第十一話 雪原の看守
ノルンが発見した一本道には、観測した通り亡者の群れは寄り付いていなかった。
よく見れば、直ぐそこまで亡者は寄って来てはいるのだが、どの亡者も道の袂で祈るような膝を折っている。奇妙な光景であった。
二人は、警戒を怠らず道を進んだ。
凍った道の上へ浅く雪が積もっているのだろう。踏み締めると、雪は小さく悲鳴を上げるよう鋭くキュッと音を鳴らしている。
亡者が祈りを捧げる理由。
それは、直ぐに判明した。
道も半ばに差し掛かる頃、二人が目にしたのは、雪煙から滲み出るように姿を現した男だった。
高々とした司教冠と、純白の布と金糸の祭服を羽織っている。金糸が描いたものは、体を捩った蛇が尾を噛む姿、月桂樹といった装飾。一部は、血のような糸で所々描かれていた。
「亡者が祈るわけよね」祭服を一瞥したノルンは、そう云うと問答無用に短剣を抜き放った。
「ちょっと、ノルン——あの人が例の……」ノルンに慌てて云った男は、短剣をしまわせようとしたが、思いとどまった。ノルンの洞察力はきっと正しい。
氷と雪の一本道に立ち塞がった男の顔もはっきりと見えるようになった。最後まで雪煙を引きずったそれが顕になると、眼窩に沿って落ち窪んだ双眸——その奥で、赤色の点が鋭く輝いた。
「そんなわけないじゃん。あれが祈る相手だなんて——」そう返したノルンは、男から少しばかり離れ、祭服の男との間合いをとった。「あれは碌な神様じゃないでしょ」
確かにそうだった。
祭服の男は、滑るように二人との距離を詰め、骨ばった両腕を大袈裟にゆっくりと掲げると口を開いた。
「蔑まれた正義の蛇。その敵対者。母なるプロクティカが与えし二十五文字の簒奪者よ——」男が掲げた両腕、その指先が微かに赤く輝いた。「正義の蛇ユータスの名のもとに、汝ら一文字の神の子らの殲滅を勧告する——」
祭服の指が、緩慢な動きで文字を描き始めた。そのように二人の目には映った。
「あらゆる不義——」続く言葉に合わせるよう、描かれた文字が完成した。その文字は赤く輝き、祭服の頭上に浮かんだ。
ᛏ
「あらゆる悪は正義の源流へ還れ——」
ノルンと白灰髪の男は浮かんだ文字が魔法音素であると判っている。だが、揃って眉を顰めた。文字を描く順が二人とは全く逆だったのだ。これに二人は警戒した。
「この先に在るものは正義の家なり——」
祭服の男の言葉はまだ続き、二文字目を描き始めた。それは素早く逆の順で描かれ、浮かび上がった。
ᛞ
「汝ら簒奪者の末裔が立ち入ることは許されない」更に、祭服の言葉は続き、もう一文字を逆順に描き切った。
ᚷ
祭服の男が逆順の魔法音素を描き切ると、赤色の三文字が激しく輪を描くよう飛び回り始めた。半拍の間、頭上で激しく回った三文字は、何周目かで一塊となると赤色の巨大な水疱と姿を変え奇妙に揺らぎ始めた。
それは、死と氷の世界に浮かんだ、死に絶えた太陽。ともすれば、死を呼び降ろす呪われた血の水疱にも見える。
「逆順の勇気……いや……正義かな。逆順の希望。それを、与える……贈る……、その逆」ノルンは赤の三文字が示す啓示を小さく口にすると、打って変わって素早く文字を描き両掌で強くまとめた。「少しの間、魔法を封殺するから——後は、お願いね!」
ノルンの言葉が耳に届くよりも先に男は動き出していた。
赤の水疱が揺らぎ、何度か跳ねるように形を変えると、周囲へ小さな赤の水疱を撒き散らし始めていたからだ。男とノルンの暗黙の推察が一致していれば、あの水疱は道の袂に跪く亡者の群れへ力を与え、命ある者を呪うだろう。水疱を少しでも浴びてしまえば、この先の旅路は諦めなければならない。希望と対をなすもの。絶望を植え付けられ、あの祭服の男の前に跪くことは容易に想像できた。
ノルンの、あまりにも素早い動きに、どの魔法音素を描いたのか、男にはさっぱり判らなかった。だが、確実にノルンの魔法は周囲を制圧すると、飛び散った水疱をかき消していた。
傍を見れば、水疱を得た亡者が、わらわらと一本道へ登ってきたが、ノルンの魔法はそれを最小限に抑え込んだようだった。
祭服の男の懐へ飛び込んだ男は、職務を表す細長い帯を、むんずと掴むと勢いよく下へ引っ張り、一瞬で体勢を崩しにかかった。短剣を抜くことはなかった。
