第六十四話 「獲れすぎると、笑うしかない」
64話です。
「……おい。」
最初に口を開いたのは、ランだった。
網の中を覗き込み、魚を一匹持ち上げ、もう一匹持ち上げ、それでもまだ網が動くのを見て、とうとう諦めたように笑った。
「誰だよ。」
「海に魚がいねぇって言ったやつ。」
「昨日のお前だ。」
マリが即座に返す。
浜中から笑いが起きた。
「違う!」
「昨日までの俺だ!」
「今日は信じる!」
「海、すまん!」
「魚、もっと来い!」
「欲張るな!」
笑い声が潮風に乗る。
それだけで、浜が明るく見えた。
先生は網の端を持ち上げ、魚を砂浜へ逃がさないように少しだけ位置を直した。
「並べろ。」
一言だけ。
その声で全員が動く。
もう誰も「どうする」と聞かない。
誰が大きい魚を運び、誰が小さい魚を分け、誰が傷ついた魚を先に処理するか、自然と体が覚え始めていた。
「子ども!」
「小さい魚だけ集めろ!」
「はい!」
「怪我人は無理すんな!」
「俺は怪我人じゃねぇ!」
「昨日まで寝込んでただろ!」
「今日は治った!」
「便利な体だな!」
また笑いが起きる。
昨日まで怯えた顔をしていた男が、魚を抱えて走っている。
戻ってきた女は、干物用と今日食べる分を迷わず分けていた。
先生は何も教えていない。
もう教える必要がない。
「先生!」
ランが魚を両腕いっぱいに抱えたまま叫ぶ。
「まだいる!」
「当たり前だ。」
「当たり前なのかよ!」
「網を見ろ。」
網はまだ海の中で脈打っている。
魚が暴れるたび、水しぶきが朝日に光る。
「もう一回引くぞ!」
知らない漁師が笑う。
「まだ半分も上がってねぇ!」
「嘘つけ!」
「本当だ!」
「海の神様、今日だけ機嫌良すぎる!」
「だから神様にするな。」
先生がぼそりと言う。
「潮だ。」
「夢のねぇ先生だな!」
「夢で魚は獲れない。」
「それもそうだ!」
浜は、腹を抱えて笑った。
二度目の網が上がる。
一度目より重い。
十人では足りない。
十五人が綱を握る。
「せーの!」
「せーの!」
砂が削れ、足が埋まり、それでも誰も手を離さない。
ようやく浜へ上がった網を見て、今度は誰も笑わなかった。
「……まだ、こんなに。」
魚が山になっていた。
本当に山だった。
「干す場所。」
マリが呟く。
全員が顔を見合わせる。
そして。
「ねぇ。」
ランが笑い始める。
「先生。」
「なに。」
「困った。」
「そうだな。」
「魚が多すぎる。」
「そうだな。」
「初めてだ。」
「そうだな。」
「全部先生のせいだ。」
「潮のせいだ。」
「責任転嫁した!」
爆笑。
笑いすぎて、その場に座り込む者までいる。
先生は板を立てた。
困ったこと
↓
魚が多すぎる
板を見た瞬間、また笑いが起きた。
「そんな困り方してみてぇ!」
「今してる!」
「贅沢だな!」
「昨日まで一匹で喧嘩してたのに!」
子どもたちが魚の山の周りを走り回る。
「先生!」
「何だ。」
「数えられない!」
先生は魚の山を見た。
少しだけ考え、チョークを走らせる。
一匹ずつ数えるな。
籠で数えろ。
ランが板を見て、ぽんと手を打つ。
「そうか!」
「一籠何匹か決めりゃいいのか!」
「五十!」
「いや六十!」
「お前適当だろ!」
「数えろ!」
「先生が一番適当じゃねぇか!」
「適当じゃない。」
先生は静かに言う。
「楽をしろ。」
その言葉に、浜が静まる。
「数えるために働くな。」
「働くために数えろ。」
誰も何も言わない。
だが、次の瞬間には籠が並び始めていた。
魚が五十匹入る籠。
いっぱいになれば印を付ける。
また五十。
また五十。
「早ぇ!」
「昨日まで夕方までかかってたぞ!」
「先生!」
「何だ。」
「俺たち賢くなってねぇ?」
先生は少しだけ笑った。
「前からだ。」
「気づかなかっただけだ。」
その一言で、浜中の空気が変わる。
誰かが歓声を上げた。
「先生!」
「港の外!」
全員が振り向く。
沖に、舟が並んでいる。
一艘。
二艘。
三艘。
いや、もっとだ。
知らない旗。
知らない顔。
知らない漁村。
だが、その全員が。
この浜を見ていた。
魚が山になった浜を。
笑い声が響く浜を。
そして、その中の一艘から誰かが大声で叫ぶ。
「おーい!」
「その漁!」
「どうやったんだぁぁ!」
浜中の視線が、一斉に先生へ集まった。
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