第二十話 オジサンは大丈夫
〈奈落〉——第九層。
白灰色の男の半信半疑な問いかけに返ってきたのは、はたして男が夢で耳にしたと思しき女の声だった。夢で聴いたというのは、いささか正確さに欠けるが、男はそうだと直感すると再び訊ね返した。「アンさん、ですか?」
「アンさん? どう云うつもり? まさか揶揄ってる」再び返ってきたのは、やはり男が記憶する声音だった。辛辣な物云いも何故だか懐かしさを感じる。だから、男はノルンへ頷くと、女の声がする方へ急いだ。
監獄地帯はまさにそのとおりで、牢獄が密集し監獄をなしている。個々は背が高かったり低かったりだ。その様子を引いて眺めれば、黒く大きな檻がでこぼこ並んでいるようにも見える。はたして、女の声は監獄地帯のど真ん中を走る太い道の奥から、催促するようにもう一度聞こえた。「オライオンなんでしょ?」
白灰色の男は、声がする牢獄を突き止めると、おそるおそる中を覗き込んだ。
そこに居たのは確かに夢で見た、マリアという女を「お姉ちゃん」と呼んでいたブロンドの女だ。
女は煤を氷で閉じ込めたような寒々しい壁際に背を預け誰かが覗くのを待ち構えていた。そして、ついに牢の隅に見え隠れした白灰色の男の顔を見つけると、飛蝗が跳ねるように体を起こし一目散に柵まで駆け寄った。
女が勢いよく掴み掛かったようだったから、白灰色の男は、けたたましく「ガシャン!」と鳴った柵に驚き、思わずあとずさってしまった。
猛獣に飛び掛かられ、驚き慌てるようにした白灰色の男を面白可笑しく眺めたノルンだったが、小さく笑いながら「おばさん、なんで捕まってんの?」と女に訊ねた。
「おば——え? は? チビ助あんた誰? ちょっとオライオン。説明してよ」随分と心外だったのだろう。それとも不意打ちだったのか。この過酷な環境に置かれ、まさかそう呼ばれるとは思わなかったのだろう。だから女は、ノルンをキッと睨め付け、そうやり返した。
オライオンと呼ばれた、当の白灰色の男といえば、尻餅を着き目を丸くしている。ノルンはそんな惚けた男へ「この人、知ってるの?」と、不躾に女を指差し訊ねた。
檻の中の猛獣は、よっぽどのことがない限り危害を加えては来ない。そういった前提でノルンは口にしているのだろうが、それに白灰色の男は内心ハラハラすると、なぜだか取り繕うようにした。「あああ……いや、知らない。けれど、夢で見た気がする。そう! 夢で見た!」
その答えは、まるで子供の言い訳だ。
※ ※ ※
「ちょーいちょいちょい。本気なの? 本気で云ってる?」
白灰色の男の不器用な気遣いに、目を丸くした女は半ば呆れた様子で云うと、もう一度柵を乱暴に鳴らし両肩を大袈裟に竦めて見せた。きっと男の答えを概ね予想していたのだろう。
「アンさん、ごめんなさい。記憶を失っていて——俺の名前はオライオンなんですかね?」訊ねる相手を間違えているかも知れない。そこはかとなく、そんな雰囲気も見せた男の答えにアン——アンドヴァリは手で双眸を覆い隠すと天井を見上げた。
「うっわ、これ本気の訊きかただ」アンは、見上げたまま、予想が的中したことを嘆くように云った。
これに意地の悪そうな顔をしたのは、ノルンだった。くすくすと笑い「知らないんだったら、先を急ごうよ」と、男の外套の端を、そうと判るように小さく引いて見せたのだ。
見ようによっては、父親を急かす娘のようにも見えたそれに、アンドヴァリは、それに見開かれた目を更に大きくすると「は?」と短く鋭く口にし、咄嗟に男の睨め付けた。まさか、本当に置いていくつもりではなかろうかと伺ったのだ。
「いや、ちょっと待って。それは——流石に酷くない?」男はアンの視線に気付いてる様子もなく、そう答えていた。ノルンは、そうだと判ると、小さな手をひらひらとさせ「はい? 私のことは置いていこうとしたのに?」と、皮肉を口にした。
牢の外の二人。
同じ白灰色の髪に瞳。同じような白の外套。装備。それが、やり合ってるのを見ると、まるで親子にように見えてしまうアンドヴァリは、どこか複雑な表情を浮かべた。
あの後、姉のマリアはどうなったのだろうか?