男は、祭服の下にあるのは肉体ではなく、限りなく骨に近い体躯だろうと見ていた。眼窩が剥き出しになった顔からも、それは想像に難くない。斬りつけたところで、祭服の下の太骨を砕くことは難しいだろう。
それであればと、祭服の髑髏を垂れさせ拳か膝で砕くことを選んだ。
その選択は正しかった。
体勢を崩した祭服の男は、頭蓋を膝に砕かれ、容赦無く叩き込まれた蹴りと拳に、右腕、左脚と順に粉砕されると一本道に沈み静かに眼窩の赤色を消した。その間に、幾許かの反撃を受けた男はといえば、胸に大きな引っ掻き傷、左太腿に裂傷を負うこととなった。
それを確認したノルンは、這い上がってきた亡者の首を器用に刎ねながら、戦域を広げないよう男との距離を縮め、祭服が沈む頃には男と背中を合わせた。「危なかったねえ」とは、云ったもののノルンの表情は余裕そのもの。随分と手馴れた様子を男に見せつけ鼻を鳴らした。
※ ※ ※
「ふえぇー!」
遠くから相変わらず轟音は聞こえるものの、すっかり静けさを取り戻した一本道で、ノルンは気の抜けた声を挙げると、一息吐いた。魔法の封殺が消失したのを確認し男の手当てを済ませ、一休みといったところだ。
「結局、あの骸骨祭服は何だったの——あれも聖魔? それとも亡者の親分?」男も、ノルンに倣い腰を降ろした。道の袂を見れば、いまだに亡者が膝を折って祈りを捧げる姿が、どこまでも広がっている。
「あれね——多分だけど、教会の——どこかの町の司祭だったんじゃないかな。その馴れの果て。第九層に居るってことは、裏切られたのか、裏切ったのか。とにかく、酷い人で無しってことだと思う。だから、そうだね聖魔だね。あれに似たのを見たことない?」ノルンは、祭服の男がかけていた職務を表す細長い帯のことを思い出していた。
「ああ、庭園の教会の前で……」そう云った男は、体をぶるぶると震わせた。弟の頭を齧った貴族男のことを思い出していた。あの場を護符でやり過ごしていなければ——。男は、崩れ去った祭服の男の残骸へ目を向け、再び体を震わせた。「見た、見た。あんなの魔法が使えなかったら詰みだね……おっかない」
男はそう云うと、白灰髪を軽く掻いて苦笑いを浮かべた。
※ ※ ※
祭服の男との一戦を終えた二人は、粛々と一本道を氷の絶壁へ向け歩き始めた。
吹雪くこともなく、数刻もしないうちに絶壁を前にした二人は、とうとう小さな建物が密集する区域へ足を踏み入れた。
氷の絶壁を見上げたが、天井を見ることは叶わず、双眼鏡を最大限に絞ってもそうだった。その絶壁は建物の密集地帯を半ば囲うように、亡者の雪原へ迫り出している。それだからか、一本道よりも耳に届く轟音は、小さく聴こえるように感じる。
耳を澄ませば、密集地帯からは、氷が水に浮かび割れるような乾いた音が聴こえてきた。さらに注意を払えば、声にならない声。何かの呻き声のようなものも混じっている。
よく見れば、小さな建物の一つ一つは牢獄のようだった。
二人は慎重に警戒を怠らず、密集地帯を歩いた。
迫り出した絶壁の向こう側に、氷山のように腰を下ろした巨人を目指さなければならない。そして、教会の聖魔が口にした牢獄。きっとそれは、此処のことだろう。ならば、蛇に挑む蟲の一人が囚われている可能性が高い。もっとも、それが味方なのか敵なのかは、判らないが、会わなければならないことは確かだ。
「誰か、居ますかー!」
「な!」
あろうことか、ノルンの鈴のような声が、氷の監獄地帯に響き渡った。
男は、それに大慌てすると急いでノルンの背負袋を引っ張り口を塞いだ。
「んー! んー!」と、それにジタバタと抵抗したが、男に頭を抑えられ遂には二人でしゃがみ込んだ。
「なーに、考えてんの!」口を塞がれたノルンの耳元に、小さく鋭い男の声が聞こえた。ノルンはそれに、男の手を軽く叩き、判ったからと示した。
「だって、誰か居るなら、この方が早いでしょ?」ノルンは、ペッペッと口の周りに貼り付いた氷粕を吹き飛ばしながら、悪びれる様子もなく云った。
「誰かいるの?」
その声は、勿論ノルンの物ではなかった。
男は、どこか聞き覚えのあるその声に、少しばかり眉根を寄せ考えると、顔をハッとさせた。教会の地下通路を抜け雪原の大傾斜を登っていた時のこと思い出したのだ。窪みの内で深く寝てしまったあの時。水彩画のような夢と記憶の狭間で見た光景。確か声の主人は、〈アン〉と呼ばれていたはずだ。
「アン? さん?」
「——その声は……オライオン?」




