第六十三話 「二艘で引くと、海が笑う」
63話です。
朝焼けが海を赤く染める頃には、浜にはもう人が集まっていた。
昨日現れた見知らぬ漁師が、腕を組んだまま沖を眺めている。
誰も急かさない。
だが、誰も帰ろうともしない。
何かが始まる。
そんな空気だけが浜に満ちていた。
「……で?」
ランが欠伸をしながら男を見る。
「昨日の続き、聞かせてもらおうか。」
男は沖を指差した。
「潮が曲がってる。」
「見りゃ分かる。」
「分かってねぇ。」
男は鼻で笑う。
「魚は真っ直ぐ泳がねぇ。」
マリが首を傾げる。
「何が言いてぇ。」
男は砂浜に棒で線を書き始めた。
一本。
もう一本。
その二本をゆっくり近づける。
「舟を二艘使う。」
「は?」
「網を一本じゃなく、二艘で引く。」
浜が静まり返る。
「そんなことしたら網が絡まるぞ。」
「舟同士ぶつかる。」
「潮に持ってかれる。」
次々と否定が飛ぶ。
男は全部聞き流した。
「だから、お前らは魚が逃げる。」
先生は黙ってその図を見ていた。
棒を受け取り、一つだけ線を書き足す。
潮の流れ。
男が初めて笑った。
「……分かるじゃねぇか。」
先生は答えない。
代わりに板を立てた。
魚は逃げる。
逃げ道を作るから。
ランが頭をかく。
「つまり?」
先生は短く言う。
「逃げ道を閉じる。」
……
十分後。
浜中が走っていた。
「おいロープ!」
「長い方持ってこい!」
「その網じゃ短ぇ!」
「子どもは杭押さえろ!」
「おいマリ!」
「縄踏むな!」
「踏んでねぇよ!」
「踏んでる!」
「先生ぇぇぇ!」
「お前ら朝からうるせぇ!」
笑いが起きる。
昨日まで重かった空気が嘘みたいだった。
二艘の舟が並ぶ。
ランが一艘。
見知らぬ漁師がもう一艘。
「……ぶつけんなよ。」
「お前こそ。」
「沈めたら笑うぞ。」
「笑えねぇよ!」
浜から爆笑が起きた。
先生が静かに手を上げる。
「行け。」
二艘が同時に沖へ出る。
網がゆっくり海へ沈む。
浜から見ると、まるで海に一本の壁を作るようだった。
「……本当にやるのか。」
マリが呟く。
「失敗したら?」
誰かが言う。
先生は答えない。
海だけを見ている。
沖で二艘が少しずつ離れる。
そして。
ゆっくり弧を描き始めた。
「引けぇぇぇ!」
ランの声が風に乗る。
二艘が同時に櫂を入れる。
網が張る。
次の瞬間。
「……重っ!」
ランの顔が引きつる。
「おい!」
「引けねぇ!」
向こうの舟から怒鳴り返す。
「魚だ!」
「切るな!」
「切れる!」
「踏ん張れぇぇ!」
浜中が総立ちになった。
「行けぇ!」
「負けんな!」
「あと少し!」
ロープが軋む。
木が鳴る。
網が震える。
そして。
海面が――
爆発した。
銀色。
銀色。
銀色。
何百匹もの魚が朝日に跳ね上がる。
「うおおおおおおっ!!」
歓声が浜を揺らした。
「何だあれ!」
「嘘だろ!」
「跳ねてる!」
「全部魚だ!」
ランは必死に笑っていた。
「重ぇぇぇぇ!」
「笑ってる場合か!」
「手伝えぇぇ!」
浜から十人以上が海へ飛び込む。
ロープを掴む。
一斉に引く。
「せーの!」
「せーの!」
「もう一回!」
網が浜へ近づく。
魚は暴れ続ける。
子どもたちが目を丸くした。
「先生!」
「先生!」
「魚が!」
「魚が逃げ切れない!」
先生は小さく頷いた。
「そうだ。」
「逃げ道がない。」
最後の一引き。
網が砂浜へ乗り上げた。
次の瞬間。
浜が静まり返る。
誰も声を出さない。
網いっぱいに詰まった魚。
昨日まで一日かけて獲っていた量が、
一度でそこにあった。
風だけが吹く。
ランが魚を一匹持ち上げる。
震える声で笑った。
「……おい。」
「これ。」
「何日分だ?」
誰も答えられない。
見知らぬ漁師が腹を抱えて笑った。
「だから言ったろ。」
「海は変わってねぇ。」
先生が板にゆっくり書く。
海は同じ。
変わったのは、人だ。
その一文を見た浜中の人間が、
一斉に笑い始めた。
笑いながら魚を抱え、
笑いながら網をほどき、
笑いながら浜中を走る。
その笑い声は、
今までで一番遠くまで響いた。
そして、その笑い声を、
沖合から静かに見つめる一隻の船があった。
王都の旗が、
朝日に揺れていた。
誤字脱字はお許しください。




