第六十二話「流れが集まると、海が変わる」
62話です。
浜は、しばらくのあいだ騒がしかった。
海から引き上げた人間を寝かせ、濡れた服を脱がせ、水を回し、怪我の様子を見ているうちに、時間はいつの間にか昼を過ぎていて、誰もが疲れているはずなのに、手だけは止まらなかった。
難破した舟の連中は、まだ震えていた。
潮の匂いと恐怖が混ざった顔をしている。
子どもは黙って干物を握っているし、大人は礼を言おうとしてうまく言葉が出ない。
浜の端では、王都の兵が濡れた靴を脱いでいた。
宗教の女は、祈りの言葉を口の中だけで唱えている。
帳面屋は、濡れた帳面を乾かすように広げていた。
誰も、先ほどの衝突について話さない。
海が荒れた時は、そういうものだった。
人は、まず動く。
あとから意味を考える。
先生は、板の前に立っていた。
だが、しばらく何も書かなかった。
浜には人が増えている。
さっき数えた時は二十七。
今は、もう少し多いかもしれない。
だが、数を叫ぶ声は出ない。
皆、さっき海で叫びすぎて、喉が枯れていた。
ランが、濡れた網を絞りながら言った。
「……先生」
先生は振り向かない。
「なに」
「これ、もう村じゃねえな」
少し間があった。
マリが、干し場の木を直しながら笑う。
「さっき帳面屋も言ってただろ」
「港だって」
先生は、その言葉にすぐには答えなかった。
海の方を見ている。
難破した舟の破片が、まだ波に揺れている。
沖の潮は少し強くなっていた。
風も、さっきより冷たい。
「……港じゃない」
先生は、ようやく言った。
「じゃあ何だよ」
ランが聞く。
先生は、板に一行だけ書いた。
流れ
↑
集まる
マリが眉をひそめる。
「……それ、意味あるか?」
先生は振り向く。
「意味は、あとで付く」
「今は」
一拍置く。
「流れを止めない」
その時だった。
沖に、また舟が見えた。
誰かが気づいて声を上げる。
「……おい」
「まだ来るぞ」
全員が海を見る。
舟は、三艘。
整った形ではない。
だが、逃げている舟でもない。
ゆっくり進んでいる。
「……漁だな」
ランが言う。
「違う」
先生は、短く言った。
舟の動きが違う。
網がない。
代わりに、荷がある。
舟が浜へ近づく。
降りてきたのは、知らない男だった。
日焼けした顔。
だが、目は鋭い。
男は浜を見渡し、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……噂は本当か」
誰も答えない。
男は続ける。
「ここ、逃げてきた人間を止めないって聞いた」
ランが肩をすくめる。
「止めてねえ」
男は、ゆっくり頷いた。
「なるほどな」
そして、海を見た。
難破した舟の破片。
浜の人数。
干し場の列。
水桶の数。
全部を、見ている。
「……ここ、潮いいな」
誰かが笑う。
「今それ言うか」
男は真顔だった。
「本当だ」
「沖の流れ、曲がってる」
先生が、初めてその男を見た。
「漁師か」
「まあな」
男は答える。
そして言った。
「この潮なら」
少し考える。
「もっと獲れる」
浜が、静かになる。
今の話は、逃げてきた村人でも、王都でも、宗教でもない。
漁の話だった。
ランが目を細める。
「……獲れる?」
男は頷く。
「舟を二艘並べろ」
「網を長く張れ」
「この潮の曲がりなら」
少し笑う。
「魚が逃げ場なくなる」
沈黙。
先生は、板に新しい線を引いた。
流れ
→
魚
マリが、ゆっくり言う。
「……先生」
「なに」
「これ」
一拍。
「港の話じゃなくなってきたぞ」
先生は、チョークを置いた。
「そうだ」
そして言う。
「漁の話だ」
海は、変わっていない。
潮も、風も、昔と同じだ。
変わったのは、浜だった。
人が増えた。
舟が増えた。
目が増えた。
それだけで、
海の見え方が変わる。
沖の波が、少し高くなる。
誰かが言う。
「……先生」
「なに」
「これ」
遠くの潮を見る。
「魚、溜まってないか」
先生は、少しだけ笑った。
「溜まってる」
浜が、動く。
干物ではない。
舟だ。
ここから先は、
逃げる話ではない。
むむむ。展開が遅いですね。




