からぶら下がる山のような皺顔が、ずっと遠くに見えたのだ。その皺顔が、無邪気に口を動かせば氷柱が降ってくる。
突然降ってくる氷柱の雨にアンは「なに、何!」と慌て、オライオンは「うわ!」と思わず外套を頭から被りしゃがみ込む始末だ。
きっと先ほどの大声は、この皺顔のものだ。
そして、ノルンはなぜだか毅然とそれと会話を試みている。肝が据わっていると云うには、あまりにも命知らずだと二人はノルンへ苦情めいた視線を投げていた。
『ああ、そうだノルン。ドグマ・エイワズの血筋。そこの二人を見るに、いよいよ赤のエイワズに従う者が揃ったようだな。永いようで短かったな。ところで、ドグマは相変わらず亡者を追いかけ回してるのか? 儂をここに縛り付け、呑気に? もっとも、その甲斐もあってお前らを掬い上げられたから良かったがな』
皺顔は、もそもそと、そんな風に云うと最後には雷のような笑い声を挙げた。
アンは皺顔の笑い声と一緒に降ってくる氷柱の雨に「笑うんじゃないわよ!」と、怒鳴り散らしていたが、オライオンは自分たちの足場の際まで四つん這いで行くと驚きの声を漏らしていた。
顔をひょっこり出したオライオンが目にしたのは、眼下——というにはあまりにも下の下——に広がった、亡者たちが押し潰された跡だった。赤黒い池が氷の一本道に出来上がり、その周囲の監獄地帯は砕けて酷い有様だった。
そして気が付いたのだ。自分たちの足場は、あの氷の巨人の掌の上であることを。
オライオンは再び見上げると、皺顔の額に刻まれた赤のエイワズを見つけ、そうだと確信した。
「そうね。元気に呑気にね。フォモール——聖魔がここから溢れたら大変だもの」直ぐそこで、子供のように騒ぎ立てるアンと、好奇心旺盛な少年といった風のオライオンを他所に、ノルンは氷の巨人との会話を続けた。
『それもそうだな。だが、それでも、この有様だ。亡者が減るどころか、増える始末だ。正義の機構が成されたのか? いや、お前さんが居ると云うことは、違うのか』
「私も、このオジサンもつい最近目覚めたから、あまり詳しくは」ノルンは大人びた様子で肩を竦めた。
『そうか。まあ良い。ところで、これが蛇に挑む蟲の王と云うわけだな。お前と同じ髪の色、瞳の色。男よ難儀な役割を仰せつかったものだな』氷の巨人はそう云うと、三人を乗せた掌を更に上げオライオンを繁々と見つめ、そしてまたぞろ大声で笑って見せた。
「蛇に挑む蟲が、何かよく判っていないのだけれど、ひとまずは地上へ戻らないとね。ドグ爺に教典をどうにかしてくれって頼まれているし」オライオンは、体を起こし耳を押さえながら、迷惑そうに巨人へ答えた。あまりにも笑い声が大きく、鐘で頭を叩かれたのではないかと思ってしまう程だったからだ。
蛇に挑む蟲の王が何を意味しているのかは、そこまで興味がなく、だが何がどう転んでも地上へ行く必要はある。そんな様子を見せたオライオンに巨人は、また笑って見せた。今度は慎重に笑ったようだったが、鼻息荒くオライオンは堪らず転げてしまった。
掌の際まで転がったオライオンを、空いた手で押さえた巨人は、またそっと笑って云った。『ドグ爺? はは。あれでも、抜け殻とはいえ我々の父、神の一部だと云うのに。男よ、お前も随分と呑気な奴だな。まあ良いさ。何れにせよ、条件は揃った。地上へ向かえ。お前らよりも先に、ここへやってきた騎士は、もう上の層に居るぞ。あの豪傑は、亡者の海を泳いできよったからな。その胆力に免じて先に通しておいたぞ』
それにノルンは、小さな鼻を鳴らし「呆れた。人のこと呑気だの云う割には、あなたも相当呑気ね」と、責めるように返した。やはり大人びた様子で、片手をひらひらとさせてだ。
『これだけ狂った世界だ。呑気か阿呆にでもならなければ、やってられんさ——』巨人は小さな娘の姿を懐かしげに見ると、そう返し『良き選択の旅を、空白の子と蛇に挑む蟲たち。奈落を閉じ、清濁併せ呑む世界が戻ることを願っている。早いところ役目を終え、またぞろ気紛れに万物の生と死を愛でたいからな』と続けた。
※ ※ ※
巨人の言葉が終わる頃に合わせ、三人は氷の絶壁から張り出た崖に足を降ろすと、〈奈落〉の底——第九層の全景を目にすることができた。
信じられない光景だった。
氷の巨人もよほど背が高く、どんな山よりも高い。だが、第九層の天井はそれよりも遥かに高かった。底から見上げても天井がそうだとは判らなかったが、そこに広がったのは何よりも悍ましいものだ。
呆れるほどに大きな鍾乳洞のように、尖った岩肌を天井から無数に突き出しているのかと思いきや、それらの殆どは天井からぶら下がった亡者の塊だったのだ。天面に近しい亡者たちの足やら腰にぶら下がるように、次の群れがぶら下がり先細っていく。力尽きた尖端の亡者は、奇声を挙げながら氷地獄の底へ落ちていった。
「なにごとなの、これ」その光景に息を呑み、苦々しく云ったのはアンだった。
「オバサンはここが何処だか判ってる?」巨人に礼を述べ、足を降ろしたノルンは、アンの独り言に付き合うよう云った。
「チビっ子、あんたね。いい加減そのオバサンってのやめてよね。アンドヴァリ・チャーチ。それが私の名前。みんなアンと呼ぶわ。だから、次オバサンって呼んだら、お尻を引っ叩くわよ」アンは振り向きざまに腰へ手を添え、そう云うとノルンへ詰め寄った。
「だったら私にだって、ちゃんと名前はあるの。チビでも、チビっ子でも、あんたでもない。ノルンって名前がね」ノルンも負けじとアンへ詰め寄り、こちらは胸を反らせて見せた。
それを他人事のように眺めたオライオンは、ノルンの虚勢に小さく笑い声を挙げ「喧嘩はよそうよ」と割って入った。
「オジサン。今なんで笑ったの?」
「え? いやほら。ああ、そうそう俺にも名前はあるようだからさ、ね」オライオンは、ノルンが不機嫌そうに云ったことに気が付くと慌てて取り繕い話を逸らせた。
なにぶん、オライオンの後ろに崖は広がっていない。詰め寄られれば、氷の巨人の頭へ落ちてしまう。