オライオンが旅から戻ってすぐ。教皇庁から持ち帰った話でコトは決まった。マリアは腹の子のことをオライオンにはまだ告げないとアンを口止めした。告げてしまえば、シュロスを救い出す機会を逸するだろう。そうマリアは考えていたのだ——そして赤月の夜を迎え、まんまと捕縛されてしまった。
様々な感情がアンの胸中に渦まいた。
しかしだ——何がどうなって、牢の外の二人が行動を共にしているのかはさておき、男の方はマリアの夫、オライオン・ヒューレイで間違いない。間違いようもない。それであれば、今はとにかく牢を出て、オライオンと地上に戻るのが先決だ。子供の話は、それからでも良いだろう。マリアなら、きっとそう判断する。
アンは逆巻く感情を整理し、顔を降ろした。
「ねえ、なんでも良いから、ここから出してくれない? ここじゃ音素が描けないし、私、鍵開けの呪文は苦手なの」アンは、目をぐるりと回して、そう云った。
「判ったよ。でも、周囲の状況が……。 ここから出たら、ほら、亡者が沢山居て……その、あの、一人で——」
「そこは、助けてよ。あんた、か弱い女を一人で行かせる気? そんなんだから、お姉ちゃんが苦労するの。本当、趣味悪い」白灰色の男——オライオンの惚けた返答に、察しのついたアンは食い気味に言葉を重ね「ほら、早く」と、鍵を開けるのを急かした。
※ ※ ※
急かされたオライオンは、魔法音素を思い出したばかりだったからなのか、鍵開けを描くのに手間取った。「ねえ、まだ?」とアンに再び急かされれば、更に覚束なくなる。
ノルンは、それを見兼ねて颯爽と鍵開けを描くと、牢獄の鍵はカチリと音を鳴らし、こともなげに開いた。
ここまで、何も起きなかったことが奇妙だったのだ。
アンを見つけ出し、ここが〈奈落〉の底であることを——そう云うわけでもないが——忘れてしまっていたようだ。
鍵は極々小さく、控えめにカチリと音を鳴らしたはずだった。
だが、アンが牢を開き外へ出る頃には、監獄地帯の向こう側、つまり亡者の海の方から腹の底を揺らす咆哮の塊がやってきたのだ。
三人は急いでその場を離れ、牢獄の脇から亡者の海を確認すると、驚くことに一際背の高い亡者が眼窩に火を灯し、こちらを指差している。そして、高らかに何かを叫んでいた。それに呼応するように周囲の亡者たちも金切り声や野太い声で合唱するよう叫んでいる。今にも駆け出しそうな亡者もチラホラと見え隠れしていた。
「やばい、やばい、やばい。これどうすんのよ、オライオン」アンドヴァリは無責任にオライオンの背負袋を掴み背中を激しく揺らした。
「そんなこと、云われても——ところで、俺、本当にオライオンでいいの?」とオライオン。
「今、それ訊くの? そんなことどうでも良いから! 来るよ!」珍しく切羽詰まった声を挙げたのはノルンだった。
ノルンは叫ぶと、監獄地帯の太い一本道の向こうを指差した。
そちらから、あらゆる奇声に混じりドドドドと足元を揺らす音が聞こえてきた。それは、白い粉煙を巻き上げながら、灰色の影の塊が引き連れて来たものだった。
みるみるうちに影を大きくした灰色の塊。その正体が、死に物狂いで三人を目掛け駆けてくる無数の亡者であることは直ぐに判った。
三人は一斉に走り出した。
ノルンは素早く魔法音素を描くと三人へ脚力を補助する魔法を与え、アンは無数の焔の矢で迫り来る亡者を焼き払おうとした。
そうやって、三人はほどなく亡者の一団を振り切れるかと思ったが、ことは急転した。
氷の絶壁を右手に駆けた三人だった。
左手には、幾つもの牢獄がでこぼこと連なり亡者の海を隔てる壁となっている。いわば、一本道だ。
それに油断したのだ。一本道を抜ける土壇場——直ぐそこに氷の巨人の足が見えるところで、牢獄の一つが盛大に開かれ、やはり無数の亡者が飛び出して来たのだ。
幸いに、先頭を走ったノルンとアンが鉢合わせになることはなかった。しかしオライオンと背後に迫った亡者の隙間はひと一人分ほど。
絶体絶命の場面を迎えた。
※ ※ ※
「うわ!」と、情けない声が聞こえた。
ノルンは必死の形相で駆けていたが、その声を耳にすると振り返り絶望的な光景を目の当たりにした。
それは、しんがりとなったオライオンが、まんまと背負袋を掴まれ亡者の群れへ呑み込まれていく光景だった。「オジサン!」
悲痛な叫び声を耳にしたアンも、同じく振り返り、情けなく亡者の群れに呑まれるオライオンを見ると「オライオン!」と、脚を止めようとした。しかし、ノルンはそれを強引に引き留め「だめ! 走って!」とアンの黒外套を引っ張った。
「ちょっと! 何すんのよチビ!」そうは叫んだものの、云われるままに脚を動かしたアンだったがこの場をどうすれば良いのか全く整理できないでいた。だから、その叫びは、八つ当たりだったとも云って良い。アンはそれに気が付くと、眉間に皺を寄せた。
「オジサンなら大丈夫だから!」と、ノルンはアンへ返した。
ノルンの、気休めにしては盛大なもの云いに腹立たしくなったアンだった。「何が——」と、怒鳴りかけた。がしかし、そこで言葉を切ったのは、苛立たしさから言葉を見失ったわけではなく、ノルンの言葉が正しかったことを知ったからだった。
緑色の輝きが、背後から放たれたかと思うと、それまで狩猟者の一団であった亡者の奇声が悲鳴に変わるのが判った。続いて、激しく何かがあちこちでベチャッ!と耳障りの悪い音が鳴るのも判った。
アンは空気が一変すると、駆けながら再び振り返りオライオンを呑み込んだ一団を確認した。「なんなのよアレ——」
目に飛び込んだのは、全身を緑色に輝かせながら亡者の一団の中を駆けるオライオンの姿だった。
緑の尾を引くほどの速さで亡者の河を昇って来るようなオライオンは、赤黒の血煙を撒き散らし亡者の首を斬り飛ばしたかと思えば、別の頭を叩き割っては壁際に投げ飛ばし、二人へ合流しようと駆けて来る。
アンはその姿に「は? あれ魔法でしょ? いつ音素を書いたの」唖然と零した。
「だから云ったじゃん。オジサンは大丈夫だって」どこか誇らしげに云ったノルンだったが、隠しようもない安堵を顔に滲ませていた。
それにアンは、ほとほと呆れた顔を返した。「後で、ちゃんと説明してよね。賭けをするにしたって、これはないわよ。死んだらどうするつもりだったの」
ノルンは、アンの苦情へ「テヘヘ」と返すだけだった。




